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面接:中層ボス、目が合う


空白が、長い。


何秒だ。三秒。五秒。コメント欄に誰も打てない。何百万人が画面の前にいるのに、指が動かない。


俺の心臓だけが音を出している。


闇の向こうで、天井が動いた。


天井だと思っていた。黒くて、滑らかで、光を反射しない表面。それが天井の一部だと思っていた。


違う。


天井に張り付いているのは——生き物だ。


《空間把握》が薄い線を吐き出す。色が抜けたこの場所で、輪郭だけが震えるように描かれる。


体長、四メートル。幅、二メートル。扁平。エイのように平たい巨体が、天井の岩盤に吸い付いている。体表は黒い陶器のような光沢。釉薬をかけたみたいに滑らかで、光を吸う。


そしてその表面に——目がある。


一つじゃない。十じゃない。


数えられない。体表の全面に、黄色い目が埋め込まれている。大きさがばらばらだ。拳ほどの目。爪の先ほどの目。全部が独立して動いている。全部が、こちらを見ている。


さっきから見えていた「黄色い光の塊」は、こいつだった。


穴の底にいたのではない。天井にいた。天井にいて、下を見ていた。橋を渡る俺たちを。ずっと。


名前は知らない。図鑑にも載っていないかもしれない。


でも、やることは分かる。


こいつの目から伸びる「視線」が触手のように空間を這い、触れた場所の温度を消し、音を消し、距離感を消す。情報を食う化け物。


——グレイズアイ。


ミラが、そう呼んだ。


「グレイズアイ。中層のゴミよ」


ゴミ。こいつを。


四メートルの扁平な化け物を「ゴミ」と呼ぶ声に、震えがない。怯えがない。ただ純粋に、格下を見る目だ。


でも俺の《空間把握》は知っている。こいつの視線の腕は、ミラの剣で切っても戻る。情報を食う速度が、こちらの認識より速い。ゴミかどうかは、生き残ってから決めろ。


グレイズアイの体表が波打った。


黒い陶器の表面を波紋が走る。波紋が通過した目が順番に開く。開いた目から、視線が伸びた。


一本じゃない。


三本。同時に。


黒い、形のない触手。視線が物理的な力を持って空間を這う。這った跡の温度が消える。音が消える。世界に穴が穿たれる。


一本目がミラの右足へ。二本目が天井から真下へ。三本目が——俺のカメラへ。


「散れ」


ミラの声。短い。


声と同時に、ミラの足が床を蹴った。


速い。


速い、では足りない。蹴った瞬間に身体が消える。消えたと思った次の瞬間、三メートル先にいる。右足を軸にした回転。回転の遠心力がそのまま剣の軌道に乗る。


一本目の視線の腕が、ミラの右足があった場所を貫いた。床に「無」の穴が空く。直径三十センチ。底がない。


ミラはもう別の場所にいる。


剣が光った。光ったのは刃じゃない。刃の表面を覆う薄い氷の膜だ。青白い。冷たい。冷たさが光になって、闇の中で軌跡を描く。


斬撃。


二本目の視線の腕を、氷を纏った刃が横薙ぎに切り裂いた。


切れた。


さっきは戻った。切っても「なかったこと」にされた。でも今度は——裂け目が凍った。視線の断面に氷が張り付いて、再生を阻んでいる。


「氷で蓋をするのよ。視線は"情報"だから、凍結すれば戻れない」


配信用の解説。視聴者に向けて言っている。戦いながら。斬りながら。一切の息切れなく。


化け物だ。褒めている。


三本目が俺のカメラに迫る。


《空間把握》が軌道を読もうとする。読めない。線が引けない。でも——「欠け」は読める。視線が通過した跡の、温度がない筋。穴の形。


右から来る。右斜め上。速度は——


