表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/15

境界:レンズだけが気づく


通路の奥へ一歩踏み込んだ瞬間、肺が拒否した。


空気が違う。


湿度が落ちた。喉の粘膜が一気に乾いて、息を吸うと粉塵の残骸が気管の奥でざらついた。咳を殺す。咳をすればカメラが揺れる。カメラが揺れれば画面が死ぬ。画面が死ねば——もういい、分かっている。


《空間把握》が新しい空間を描き始める。


天井高、九メートル。壁面は黒い花崗岩、表面の研磨精度が均一すぎる。人工。床の中央に微細な溝が走っている。水路ではない。溝の内壁に残留する魔素の痕跡——魔力の導線だ。空気中の魔素密度、入口区画の一・三倍。


そして、音が沈んでいる。


自分の足音が、返ってこない。反射が遅い。空間が広い。広いのに、圧迫される。天井が九メートルあるのに、頭の上に何かが乗っている感覚が消えない。


——エリアが変わった。


このダンジョンは、殺し方を変えるときに「境界」を用意する。親切なのか残酷なのか分からない。たぶん両方だ。


ミラは止まらない。


傷のない背中が暗闇に溶けていく。歩幅が変わらない。呼吸が変わらない。新しいエリアに入ったことを、身体が気にしていない。あるいは——気にする余裕を見せないことが、この女の戦い方なのかもしれない。


俺はカメラを握り直す。


左肩の筋が攣りかけている。腕を上げるたびに肩甲骨の裏で何かが引っ張られる。前腕の裂傷は血が乾いて皮膚を突っ張らせていて、指を曲げると亀裂が広がる気配がする。《空間把握》は外傷を測らない。だから「気配」でしか分からない。自分の壊れ方は、いつも曖昧だ。


でも。


レンズは生きている。画面も生きている。


コメント欄はまだ洪水だった。


『カメラマン誰』

『悪魔の新人カメラ』

『あの落下で画面安定してるの意味わからん』

『MIRAの背中から目が離せない』

『同接、七桁後半…?』


七桁の末尾が生き物みたいに暴れている。数字が上がって、一瞬戻って、また跳ねる。サーバーが悲鳴を上げているのか、カウンターが時折バグのように明滅する。


何百万人が、この画面を見ている。


さっきの崩落で目が覚めたのだ。怖いもの見たさ。次は何が起きるのか。次はカメラマンが死ぬのか。期待と恐怖が混ざった視線が、画面の向こうから押し寄せてくる。


見られている。

見られているほど、ミラは深く行く。

深く行くほど、数字が上がる。

数字が上がるほど、死が近くなる。


この循環に名前をつけるなら、たぶん「配信」と呼ぶのだろう。


そのとき、耳の奥でノイズが走った。


『……新人。聞こえるか』


あの男だ。


名前は知らない。今日の現場で何度か短い指示を飛ばしてきた声。ノイズ混じりで乾いていて、でも一言も無駄がない。この声の持ち主がMIRAの現場に何年いるのか分からないが、指示の精度が物語っている。長い。


俺は短く返す。


「聞こえます」


『カメラ、死んでないな』


「死んでません」


短い沈黙。通信の向こうで、何かの機材が軋む音がする。


『……いい。次、床の模様を踏むな。中央の溝だ。触れると"切り替わる"』


切り替わる。


《空間把握》が溝の周囲に線を引く。赤ではない。赤は危険。これは——色がない。「境界」としか言いようがない線。踏めば何かが変わる。変わった先が危険かどうかは、踏んでみないと分からない。


「切り替わる、というのは——」


『聞くな。踏むな。それだけだ』


通信が切れた。


あの男の声が消えると、通路が急に静かになる。自分の足音と、ミラの足音と、心臓の音。三つだけが闇に落ちていく。


ミラの足が、中央の溝を跨いだ。


跨いだだけだ。踏んでいない。

踏まずに越えた。

それが正解だと、最初から知っている動き。


その瞬間——


配信画面が白く弾けた。


砂嵐。


一拍。いや、一拍未満。瞬きより短い。短すぎて、見間違いだと言われたら否定できない。


でも。


俺の《空間把握》が、今まで一度もしなかった反応をした。


赤い線ではない。危険ではない。距離でもない。温度でもない。


——"輪郭がないのに、圧がある"。


空間の中に、何かが「在る」。

在るのに、位置が特定できない。

質量がないのに、存在だけが重い。


砂嵐の一瞬の中で、文字が見えた気がした。


——みている。


背中の温度が消えた。冷えるのではなく、温度という概念が背中から抜け落ちた。


コメント欄が一瞬止まり、次に倍の速度で流れ始める。


『今ノイズった?』

『え?画面白くなった』

『演出?』

『運営のラグ?』

『なんか…気持ち悪くなかった?』

『気のせいか』


気のせい。


そう思いたかった。俺も。


でも《空間把握》は嘘をつかない。嘘をつけない。見えたものを見えたと描く。それだけのスキルだ。


——あの「圧」は、何だ。


ミラは振り返らない。気づいていないのか。気づいていて、無視しているのか。どちらにしても、この女は止まらない。


通路が開けた。


足が止まった。止まりたくないのに、止まった。


吹き抜けだった。


空間が、縦に落ちている。


天井はない。上も闇。下も闇。壁だけが左右にあって、その間を底のない穴が貫いている。穴の向こうに細い橋が一本。橋の先に穴。穴の先に橋。それがいくつも繋がって、蜘蛛の巣みたいに空間を横切っている。


