老人。異世界の歩き方
荒々しい気候の中、ぽつんと一つ建つ木造の小屋があった。
中に入れば、外の喧騒とした世界など何処吹く風、ピシャッと戸を締められた小屋の中には、聴こえはするも、気にならない。
それほど厳かな雰囲気ある小屋だ。
そんな中、厨房に隣接された長テーブルに、いったりきたりと振り子のように身体を揺らして座る初老(六十くらい)の老人が一人、昔ながらの平笠ライトに照らし出されていた。
まるで何かを待ち侘びるように、今か今かと何度も厨房にいる一人の男性に熱心に目線を向けていた。
そして男性が玉と粒となった汗を拭い、「ふぅ」と小さく息を吐き出したのを見て、ようやく完成したのだと悟り身体の揺れは治まった。
厨房の男性はくるりと完成した品を老人に向ける。
手にした品を見ると、老人は一瞬、顔を明るくさせて、でもすぐにコホンと一つ咳払いをして、厳粛な顔へと戻る。
「⋯⋯こちらが、私が十五年掛けて編み出した-究極の”うどん”です」
天井には鍼が見え、昔ながらの家屋の約十二畳の小さな空間の隅のテーブルに、陶器の置かれる音が、静かな空間に重々しく響く。
「ほぅ、これが⋯⋯」
老人は興味津々とばかりに上体を寄せ、鼻を小刻みに動かし、その重い瞼に隠れた瞳をかっ開く。
そこにあったのは、真っ黒な麺だった。
はて、これは器が黒いせいで見えないのか、はたまたそこには何も無いのかと覗き込めば、器の中に、幾重にも重なり光沢放つ麺が存在していた。
「⋯⋯なんじゃこれは」
老人は思わずそう呟いた。
「うどんです」
老人が顔を持ち上げれば、屈託のない満面の笑みを浮かべる男性。そこには雲一つ陰りのない純粋な瞳を宿していた。
「⋯⋯なるほど」
老人はまた一つ咳払いをして、暫し目を閉じた。
邪念は捨てよ。
老人はそう何度も自分に言い聞かせ、そして目を開く。
そこにあるのは器同様、真っ黒なうどんだった。
夢では無い-。老人は驚きのあまり思わず息が詰まり、むせる。
「師匠、大丈夫ですか!?」
何故黒い?何故うどんが黒いのだ?
その言葉が老人の頭の中をぐるぐると駆け巡る。それが喉まで出かかって、必死に堪えた。
「おぉ⋯⋯あ、あぁ。大丈夫だ」
男性は心配そうな顔をして老人の背中をさする。
あぁ、相も変わらず彼は優しい心の持ち主。育てた弟子の中で一番才能があり、素直だった彼。
「良かった」
決してお前のせいだなどと、言えようも無かった。
「そろそろ師匠は歳なんですから。少しは旅などせずに身体を労るべきです」
⋯⋯やはりお前のせいだと言いたくなった。
老人はコホンとまた一つ咳をして、「では」と、置かれた箸を手にして器へと伸ばす。
その黒いうどんを箸で持ち上げてみれば、今まで閉じ込められていた新たな香りが鼻をつく。
ふむ。これは醤油。山椒も混ぜ込んでおるな。そして出汁⋯⋯ん?出汁?なんだか焦げ臭い。
チラッと持ち上げたうどんの下を覗けば、うどんに埋もれるように、何やら黒い物体が鎮座していた。
「あぁ、それは~~の肉です!」
老人の見ている先に気付いて男性-弟子は明るい声で答える。一点の曇りもない、ハキハキとした声で。
「ん?今なんて言った?」
しかし老人には聞こえない。
決して聞こえなかったわけではない。彼の発言が理解できなかったのだ。
「ドラゴンの肉です!」
「⋯⋯はぁ?」
老人は、持つ箸からうどんが抜けた事にも気付かず、口をあんぐりとさせた。
彼はそんな老人を置いてけぼりにするが如く、語りだす。
