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面接:死角の狩人


グレイズアイの黒い液体が床に広がっている。


踏むと、靴底に温度が返ってきた。冷たい。冷たいのが嬉しい。温度があるというだけで、世界がまだ測れると分かるからだ。さっきまで「無」だった足の裏に感覚が戻ってくる。痛みと冷たさ。両方とも、生きている証拠。


《空間把握》の線に、色が戻り始めている。薄い赤。まだ完全じゃない。グレイズアイが食い散らかした情報の残骸が、空間のあちこちに穴を開けたまま塞がっていない。でも、線が引ける。引けるだけで十分だ。


ミラは残骸を跨いで先へ行く。振り返らない。呼吸が乱れない。乱れた髪だけが、さっきの三十秒が本物だったと証明している。その髪を直す仕草すらしない。直す必要がないと判断しているのか、直す余裕を見せたくないのか。どちらにしても、この女は前しか見ない。


画面端の同接は八桁のまま落ちない。落ちないどころか、末尾が生き物みたいに跳ね続けている。千万人の目が、まだこの画面に張り付いている。


コメント欄が、熱に戻っていた。


『#神カメラ トレンド入ったw』

『今の横顔、映画すぎる』

『声聞こえた。左後ろって叫んでた』

『台本勢、土下座しろ』

『MIRAの戦闘が綺麗すぎて怖い』


神カメラ。


その単語が、まだ胸の奥で熱い。熱いのに、口に出したら冷めそうで、出せない。噛み締めるだけにする。噛み締めたら奥歯が鳴った。さっきから歯を噛みすぎて、顎の関節が痛い。


ミラが言う。


「止まらないで」


命令の形をしていない。ただ、前へ行くための言葉。止まったら死ぬ場所で、止まらないでと言うのは、優しさなのか残酷さなのか。たぶん、どちらでもない。事実だ。


俺はカメラを握り直す。《微風》の楕円を整える。指先で魔力の出力を微調整し、歪みを正す。レンズは曇っていない。


そして——ミラの右手を見ないようにする。


見たら数えてしまう。数えたら確定してしまう。確定したら、俺の胸が重くなって、カメラが揺れる。揺れたら画面が死ぬ。


だから見ない。


見ないのに、目の端だけが拾ってしまう。剣を握り直す指。関節の内側に浮かぶ赤い線。震えを消す動作が、一回ごとに遅れていく。


——映さない。映してはいけない。


通路が狭くなった。


天井が低い。六メートル。壁が近い。黒い花崗岩。研磨が均一すぎる。人工。空気中の魔素密度がまた上がっている。入口区画の一・七倍。深くなっている。


床の溝がまた走っている。一本、二本、三本。同じ本数。でも、溝の幅がさっきより広い。深さも違う。奥へ行くほど、境界が太くなる。太い境界は、踏んだときの「切り替わり」が大きいということだ。


跨ぐ。踏まない。


踏まないことが正解の場所は、踏ませるために作られている。正解を知っている人間だけが生き残る。知らない人間は——考えるな。考えたら足が止まる。


「佐久間」


無感情に呼ばれる。なのに、呼ばれるたびに胸が鳴る。犬みたいで嫌だと思っていたのに、いつの間にか鳴ることに慣れ始めている。慣れたことが、少しだけ怖い。


「次、走る」


走る。この狭い通路で。溝だらけの床で。


走ると言った瞬間、最悪の絵が浮かぶ。足が溝を踏む。床が「切り替わる」。何かが起きる。画面が死ぬ。俺が死ぬ。


でもミラの声に迷いがない。迷いがないということは、走っても溝を踏まない動きを、最初から身体に持っているということだ。


俺にはない。その動きは。


でも、《空間把握》がある。溝の位置は見えている。幅も深さも間隔も、全部見えている。見えている限り、跨げる。


——たぶん。


俺は喉の奥で唾を飲み込んだ。粉塵の残骸がざらつく。痛い。痛いのはいい。痛みは目を覚ます。


ミラが走った。


速い。


さっきの「配信用」の速度ではない。通路の壁が後ろに流れる。靴底が床を蹴る音が、短い間隔で連打される。溝を跨ぐ。跨ぐ。跨ぐ。一度も踏まない。溝の位置を見てすらいない。体が覚えている。この通路の構造を、足の裏が知っている。


——何度もここを通っているのだ。この女は。


俺も走る。カメラを構えたまま。左斜め。常に左。


《空間把握》が溝の位置を高速で描く。赤い線が足元を走り、「ここを踏むな」「ここは安全」「この幅なら一歩で跨げる」と情報を叩きつけてくる。脳が処理する前に足が動く。処理を待っていたら間に合わない。情報を見て、考えずに動く。考えずに動くのは——《完全回避》の領域だ。