《空間把握》が線を吐き出す。


橋の幅、六十センチ。手すりなし。素材は石ではない。金属と——骨。骨の混合体。接合部に有機的な曲線がある。死んだ何かの一部が建材になっている。


振動の伝わり方が不自然だった。揺れている。揺れ方が一定。周期がある。


——誰かが意図的に"揺れるように"作っている。


この橋は、渡らせるために架けたんじゃない。落とすために架けている。


口の中に金属の味が広がった。鉄の味。血じゃない。恐怖の味だ。舌の裏側に滲んで、飲み込めない。


穴の底から冷気が上がってくる。冷たい風が顔を撫でて、睫毛の先が濡れる。深さが分からない。《空間把握》が底を探して、探して——見つけられない。スキルの測定限界を超えている。


つまり、落ちたら終わりだ。


ミラが橋に足をかけた。


躊躇がない。踏み出す前の呼吸の変化すらない。重心の揺らぎもない。彼女にとって、ここは"ただの道"でしかない。


その背中を見て、思った。


——こいつは怖くないんじゃない。怖さを数字に変換する回路が、最初から違う場所に繋がっている。


「佐久間」


呼ばれた。識別記号みたいに。でも呼ばれると喉が鳴る。反射だ。犬みたいで嫌だ。


「寄って」


軽い。さっきの「寄れ」より軽い。命令が軽くなるほど怖い。軽い命令は迷いがないから軽いのだ。


「橋の上で、私の足を撮って」


「……足、ですか」


「踏み外したら終わるでしょ」


当たり前みたいに言う。終わるのが「画面」なのか「命」なのか、区別しない言い方。区別する必要がないと思っている言い方。


「視聴者はね、落ちる瞬間が好きなの」


一拍。


「——でも、落ちそうで落ちないのは、もっと好き」


その声を聞いた瞬間、指先の震えが止まった。


怖いのに、カメラが安定する。この女の言葉には、そういう力がある。声が、俺の手首の筋肉に直接届く。恐怖を消すのではなく、恐怖ごとカメラに変換する。


——化け物だ。


褒めている。たぶん。


俺は橋に足を出した。


揺れた。


一・二秒の周期。左右に三センチ。《空間把握》が周期を数え始める。一・二秒。一・二秒。一・二秒。正確すぎる。自然の揺れじゃない。設計された揺れだ。


頂点を待つ。体が揺れの底に沈む。内臓が一瞬遅れてついてくる。胃の中身が左に寄って、右に戻って、また左に。吐きそうだ。吐いたらレンズが汚れる。吐くな。


頂点——今。


踏み出す。踵を浮かせない。重心を低く。カメラを構えたまま。


橋の上で呼吸すると、穴の底からの冷気が喉に刺さる。肺の奥の粉塵がまた暴れる。咳を殺す。殺す。殺す。


ファインダーの中で、ミラの足が映る。


白いブーツ。汚れがない。汚れないように歩いているのではない。汚れが付かない歩き方をしている。一歩ごとに、靴底が橋の表面に触れる面積が最小限に制御されている。接地時間が短い。音が小さい。


美しかった。


殺意と同じ精度で、美しかった。


ミラが一歩踏む。その一歩に合わせて橋が揺れる。揺れる瞬間、俺の体も揺れる。内臓が持っていかれる。胃が浮く。視界の端が白くなる。


でも画面は揺れない。


また——これだ。


画面が勝手に補正される。揺れる前に。揺れそうな未来を先に潰すみたいに、フレームが安定する。ミラの足が画面の中心に吸い付いて、俺の足が勝手に左へ回り込み、常に左斜めを保つ。橋の幅六十センチの上で、回り込む余裕なんてないのに、体が勝手にそれをやる。


