初アンチ:ヤラセ疑惑
「みている」の文字が消えた後も、網膜の裏に焼き付いている。
コメント欄は流れ続けている。誰もあの文字に触れていない。俺だけが見た。俺のレンズだけが捉えた。
それが救いなのか呪いなのか、まだ分からない。
ミラの背中が、新しい通路の奥へ進んでいく。橋を渡り切ったあの石の床から、さらに深く。空気がまた変わった。
冷える、じゃない。湿度が下がる、でもない。
温度が"なくなる"。
肌が冷たいと判断する前に、皮膚が何も感じなくなる。頬に当たる風も、首筋を流れる汗も、そこにあるのに手触りだけが消える。世界が「触れる許可」を取り上げたみたいだ。
《空間把握》が線を伸ばす。伸ばして——また途切れる。距離が出ない。奥行きが定まらない。温度の数値が九度と十八度を行ったり来たりする。湿度も跳ね、落ち、跳ねる。
この場所そのものが、測定を拒んでいる。
橋の上で線が全部消えた、あの一秒の闇。それが薄く広がって、通路全体を覆っている感覚だ。完全には消えない。でも信用できない。スキルが嘘をつかないことだけが取り柄だったのに、ここでは真実の輪郭すら揺らぐ。
床に、また溝がある。
さっきの通路と同じ——魔力の導線。ただし本数が違う。さっきは一本だった。ここには三本。平行に走っている。幅も深さも微妙に異なる。
ミラは溝を跨ぐ。一本目。二本目。三本目。一度も踏まない。踏まないことが正解だと、体で知っている動き。
俺も跨ぐ。《空間把握》が溝の周囲に色のない線を引く。境界。踏めば何かが「切り替わる」。切り替わった先がどうなるか、まだ誰も教えてくれない。
画面端のスポンサー枠が二つ、消えずに点灯している。
《SPONSOR SLOT:ヴォルトエナジー》
《PREMIUM OFFER》
金が張り付いている。この配信が「面白い」と判断された証拠が、常時表示で俺の視界の端にある。
コメント欄は相変わらず洪水だ。
『スポンサーついてから同接の伸び方バグってる』
『プレミアムオファーって何? 運営枠?』
『MIRA、今日ガチで深く行く気だ』
『カメラの追尾、まじで人間じゃない』
『カメラマン誰』
その洪水の中に、違う色の文字が混じり始めた。
最初は一つ。
『……これ演出じゃね?』
次に二つ。
『崩落でカメラ無傷っておかしくない? 普通壊れるだろ』
『レンズの曇り消えたの、特殊効果じゃないの』
三つ。四つ。五つ。
『スポンサーのタイミング早すぎ。打ち合わせ済みでしょ』
『カメラの動き物理法則無視してる。ジンバルじゃ無理だって』
『MIRA、好きだけど今回は台本臭い』
——ヤラセ。
その単語が流れた瞬間、胃の奥が嫌な形に縮んだ。
怒りじゃない。冷える。自分が努力したことが、努力として扱われない種類の冷えだ。
崩落の中で前に出た。スキルの最適解を踏み潰して、ミラの横顔を撮った。レンズが曇ったとき、誰にも評価されなかった《微風》で画面を生き返らせた。全部、この手でやった。
それが「台本」。
喉の奥に、追放のときと同じ味がする。鉄。恐怖じゃない。無力の味だ。どれだけやっても、見ている側が「そうじゃない」と言えば、全部なかったことになる。
パーティを追い出されたときも同じだった。俺がやったことは誰にも見えなくて、見えないものは「なかった」ことにされた。
ミラは振り返らない。
でも、歩幅が半拍だけ変わった。ほんのわずか。カメラを持っていなくても分かるくらいの微差。でも持っているから、余計に分かる。
彼女も見ている。コメントを。数字を。空気の温度を。
耳の奥で、ノイズが走った。
『——新人。聞こえるか』
あの男の声。乾いていて、短くて、無駄がない。
「聞こえます」
『コメントが割れてる。疑いが入った。……ここからが本番だ』
本番。
『疑いは数字を殺す。殺される前に"本物"を見せろ。お前の仕事だ。分かるな』
「……分かります」
分かる。分かっているのに、手が冷たい。温度がないはずのこの場所で、手だけが冷えている。
通信が切れた。
ミラが言った。背中越しに。
「佐久間」
苗字。識別。でも、呼び方が硬い。この硬さは命令の硬さじゃない。苛立ちの硬さだ。
「私の看板に泥を塗らないで」
看板。価値。数字。
泥を塗っているのは俺じゃない。画面の向こうで「ヤラセ」と打ち込んでいる指だ。でもミラにとっては同じことだ。画面が汚れれば、原因が何であれ、カメラマンの責任になる。
「……塗ってません」
声が掠れた。掠れたのは喉のせいだ。粉塵のせいだ。それ以外の理由は認めない。
