機材トラブル:レンズが曇る
あの一秒の闇が、まだ網膜の裏にこびりついている。
線は戻った。《空間把握》は動いている。橋の幅六十センチ、揺れの周期〇・八秒、ミラとの距離二・四メートル。数字は全部見えている。
見えているのに、安心できない。
一度消えたものは、また消える。そういうものだ。スキルも、居場所も、信頼も。一度なくなったものは——
足を出す。橋の終わりはまだ見えない。ミラの背中が闇の中で揺れない。俺の体だけが揺れている。
下の闇に点った黄色い目は、消えない。数えるのはやめた。数えるほど「いる」と確定する。確定したら足が止まる。止まったら終わる。だから数えない。見ない。見ないのに、見られている。
《空間把握》は相変わらず距離を出せない。線が引けない。線が引けないものが、下にいる。
——測れないのに、そこにいる。
その矛盾が、骨の奥で鳴り続けている。
「……遅い」
背中越しの声。怒鳴っていない。淡々としている。淡々としているのに、胃の底が絞られる。ミラの「遅い」は、単なる速度の指摘じゃない。「遅い」は「画面が退屈になっている」で、「画面が退屈」は「数字が落ちる」で、「数字が落ちる」は——
もういい。分かっている。全部繋がっている。
俺は一歩、詰めた。六十センチの橋の上で。寄るだけで命が減る距離。《空間把握》が足元の線を引き直す。左足の接地面積、靴底の六十三パーセント。橋の縁から右足までの余白、四センチ。
四センチの上に、命が乗っている。
そのとき——穴の底から風が吹き上がった。
冷たい、という言葉では足りない。冷たさが針になって、頬の産毛の一本一本を刺す。睫毛の先の湿気を一瞬で奪って、次の瞬間、逆に湿気を連れてくる。
《空間把握》が空気の流れを描く。上昇気流。渦。闇の目がある方角から、風が"息"として吐き出されている。
——生きている。穴が、息をしている。
その息が、レンズを舐めた。
白い膜が、画面の端に生まれた。
ほんの一瞬。でも見える。見えてしまう。レンズが曇った。
結露。
温度差でガラス表面に生まれる薄い膜。水滴じゃない。拭ける汚れじゃない。拭けば水分が散って、もっと広がる。
血なら拭けた。粉塵なら弾けた。でも空気そのものが敵になったら、布では戦えない。
喉が鳴った。咳が出そうだ。粉塵が肺の奥でまだ暴れている。でも咳をすればカメラが揺れる。揺れれば画面が——
奥歯を噛んだ。自分の歯が軋む音が頭蓋骨の内側で鳴る。咳を殺す。殺した反動で涙が滲む。涙もレンズの敵だ。
コメント欄が即座に反応した。
『あ、曇った』
『レンズ白くね?』
『うわ、やめて……』
『画面が…』
『MIRAが霞んでる これはダメ』
文字の温度が下がっていく。さっきまでの興奮じゃない。失望の匂いがする。期待していたものが汚れた、という匂い。
ミラの足が止まった。
止まっただけで、橋の揺れの周期が変わる。〇・九秒に戻る。揺れが彼女に従っている。従わせている。この女は橋すら支配する。
振り返らずに、言った。
「画面が汚い」
声に感情がない。怒鳴っている方がまだ救いがある。感情がないということは、汚れた画面にかける感情すら無駄だと判断しているということだ。
「私の価値が下がる」
価値。
その一語が空気を切って、底のない穴に吸い込まれていった。
俺は反射で布を出す。レンズクロス。さっきまでシャドウハウンドの血を弾いてきた布。繊維の隙間に鉄の匂いが残っている。
拭く。
白い膜が——伸びた。
薄くなったのではない。面積が増えた。散った水分がガラス表面を這って、曇りが画面の中央に向かって侵食する。ファインダーの中で、ミラの輪郭が霞んでいく。
最悪だ。
『悪化したwww』
『拭くな拭くな拭くなって!』
『新人パニクってる』
『カメラ泣いてるじゃん』
笑いが混じったコメントが流れる。笑えない。口の端が動きそうになって、止めた。笑ったら呼吸が乱れる。呼吸が乱れたら手が揺れる。手が揺れたら——
もういい。全部繋がっている。全部が全部に繋がっていて、一つ崩れたら全部崩れる。
ミラの声が、半音だけ低くなった。
「佐久間」
識別記号。でも今の響きには重さがある。さっきの「寄って」より重い。重い呼び方は、猶予がないときの呼び方だ。
「拭くな」
一呼吸置いて。
「直せ」
拭くな。直せ。
命令が二つ。矛盾している。拭かずにどう直す。でもミラの命令に矛盾はない。矛盾しているのは俺の引き出しの方だ。
——直す。どうやって。
《空間把握》が情報を吐き出す。レンズ表面温度、十一・三度。外気温度、九・一度。湿度、八十七パーセント。穴の底からの上昇気流が秒速〇・四メートルで湿気を運んでいる。俺自身の呼気温度が三十四度で、それもレンズに当たっている。
結露条件が、全方向から揃っている。
拭けない。温度は変えられない。湿度も制御できない。
——できない?