回避スキルで溝を跨いでいる。生き残るためじゃない。画面を生かすために。


通路の角が来た。


角を曲がった瞬間、視界が切り替わる。壁が近い。天井が低い。死角が——増える。


壁が近いほど死角は鋭くなる。角の向こう側が見えない。見えない場所は「欠け」だ。情報がない場所。何がいるか分からない場所。


死角は刃だ。見えない刃は、一番よく刺さる。


《空間把握》が角の向こうに線を伸ばす。伸ばして——「欠け」を拾った。


温度がない筋。音が反射しない場所。空間が薄くなっている。グレイズアイが残した穴ではない。新しい欠け。動いている。


——来る。


角の向こうから、何かが飛び出した。


小さい。体長二十センチ。黒い塊。丸みのある甲殻。脚が八本。蜘蛛と甲虫の中間みたいな体型。体表はグレイズアイと同じ黒い陶器の質感だが、こちらは艶がない。乾いている。


そして背中に——目が一つだけある。


丸い。黄色い。グレイズアイの目と同じ色。同じ種の、小型版。いや、眷属。グレイズアイの体表に張り付いていた無数の目の一つが、独立した個体になったような生き物。


目が開いている。


開いている間、そいつの周囲の空間が「欠けた」。映像の一部が滲む。画面のその部分だけが解像度を失う。


ミラが吐き捨てた。


「ブラインドティック」


名前を言う余裕がある。格下だという判断。ブラインドティック。視線を盗む虫。


一匹だけじゃなかった。


壁に。天井に。角の向こうに。


三。五。七。十。まだ増える。黒い甲殻が壁面に貼り付いて、背中の目を一斉に開いた。開いた瞬間、通路のあちこちで空間が欠けた。


画面が——穴だらけになった。


映像の中に、黒い斑点が散らばる。斑点の中は何も見えない。解像度がゼロになった場所。ブラインドティックの目が開いている場所の映像が、まるごと消えている。


コメント欄がざわついた。


『画面、欠けた!』

『何これバグ?』

『穴あいてる、映像に穴あいてる』

『敵が配信殺しに来てる!!』


配信殺し。


そうだ。こいつらは攻撃しない。噛まない。殴らない。こいつらの武器は「映像を盗む」こと。目を開けて、空間から情報を吸い取り、画面に穴を空ける。


グレイズアイが「情報を食う」大型なら、ブラインドティックは「映像をかじる」小型の群体。


ミラの剣が光った。


走りながら、一匹目を斬る。斬った瞬間、甲殻が砕けて黒い粉が弾けた。目が閉じる。閉じた瞬間、その場所の映像が戻る。穴が塞がる。


——目を閉じさせれば止まる。


ミラは走りながら二匹目を蹴った。壁に張り付いていた個体を、ブーツの先で弾く。弾かれたブラインドティックが床に落ちて、仰向けになる。仰向けになると背中の目が床に押し付けられて、「欠け」が止まる。


三匹目を剣で叩き潰す。四匹目が天井から落ちてくる。ミラは落ちてくる軌道の下を潜り抜けて、振り返りざまに斬り上げた。氷の膜を纏った刃が、甲殻を斜めに割る。


速い。正確。一匹に一手しかかけない。無駄がない。


でも——数が多い。


五匹目。六匹目。七匹目。斬っても斬っても壁から剥がれて飛んでくる。斬った破片から黒い粉が舞う。粉が空気に混ざって、視界が汚れる。粉塵がレンズに向かう。結露じゃない。固形の粉塵。拭ける。拭けるが、拭いている暇がない。