「えぇ。ドラゴンと一括りに言っても、様々でして。僕が今回採用しているのはサラマンダーの子供の肉です!さすがに大人のサラマンダーには手が出せませんが、子供の方が柔らかく食べやすいので、こちらの方が捕獲も簡単で有難く思っています!で、この山椒に似た香りを放つのが呪いの樹木から採れるエキスでして!えぇ、師匠も知っての通りマンドラゴラの一種です!引き抜いて死の叫びを叫ぶ直前に、逆に命を刈り取る事で、驚きのあまり流す数滴の涙をうどんに落とさせてもらってます!次に醤油なのですが!」
「ちょっと待てーーーい!」
ようやく口を挟めた老人は息も絶え絶えに、肩で荒い呼吸を繰り返しながら思わず下を向く。
下には真っ黒なうどんが待ち構えていて、老人はぐにゃっと揺れる視界に、現実かどうかの区別がつかず、思わず身体がよろけた。
椅子から転げ落ちそうになる-しかしそれは弟子によって防がれた。
「大丈夫ですか師匠!?」
「おぉ⋯⋯」
幸か不幸か、弟子は老人を軽々支え、その頼りがいのある両手は、間違いなくうどんを捏ねて培った筋肉であり、嬉しいと共に、ここは現実なんだといやでも知ってしまう。
と、言うのも。
こんな静かな小屋の中、ドスンドスンと聴こえる明らかに怪しげな物音。
稀に聴こえるのは、聞いた事のない獣のような断末魔。
本当は聴こえていた。聴こえていたが、老人は努めて無視を決め込んでいた。
しかし除外していたそれが、今の老人には現実だと降り掛かってくる。
「のぉ、弟子よ。さっきから聞こえる音は一体⋯⋯」
「あぁ。今朝マールが仕入れた竜人を捌いているんですよ!」
老人の視界は再びぐにゃっと形を変える。しかし弟子に支えられ、椅子から落ちることはなかった。
りゅうじんってなんだ?マールって誰だ??
その問いに答えるかのように、奥の暖簾から腕までが現れて、こちらに手を振る。
「嫁のマールです。ドラゴンに掛かりきりですみません」
弟子はそう語るも、その暖簾から覗く奥さんの腕がやたら太いなんてもんじゃない。まるで丸太だ。逞しすぎる。
よく見れば、その手には小さなトカゲの尻尾のようなものが握られていた。
玩具かと思ったが、振る手のせいで尻尾から血が飛び散り、リアルだと悟る。
それに玩具のように見えたのは、奥さんの逞しい腕のせい。実際は人の腕ほどはあるだろう。
ついに老人は限界を迎えて、弟子に縋りつく。
「いったいっ⋯⋯一体、君はどうしたというのだぁぁぁあああああああッ!」
その老人の声に彼は満面の笑みを浮かべた。
「これが私の辿り着いた世界です!」
三度、老人の視界はぐにゃっと揺れた。
それは老人の身体が椅子から転げ落ちていたからだ。
スローモーションに景色が進み、焦る弟子が急いで手を伸ばすも間に合わない。
一体⋯⋯一体、ここはどうなっているんだ。
老人が浮かべていた最初の疑問が、ちょうど窓に映りこんだ獣を見て思い出す。
その獣は顔の真ん中にある大きな一つの目をぎょろりと動かして老人と目が合うと、目の下にあった三日月の口がニタリと開いて、ギラついた歯を輝かせた。
⋯⋯あぁ。一体⋯⋯。
「ここは⋯⋯ど、こ⋯⋯」
老人はそう言い残して、床に倒れ込んだ。
小屋には心配して身体を揺する弟子と、暖簾から飛び出てくる二メートルはあろうタンクトップの女性。
慌ただしくする中、外も同様に天気は絶え間なく変わり続け、辺りには地球には存在していなかった生物が闊歩していた。