手が止まった。
布を握ったまま、指先が震えている。震えているのは恐怖じゃない。何かを思い出しかけている。思い出す前に体が反応している。
——俺は。
元サポートだ。
派手な魔法は使えない。炎も氷も雷も出せない。剣も槍も持てない。パーティの後ろで、誰もやりたがらない雑務を回された。荷物持ち。罠解除の補助。松明の管理。
そして——空気を、少し動かすこと。
《微風》。
名前をつけるのも恥ずかしいほどの魔法。空気を薄く流すだけ。風量は蝋燭の炎を揺らせるかどうか。
志摩に見せたとき、鼻で笑われた。
「それ、何に使うの?」
パーティの前で、全員が聞いていた。早乙女が目を逸らした。三宅が気まずそうに黙った。誰もフォローしなかった。
「……松明が消えそうなとき、風を——」
「いらない。松明は予備がある」
それが、俺のサポート魔法の全部だった。
予備がある。お前の代わりはある。お前のスキルには、代わりがある。
あの言葉が、今も喉の奥に刺さっている。抜けない棘みたいに。
——でも。
今、この橋の上に、予備はない。
予備のカメラマンはいない。予備のレンズもない。俺の手の中にあるこの一台が全部で、この画面が死んだら、数字が死んで、ミラの価値が——
俺は布をしまった。
左手の指先を軽く曲げる。カメラを右手だけで支える。左前腕の裂傷が引き攣って、痛みが肘まで走る。無視する。
指先で、小さな魔法陣を描く。指の腹が空気に触れて、微細な魔力が円を描く。
《微風》。
風を起こすのではない。動かす。
レンズの前面に、薄い空気の層を作る。穴の底からの上昇気流を、レンズに届く前に逸らす。俺自身の呼気を、左へ流す。湿気を含んだ空気をレンズから遠ざけて、乾いた空気だけを表面に這わせる。
風量の制御。強すぎれば粉塵が舞って逆効果になる。弱すぎれば結露に負ける。
ちょうどいい風。ちょうどいいだけの風。それしか出せない魔法が、今だけは——ちょうどいい。
《空間把握》がレンズ前面の気流を薄い線で描く。線が楕円を描き始める。安定している。揺れていない。
白い膜が、薄くなり始めた。
拭いていないのに。触っていないのに。空気だけが、曇りを溶かしていく。
ファインダーの中で、ミラの輪郭が戻ってくる。黒い髪。白い肌。ブーツの先。曇りの向こうから、画面が生き返る。
コメント欄が、ざわめいた。
『え、戻った?』
『曇り……消えてる』
『何した??』
『拭いてないのに?』
『風……? 今なんかしたよな??』
『結露を風で飛ばした??プロかよ』
『カメラマン、何者???』
何者。
元追放のサポート魔法使い。誰にも評価されなかった《微風》しか使えない、役立たず。
——でも今、画面が生き返った。
俺の魔法で。
誰も要らないと言ったスキルで。
胸の奥で、何かが軋んだ。痛いのか熱いのか分からない。泣きそうなのかもしれない。泣けない。泣いたら湿気が増える。湿気が増えたらレンズが曇る。
だから、奥歯を噛んだ。歯が軋む音を聞いて、息を止めて、カメラを構え直した。
ミラが言った。
「……遅いけど、いい」
遅いけど。
遅いけど、がまだ付いている。
でも「いい」が出た。
崩落のときの「死ななかったわね」とは違う。今度は俺がやったことに対して出た「いい」だ。生き延びたことじゃなく、問題を解決したことに対しての。
ほんの少しだけ、道具から——道具以上の何かに、距離が縮まった気がした。
気がしただけだ。気のせいかもしれない。