《微風》の出力を上げる。レンズの前の気流を強くして、粉塵を弾く。弾けている。まだ弾けている。


ミラの動きが美しい。狭い通路の中で、壁を蹴り、天井を蹴り、溝を跨ぎながら剣を振る。光の軌跡が残像になって、闇の中を青白い線が走る。


美しいが、この狭い通路では——死角が増える。美しい大振りの斬撃ほど、振り終わりの背後が空く。


ブラインドティックが狙っているのは、ミラじゃなかった。


ミラは強すぎる。斬られる。潰される。凍らされる。正面からでは勝てない。


だから——回り込む。


ブラインドティックの群れが、ミラの斬撃を避けて散開した。壁を這い、天井を走り、ミラの周囲から距離を取る。取った距離の先に、何がある。


俺だ。


俺のカメラだ。


《空間把握》が「欠け」の筋を追う。ブラインドティックの移動ルート。壁面を這う八本脚の軌跡が、温度の薄い筋として残る。筋が——レンズに向かって集まっている。


狙いは、レンズだ。


カメラを壊せば画面が死ぬ。画面が死ねば配信が止まる。配信が止まれば「注目」が途切れる。注目が途切れれば、こいつらの天敵であるミラが「数字」を失う。


賢い。虫のくせに、配信のルールを理解している。


俺の喉が動いた。


「上、右。二匹。レンズに来ます」


声を落とす。息に近い音量。でも明確に。情報を、最短で。


言った瞬間、ミラの重心が揺れた。揺れは迷いじゃない。受信だ。情報を受け取って、処理して、判断を出すまでの時間。


ミラは振り返らなかった。振り返らずに、左手を横に出した。掌に魔法陣。小さい。密度が高い。


「凍れ」


氷の板が空中に生まれた。紙みたいに薄い。でも硬い。ブラインドティックの突進だけを止める最小限の厚さ。必要以上の魔力を使わない。この女は戦闘中ですら「効率」を手放さない。


二匹のブラインドティックが氷板に激突した。甲殻が氷に貼り付いて、背中の目が凍る。目が閉じる。空間の欠けが止まる。画面の穴が塞がる。


——間に合った。


俺のレンズは無事だ。


コメント欄が弾けた。


『守った!!』

『カメラマンがコールしてMIRAが守った!!』

『この連携なに!?』

『神カメラ 仕事してるぅぅぅ』

『いつの間にか二人で戦ってるじゃん』


二人で戦っている。


その言葉が、目の奥を熱くした。


戦っていない。俺は一匹も倒していない。剣も振れない。魔法も《微風》しか使えない。


でも、情報を出した。死角を伝えた。ミラがそれを受け取って、動いた。


俺が見て、ミラが動く。


それは——戦っている、と呼んでいいのだろうか。


ミラが言った。背中越しに。走りながら。息一つ乱れない声で。


「死角、続けて」


続けて。


命令の形をしていない。「やれ」でも「見ろ」でもない。「続けて」。


今やっていることを、そのまま続けろ。お前がやっていることは「正しい」から。


そう聞こえてしまったのは、俺の願望かもしれない。でも——指の震えが止まった。


役割。


パーティにいたとき、俺には役割がなかった。荷物持ち。罠解除の補助。予備がある仕事しか回ってこなかった。予備があるから、俺がいなくても回る。いてもいなくても同じ。


今は違う。


俺がいなければ、ミラの死角は空く。死角が空けば、ブラインドティックがレンズを殺す。レンズが死ねば画面が死ぬ。画面が死ねば——


全部繋がっている。全部が全部に繋がっている。


そして今、その鎖の一つに、俺がいる。


ブラインドティックの群れがまだ壁を這っている。斬っても斬っても湧いてくる。数が減らない。


いや——減っている。少しずつ。ミラの斬撃は一匹一殺で正確だ。天井の個体を氷で固め、壁の個体を蹴り落とし、床の個体を踏み潰す。


でも群れの動きが変わった。散開をやめて、収束し始めている。


《空間把握》が欠けの筋を追う。壁を這う軌跡が一点に向かっている。集まっている。何のために。


——嫌な予感がする。舌の裏に鉄の味。恐怖の味。


ブラインドティックの群れが、天井の一点に集まった。重なり合って、甲殻の背中を外に向けて——球体になった。


黒い球。直径六十センチ。表面に、目が並んでいる。全部の目が同時に開いている。


一匹なら小さな「欠け」しか作れない。でも十匹が重なれば——


球体の全部の目が、同時に光った。


空間が、大きく欠けた。


画面の半分が消えた。


コメント欄が悲鳴に変わった。


『画面!!半分消えた!!』

『見えない!何も見えない!!』

『MIRAどこ!?』

『配信落ちた!?——いや落ちてない、半分だけ死んでる!』


半分。画面の右半分が黒い穴になっている。映像がない。情報がない。音もない。


左半分だけが生きている。


左半分——俺のカメラの左斜めのアングル。ミラの左顔。左肩。左腕。


左だけが、生きている。


右半分の死角に、何がいるか分からない。ブラインドティックの球体が右側の空間を丸ごと食った。右から何かが来ても、俺には見えない。《空間把握》の線すら、右半分は「欠け」で塗り潰されている。