速度が分からない。数値が出ない。


でも体が動いた。


《完全回避》が脊髄に最適解を書き込む。右に来るなら左へ。上から来るなら下へ。カメラを胸に引きつけて、左肩を前に出し、半歩だけ左へ。


視線の腕が、俺の右肩があった空間を抜けた。


腕が通過した場所の空気が「無」になる。右耳の横、五センチ。その五センチの隙間で、音が消え、温度が消え、世界に穴が空いた。


風が顔を撫でた。風じゃない。空間が穴に向かって吸い込まれる気流だ。


『今の回避なに!?』

『カメラマン避けた!?』

『え、戦ってないのに避けてる!?』


コメントが走る。でも読んでいる余裕はない。


グレイズアイの体表がまた波打った。今度は波紋が速い。目が順番にではなく、一斉に開く。


視線の腕が——六本。


六本同時に伸びた。


ミラが走った。走りながら剣を逆手に持ち替える。足が床を叩くリズムが変わる。等間隔じゃない。不規則。わざと不規則にしている。視線の腕の予測を狂わせるためだ。


一本目を跳んで避ける。跳んだ高さは低い。五十センチ。低い跳躍の方が着地が速い。着地と同時に刃を振る。


二本目を斬る。氷が視線の断面を封じる。


三本目が背後から回り込む。ミラは背後を見ない。見ないまま、左足を軸に百八十度回転する。回転の遠心力で剣が水平に走り、三本目の視線を真横から叩き斬った。


斬撃の瞬間、ミラの髪が宙に弧を描く。黒い髪が闇の中で翻って、氷の刃の青白い光を一瞬だけ反射する。


美しかった。殺意と同じ精度で、美しかった。


『うっっっっわ』

『強すぎる』

『回転斬りの軌跡が光って見える!!』

『これが同接八桁の画ですか……』

『MIRA様ああああ』


四本目がミラの右腕を狙う。ミラは腕を引かない。引く代わりに、左手を前に突き出した。


左手に、魔法陣が浮かぶ。


小さい。掌に収まるサイズ。でも、密度が凄まじい。青白い光が圧縮されて、陣の中心が白く光っている。


「凍れ」


一語。


魔法陣から氷の壁が生まれた。厚さ三十センチ。幅一メートル。高さ二メートル。四本目の視線の腕が氷の壁に突き刺さり——凍結した。視線そのものが氷に呑み込まれて、動きを止める。


近接と魔法のハイブリッド。右手の剣で斬り、左手の魔法で固める。攻撃と防御を同時にやっている。それを、走りながら。息を乱さずに。


トップ配信者。この戦い方を見せるために、この女は「映像が死ぬ場所」に来た。視聴者に本物を見せるために。


五本目と六本目が同時に来た。


五本目はミラの足元。六本目は——また俺のカメラ。


こいつは学習している。カメラを狙えば画面が死ぬ。画面が死ねば配信が止まる。配信が止まれば「注目」が途切れる。


——グレイズアイにとって、注目は餌なのかもしれない。


俺は左へ動いた。《完全回避》が描く軌道に身を任せる。カメラを抱えて、半歩。六本目の視線が俺の右脇を抜ける。また五センチ。この五センチが命の厚さだ。


避けながら、ファインダーを覗く。


ミラが五本目を跳んで避けた。着地。着地の反動で床の溝を跨ぐ。一本目。二本目。三本目。踏まない。踏まないまま、溝の向こうへ着地する。


溝を跨いだ瞬間、ミラの足元で魔力の導線が淡く光った。


光が走る。導線を伝って、壁の方へ。壁を登り、天井へ。天井に張り付いたグレイズアイの体表を、光の筋が這い上がる。


グレイズアイが震えた。


体表の波紋が乱れる。目の動きが一瞬だけ止まった。


溝を「跨ぐ」のが正解だった。踏んだら「切り替わる」。でも、近くで魔力を使えば、溝が反応して魔力を吸い、天井へ返す。グレイズアイはこの部屋の天井に張り付いている。天井を通じた魔力の逆流が、こいつの体表を乱す。