名前のない何かが、また動いている。《空間把握》と《完全回避》の間に、もう一本の線が生まれている。追う。追いつく。映す。三つが一つになる瞬間がある。


——だが今はそれどころじゃない。


コメントが流れる。


『足元の寄りやばい』

『揺れてるのに画面揺れないの何?』

『MIRAの足の運び美しすぎ』

『カメラの追尾が人間じゃない』

『#カメラマン誰』


追尾。


またその言葉。


橋の中ほどで、ミラが止まった。


止まった瞬間、世界が変わった。


揺れの周期が崩れた。一・二秒だったものが、一・〇秒になり、〇・八秒になり、加速している。揺れ幅が増える。三センチが五センチになり、七センチになる。


《空間把握》が赤い線を吐いた。


この揺れは自然じゃない。橋の下から力が加わっている。周期の変化が呼吸に似ている。何かが——橋に"合わせてきている"。


穴の底から、風の流れが変わった。


冷気が一瞬止まった。


止まった、というのは違う。冷気が「息を吸った」。


次に、上向きへ逆流する。下から風が吹き上げて、ミラの黒い髪が巻き上がった。


「……下に、何かいる」


俺が言い終わる前に、ミラが言った。


「映して」


命令。一語。


俺はカメラを少し下へ傾けた。


穴の底は見えない。闇しかない。《空間把握》が闇の奥に線を伸ばす。伸ばす。伸ばす。届かない。測定限界。底がない。


闇しかないのに——闇が、揺れた。


揺れたのは闇じゃない。闇の中で、何かが息をした。


俺の鼓膜が、音を拾った。音じゃない。音のない振動。空気が震えているのに、耳には届かない周波数。胸の奥の骨が共鳴する。


次の瞬間。


闇から——黄色い光が点った。


一つ。


二つ。


三つ。


——十。二十。まだ増える。


目だ。


黄色い、丸い、瞬きのない目。


《空間把握》が線を引こうとした。距離を測ろうとした。位置を特定しようとした。


——引けない。


距離が出ない。奥行きが測れない。目が「そこにある」のに、「そこ」が定まらない。


空間が、嘘をついている。


あるいは——空間そのものが、あの目の一部なのかもしれない。


背中が冷たくなった。今度は「温度が消える」感覚じゃない。もっと原始的な冷たさ。動物が天敵を見たときの、筋肉が硬直する冷たさ。


手のひらの汗が一気に増えた。グリップが滑る。


滑る——と思った瞬間。


画面が、固定された。


ミラの足。白いブーツ。橋の上。

闇の目。黄色い光。底のない穴。


その両方が、一つのフレームに収まっている。


俺がやったのか。

俺の意志か。

分からない。


分からないまま、カメラだけが最適解を選んでいる。


コメント欄が爆発した。


『何あれ何あれ何あれ』

『目!!!!!』

『下にいる下にいる下にいる』

『MIRA逃げて』

『いや逃げないのがMIRAだろ』

『同接また跳ねた!!』

『怖い怖い怖い怖い怖い』


怖い、という文字の洪水。視聴者が怖がっている。怖がりながら、目が離せない。怖がれば怖がるほど画面に張り付く。張り付くほど同接が伸びる。伸びるほどミラは止まらない。


また——この循環だ。


橋が大きく揺れた。


足を踏ん張る。膝が笑いそうだ。六十センチの橋の上で、膝が笑ったら終わる。終わるのは俺だけだ。ミラは終わらない。この女は橋が折れても空中で剣を振れるだろう。


ミラの右手が動いた。


剣を握り直す。


その指。


人差し指の第二関節。中指の付け根。親指の付け根。


赤い線が——増えている。


さっきの崩落の直後に見えた線。外傷じゃない。内側から表面に浮かぶ損傷パターン。あのときは三本だった。


今は、五本。


増えている。この短時間で。戦闘もしていないのに。歩いて、溝を跨いで、橋を渡っただけなのに。


ミラの指先に、何が起きている。


聞けない。聞ける距離にいるのに、聞ける関係じゃない。道具は持ち主の不具合を報告できても、持ち主の痛みを尋ねる権利がない。


でも——レンズだけが気づいてしまう。


ミラの指が、震えた。


ほんのわずか。剣の柄を握る力が一瞬だけ抜けて、戻った。


震えを"消す"技術がある人間の震えだ。見せない訓練を積んだ人間の、それでも隠しきれなかった揺らぎ。カメラを持っていなければ気づかない。いや、このカメラを、この距離で、この角度で構えている人間でなければ——


俺だけが、見ている。


何百万の視聴者がこの画面を見ている。ミラの美しい足運びを見ている。揺れない画面を見ている。底のない闇の目を見ている。


でも、ミラの指の震えは、俺のレンズだけが知っている。


画面には映らない。映さない。映してはいけないものがあることを、まだ一日目の道具が、なぜか分かっている。


そして——闇の目が、動いた。


黄色い光が、下から上へ。


ゆっくりと。


こちらを、見上げた。


何百万の視線がミラを見ている。俺のレンズがミラを見ている。


そして今——何かが、俺たちを見ている。


目が、笑った気がした。


笑った瞬間、《空間把握》の線が全部消えた。


一秒だけ。


世界の輪郭が消えて、俺はただの人間に戻った。


橋の上で、カメラを持って、六十センチの幅の上で、底のない穴の上で、隣に悪魔がいて、下に何かがいて——何も見えない、ただの人間。


線が戻った。


一秒で戻った。


でも、あの一秒の闇を、俺は忘れないだろう。


ミラが歩き出した。振り返らない。


俺は足を出す。


まだ震えている。全部が震えている。でもカメラだけが、レンズだけが、揺れていない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