でも、指の震えが止まっていた。
ミラは再び歩き出す。橋の揺れが彼女の歩幅に合わせて整う。従順な揺れ。この女の足が支配する振動。
穴の底の黄色い目が、少しだけ上に動いた気がした。気がしただけだ。見ない。数えない。
橋の終わりが見える。あと五歩。四歩。三歩。
ミラが最後の一歩で、軽く跳んだ。
跳んだだけで橋の揺れが止まった。「呼吸」が止まるように。さっきまで生き物だった橋が、ただの建材に戻る。
俺も跳ぶ。着地の衝撃が前腕の傷を叩いて、歯の隙間から息が漏れた。でもカメラは安定している。《微風》はまだレンズの前で楕円を描き続けている。維持できている。
石の床。硬い。揺れない。揺れない地面を踏んだ瞬間、膝の力が抜けそうになった。揺れに合わせることを覚えた体が、静止を返されて混乱している。
でも、立っている。
橋を渡り切った瞬間、画面端に見慣れない枠が現れた。
《SPONSOR SLOT》
白い文字。小さなロゴ——稲妻を模したデザイン。そして枠の下に流れるテロップ。
『この配信はヴォルトエナジー提供でお送りします』
スポンサー。
配信中にスポンサーが付くということは、運営が「この配信は金になる」と判断したということだ。判断は数字でされる。数字は嘘をつかない。
コメント欄が別の熱を帯びた。
『スポンサー来たwww』
『金の匂いがする』
『運営、本気で回しに来てる』
『これ今日の配信、歴史に残るやつだろ』
同接カウンターが跳ねた。七桁の後半。末尾が暴れて、また一段上がる。スポンサーが付いたことで「公式が認めた配信」になり、見に来る人間がさらに増える循環。
ミラは足を止めずに言った。
「……ほら」
短い。でもその一語に、全部入っている。数字が上がった。スポンサーが乗った。だから——もっと深く行ける。もっと危険な場所へ。もっと美しい画面を。もっと高い数字を。
ミラは振り返らずに続けた。
「次は、映像が死ぬ場所」
映像が死ぬ。
レンズの曇りじゃない。もっと根本から、画面が殺される場所。
《空間把握》が前方の空間に線を伸ばした。伸ばして——途切れた。
線が描けない。距離が出ない。温度も湿度も、値が揺れて定まらない。
あの一秒の闇に似ている。橋の上で《空間把握》の線が全部消えた、あの瞬間。それに似ているのに、もっと広い。もっと深い。
ミラの右手が剣を握り直した。
指の関節に、赤い線。内側から浮かぶ損傷パターン。橋の上で見えたのは五本だった。
今は——数えたくない。数えたら、確定してしまう。
でもレンズは数えてしまう。俺の目が、勝手に数えてしまう。
七本。
増えている。
ミラの指が震えた。震えを消した。消す速度が、橋の上のときより遅かった。
俺のレンズだけが、それを知っている。何百万の視線の中で、この震えを見ているのは俺だけだ。
ミラが「映すな」と言ったものが何か、穴の底の目なのか、それとも別の何かなのか、俺にはまだ判断できない。判断する材料が足りない。足りないのに、胸の奥が重い。
画面端のスポンサー枠が、もう一つ増えた。
《PREMIUM OFFER》
金が、こちらを見ている。数字が上がるほど金が集まり、金が集まるほど深く行ける。深く行くほど——
そして。
配信画面に、一瞬、砂嵐が走った。
白いノイズの中に、文字が浮かぶ。
——**みている**。
コメント欄は流れ続けている。誰も触れていない。視聴者の画面には映っていないのかもしれない。
俺だけが見ている。
俺のレンズだけが。