ミラはそれを知っていた。知っていて、ここに来た。


「佐久間」


呼ばれた。戦闘の最中に。


振り返らずに。剣を構えたまま。


「今から私が本気で動く。三十秒」


三十秒。


「三十秒で終わらせる。その間——」


ミラの声が、ほんの少しだけ変わった。命令の声じゃない。


「……死角を、見ていて」


見ていて。


見ろ、じゃない。見なさい、でもない。「見ていて」。


道具への命令じゃない。頼み方だ。


心臓が、一拍だけ跳ねた。


「——見てます」


声が出た。掠れていたけど、出た。


ミラが、走った。


今度は速い。さっきまでの速さが「配信用」だったと分かるほど、次元が違う。残像が見える。残像じゃない。《空間把握》が追いきれずに、一つ前の位置情報を描画し続けているだけだ。


剣が光る。氷の膜が厚くなる。青白い光が通路を照らして、初めてこの場所に「色」が戻る。


ミラが壁を蹴った。壁を蹴り、天井に向かって跳ぶ。グレイズアイの腹——目が最も密集している場所に、氷を纏った剣を突き立てる。


グレイズアイが絶叫した。


音がない。音がないのに、絶叫だと分かる。体表の全部の目が同時に見開いて、視線の腕が四方八方に暴れた。八本。十本。十二本。制御を失った視線が壁を削り、床を穿ち、空間を滅茶苦茶に引き裂く。