ミラが走っている。走りながら、右半分が見えていないことに気づいている。気づいていて、足を止めない。


——俺が見る。


右半分が消えている。でも「欠け」の形は分かる。欠けの輪郭を追えば、何がいるか分からなくても、「何かがいる場所」は分かる。


穴の形を読む。穴の中に何があるか見えなくても、穴の縁は見える。縁の動きで、中身を推測する。


《空間把握》を「欠け」だけに集中させる。見えないものを追うのではなく、「見えなくなった境界線」を追う。


境界線が動いた。


右後方。距離二・三メートル。高さ、肩甲骨。欠けの塊が——ミラの背中に向かって、一直線に伸びている。


太い欠け。ブラインドティックの球体が、丸ごとミラの背中に突撃しようとしている。


今度は息じゃ足りない。音を落としたら間に合わない。


「右後ろ! 二・三! でかい!」


声が配信に乗った。何百万人に聞こえた。聞こえていい。俺はここにいる。俺の声は、ここにある。


ミラが動いた。


振り返らない。振り返らずに、右足をずらし、左肩を落とし、剣を背中の後ろへ振った。


斬撃ではない。背中の後ろの空気を叩く一撃。剣の軌道に沿って、氷の膜が弧を描いた。薄い。透明に近い。でも、通路の幅いっぱいに広がる弧。


ブラインドティックの球体が、氷の弧に激突した。


甲殻が砕ける音が連鎖した。一匹。二匹。三匹。球体が崩れて、ブラインドティックがばらばらに弾け飛ぶ。弾けた個体の目が一つずつ閉じていく。


閉じるたびに、画面が戻る。


右半分の黒い穴が、少しずつ塞がっていく。映像が戻る。色が戻る。音が戻る。世界の右半分が、情報を取り返していく。


コメント欄が、また一瞬だけ止まった。


止まって——洪水になった。


『戻った!!!!画面戻った!!!!』

『今のコールで全部救った!!』

『右後ろ二・三でかい ←これ完全に戦術指示じゃん』

『カメラマン、戦闘参加してる。してるよな??』

『ヤラセなら暗記量やばい。ていうか無理。本物』

『神カメラ 固まったな。もう動かない』


本物。


もう誰も「ヤラセ」と言っていない。


ミラが低く笑った。怖い種類の笑みじゃない。当たらなかった笑い。かわした後の、一瞬だけの弛緩。


そして言った。


「……悪くない」


悪くない。否定の否定。褒めてはいない。でも落としてもいない。


さっきの「死角、続けて」が役割の承認なら、この「悪くない」は——成果の承認だ。


お前がやったことは、悪くなかった。


ミラの語彙の中で、それがどの位置にあるのか、まだ正確には分からない。分からないけれど、胸の奥が熱いのだけは確かだ。


通路の先が、開けた。


広い。


天井が一気に高くなる。十五メートル以上。壁が左右に退いて、空間が横にも奥にも広がっている。


広いのに、圧がある。天井が高いのに、押される。空気が重い。重いのに密度が薄い。矛盾している。矛盾しているのに、体が「ここは違う」と分かっている。


《空間把握》が線を伸ばした。


伸ばして——赤が爆発した。


即死ルート。


一本じゃない。十じゃない。空間の全方向から赤い線が吹き出して、視界が赤で塗り潰された。


どこを歩いても死ぬ。どこに立っても死ぬ。この空間そのものが、殺意で出来ている。


胃が冷えた。冷える、という言葉が久しぶりに意味を持つ。温度が戻った分、恐怖も戻る。恐怖が戻った分、足が重くなる。


ミラは止まらない。止まらないが、足を前に出す速度が変わった。慎重になっている。


この女が慎重になるのは、初めて見た。


ミラが振り返らずに言った。


「次、深層に入る」


深層。


面接の最終試験が、この先にある。ここまでは——前座だったということだ。


ミラの声が、硬くなった。命令の硬さではない。覚悟の硬さだ。


「泣いても戻らない」


泣いても。戻らない。


その言葉に、脅しの匂いがない。ただの事実だ。深層に入ったら、泣いても叫んでも、来た道は戻れない。転移門がないのかもしれない。あるいは、あっても使えないのかもしれない。


ミラの右手が剣を握り直した。


赤い線。内側から浮かぶ損傷パターン。


数えるな。


数えるな、と自分に言い聞かせる。言い聞かせているのに、レンズが勝手に数える。俺の目が、職業的な精度で、数えてしまう。


十三本。


橋の上で見えたときは五本だった。あれから——倍以上になった。


戦えば戦うほど増える。魔法を使えば使うほど増える。ミラが強くあればあるほど、指の赤い線が増えていく。


強さが体を壊している。


その事実を知っているのは、俺のレンズだけだ。何百万人の歓声の中で、千万の同接の数字の裏で、ミラの指が壊れていくのを見ているのは——俺だけだ。


映さない。映してはいけない。


でも、見えてしまう。見えてしまうことを、止められない。


ミラが歩き出した。深層の入口に向かって。


俺はカメラを握り直した。汗で滑る。痺れが痛みに変わっている。前腕の傷がまた開いたのかもしれない。温かい液体が手首に向かって流れている気配がする。《空間把握》は外傷を測らない。自分の壊れ方は、いつも曖昧だ。


でもカメラは離さない。


深層の入口が、目の前にある。赤い線で塗り潰された空間。どこを歩いても死ぬ場所。


その場所に、ミラの背中が消えていく。


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