ミラは止まった。
止まった瞬間、温度がさらに消えた。音も匂いも、薄くなる。自分の足音が返ってこない。呼吸音も遠い。
《空間把握》の線が——色を失い始めた。
赤が赤じゃなくなる。危険の線が「ただの線」になる。線が線である意味が、ゆっくり剥がれていく。
この場所は、情報を食べる。
温度を食べ、音を食べ、スキルの色を食べる。
——「映像が死ぬ場所」。
ミラが言った通りだ。ここでは映像だけじゃない。感覚のすべてが痩せていく。
ミラが言った。
「ここで、見せる」
見せる。誰に。視聴者に。スポンサーに。運営に。そして、疑っている連中に。
声が出た。
「何を」
出すべきじゃなかった。道具は聞かない。持ち主の意図を尋ねない。ここまでずっとそうしてきた。なのに——
声が出てしまったことに、自分で驚いている。喉が勝手に動いた。聞きたかったのか。知りたかったのか。それとも、「ヤラセ」と言われたことが、思った以上に深く刺さっていて、確認しないと立っていられなかったのか。
ミラは振り返らなかった。
振り返らないまま、一語だけ返した。
「本物」
その一語が、通路の空気を切った。
本物を見せろ。本物なら疑われない。疑われなければ数字が落ちない。数字が落ちなければ深く行ける。
——つまり。
俺が「本物」であることも、ここで証明しろということだ。
カメラを握り直す。汗で滑る。温度がないのに、手のひらだけが湿っている。矛盾している。でも体は嘘をつかない。怖いのだ。疑われることが。なかったことにされることが。
足元に溝が三本、平行に走っている。
ミラが通路の奥を見ている。奥は闇。闇の中に、空間がある。《空間把握》が薄い線で輪郭だけを描く。広い空間。天井が高い。高いのに、圧がある。
そして——奥から、振動が来た。
咆哮ではない。音ではない。
骨が鳴った。胸骨が共鳴する。肋骨の隙間を何かが通り抜けていく。鼓膜は沈黙しているのに、体の内側だけが音を聞いている。
《空間把握》が、線を引いた。
遠い。なのに太い。太すぎて、危険の「種類」が分からない。赤ですらない。色が剥がれたこの場所で、唯一残った線が——ただ太い。
ただ、「来る」ことだけが分かる。
ミラが——笑った。
口角がほんの二ミリだけ上がった。目は笑っていない。笑っているのは口だけ。それが、この女の「戦闘の前の顔」だ。
「来た」
来た。何が。
闇の向こうで、空気が動いた。空気じゃない。空間が軋んだ。通路の幅に対して大きすぎる何かが、通れるはずのない場所を通って、こちらに来る。
——通れるように設計されている。
この通路は、あれが通るために作られた。俺たちが通るためじゃない。あれのために。
逃げ場がない。
振り返れば橋がある。橋の下には闇がある。闇の中には目がある。前にはこれから来るものがある。左右は壁。上は天井。
逃げ場が、ない。
コメント欄が、先にそれを嗅ぎ取った。
『え、なんか来る』
『空気変わった 画面越しでも分かる』
『ボス? 中ボス?』
『この深さで中ボスはやばい』
『ヤラセならここまでやらんだろ……』
『台本でこの空気出せるわけない』
『……本物だ』
疑いの声が、止まった。
止まった瞬間、同接カウンターが跳ねた。
疑いが止まるのと、期待が始まるのは、同じ瞬間だ。「嘘かもしれない」が「本物かもしれない」に変わった瞬間、人は目を離せなくなる。
ミラの右手が剣の柄を握った。
指の関節に、赤い線。
数えるな。数えるな。
——九本。
増えている。
震えを消す動作が、もう追いつかなくなっている。握る力で震えを潰しているだけだ。力で押さえつけた震えは、いつか手の中で爆発する。
俺のレンズだけが、それを見ている。
映さない。映してはいけない。
でも見えてしまう。見えてしまうことを、止められない。
ミラが言った。
「佐久間。落とすな」
落とすな。
画面を。カメラを。
そして——俺自身を。
俺はカメラを握り直した。汗を、絞るように。指が痺れている。前腕の傷がまた疼く。《微風》はまだレンズの前で楕円を描いている。維持できている。この場所の異常にも、まだ負けていない。
闇の向こうで、黄色い光が点った。
橋の下に散らばっていた目ではない。
一つの塊。
無数の目が集まって、一つの「視線」になっている。
それが、こちらを見た。
コメント欄が、文字の洪水ではなく——一瞬の空白になった。
何百万人が、同時に息を呑んだ。
その空白の中で、俺のカメラだけが動いている。