通路が壊れる。


天井の岩盤が軋む。壁に亀裂が走る。


視線の腕の一本が、ミラの背後に回った。


左後方。距離一・八メートル。


ミラは見えていない。天井に張り付いたグレイズアイに剣を突き立てたまま、引き抜こうとしている。背中が無防備だ。


《空間把握》が「欠け」を拾う。視線の通過跡。温度が消えた筋。左後方から、ミラの背中の中央へ向かって伸びている。


あと一秒で届く。


俺の喉が動いた。


「左、後ろ、一・八!」


今度は叫んだ。息に混ぜる余裕はなかった。声量を落とす余裕もなかった。配信に乗る。画面に乗る。何百万人に聞こえる。


聞こえていい。


俺はここにいる。


ミラの体が動いた。


剣を引き抜く動作と回避を同時にやった。グレイズアイの腹から刃を抜きながら、体を半回転させ、左足で天井を蹴って落下する。落下しながら、剣を左後方へ振り抜く。


氷の軌跡が闇を切り裂いた。


視線の腕が凍結して、砕けた。


ミラが着地する。着地の衝撃で床の溝が三本同時に光る。光が天井へ走り、グレイズアイの体表を直撃する。


グレイズアイの目が、半分閉じた。


閉じた目から視線は出ない。出ない視線は武器にならない。武器にならない化け物は、ただの的だ。


ミラが跳んだ。


二度目の跳躍。壁を蹴り、天井へ。今度は突き刺すのではなく——横薙ぎ。


氷を纏った剣が、グレイズアイの体表を端から端まで斬り裂いた。


四メートルの体が、真っ二つに裂ける。裂け目から黒い液体が噴き出す。液体が床に落ちるたびに、温度が「戻る」。音が「戻る」。


世界が、情報を取り返し始めている。


《空間把握》の線に、色が戻った。赤い線。危険の色。でも今は、赤が見えることが嬉しい。色があるということは、世界がまだ測れるということだから。


グレイズアイの体が天井から剥がれ落ちた。


四メートルの扁平な巨体が、床に叩きつけられる。体表の目が一つずつ閉じていく。釉薬のような光沢が濁って、陶器が割れるように表面にひびが入る。


最後の一つの目が、閉じる前にこちらを見た。


俺のカメラを。


——見ている。


見られている。


まだ生きているのか。まだ見ているのか。


その目が閉じた。


通路に、静寂が落ちた。


ミラが着地している。剣を下ろし、息を一つだけ吐いた。たった一つ。三十秒の全力戦闘の後に、息が一つ。


髪が乱れている。初めて見た。この女の髪が乱れているのを。


汗が一筋、こめかみを流れた。それも初めてだ。


氷の魔法の残滓が空気中に漂っている。青白い粒子が、闇の中でゆっくり沈んでいく。雪みたいだ。闇の中に降る雪。


ミラの横顔が、その雪の中にある。


——撮れ。


体が動いた。思考より先に。


ファインダーの中で、ミラの横顔が完璧な構図に収まる。左斜め。氷の粒子。乱れた髪。一筋の汗。こめかみから顎へ流れる線。そして、黒い瞳に映る、死んだグレイズアイの最後の残光。


シャッターを切った指が、震えていなかった。


コメント欄が、爆発した。


『神』

『神回』

『嘘だろ今の三十秒』

『MIRA強すぎて言葉が出ない』

『氷の粒子の中の横顔……なにこれ映画?』

『カメラ!!このアングル!!天才か!!』

『待って声聞こえた 左後ろって叫んだよな?』

『カメラマンが敵の位置コールしてる……!?』

『#カメラマン何者』

『#神カメラ ←これ今日から使う』


神カメラ。


その言葉が流れた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


痛くない。熱い。熱いのに目が潤む。


——認められた。


違う。認められたんじゃない。「見えた」のだ。俺がやったことが、初めて画面の向こうに届いた。


追放されたとき、俺がやったことは誰にも見えなかった。見えないものは「なかった」ことにされた。


でも今、画面の向こうの何百万人が、俺のフレームを見ている。俺の声を聞いた。俺の回避を見た。


同接カウンターが跳ねた。七桁の末尾が消えて、桁が一つ増えた。


——八桁。


千万の目が、この画面を見ている。


ミラが振り向いた。


二度目だ。この女が俺を正面から見たのは。


黒い瞳。汗。乱れた髪。息が一つ分だけ荒い。


その目が——ほんの一瞬だけ、柔らかくなった。


柔らかい、というのは違うかもしれない。硬さが一枚だけ剥がれた、という方が近い。


「……三十秒」


ミラが言った。


「二十七秒で終わった。遅いわね」


遅い。三十秒と言って二十七秒で倒したのに、遅い。この女の基準はどこにある。


でもその声に、さっきまでの刃がなかった。


「カメラ」


俺を見たまま、言った。


「悪くなかった」


悪くなかった。


「いい」でも「合格」でもない。「悪くなかった」。否定の否定。褒めてはいない。でも落としてもいない。


ミラの語彙の中で、それがどの位置にあるのか、まだ分からない。


分からないのに、指の震えが止まっていた。


ミラが背を向ける。


背を向ける瞬間、右手の指が見えた。剣を握り直す指。


赤い線。内側から浮かぶ損傷パターン。


数えるな。


——十一本。


増えている。三十秒の全力戦闘で、一気に増えた。


震えを消す動作が、もう間に合っていない。握力で押さえつけているだけだ。


俺のレンズだけが、それを見ている。何百万人の歓声の中で、ミラの指の震えを見ているのは俺だけだ。


映さない。映してはいけない。


でも——見えてしまう。


ミラが歩き出す。グレイズアイの残骸を跨いで、通路の奥へ。


「面接、まだ終わってない」


まだ終わっていない。


俺はカメラを握り直した。《微風》の楕円が歪んでいたのを、指先で整え直す。気流が安定する。レンズは曇っていない。


石の床に、グレイズアイの黒い液体が広がっている。液体の上を歩くと、靴底に温度が戻ってくる。冷たい。冷たいのが嬉しい。温度があるということは、世界がまだ壊れていないということだから。


千万の目が見ている。


闇の奥には、まだ何かがいる。


俺のレンズだけが、ミラの死角を守っている。


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