表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/15

開幕:同接は刃物


ダンジョンの入口は、昼の広場より暗かった。


暗いというより、光が吸われる。壁面に埋め込まれた照明が白く光っているのに、三メートル先から闇のほうが勝っている。


ミラの背中が、その闇に吸い込まれていく。


速い。


俺は走った。カメラを構えたまま走った。

左斜め。常に左。ズラすな。

わかっている。わかっているのに、呼吸が追いつかない。


肺の底が焼けるように熱い。喉の粘膜がひび割れた紙みたいに乾く。走るたびに胸の中で内臓が揺れて、横隔膜が痙攣する。


脚が重い。ミラは軽い。

同じ床を蹴っているのに、彼女だけ摩擦がない。走っているんじゃない。滑っている。


《空間把握》が、入口の先の通路を線で塗りつぶす。


床の継ぎ目。天井の亀裂。壁の空洞。

罠の起動線。落盤予兆。魔力の溜まり。

赤い線が重なって、地図ではなく警告になる。


なのに。


その全部より濃い輪郭が、視界の中心にある。


ミラ。


距離、五メートル。


四・八。


四・五。


詰まっている。詰まっているのに安心できない。

彼女は本気で走っていない。俺が追いついているんじゃない。まだ加速していないだけだ。


追いつけない人間は折れる。

あの男はそう言った。


追いつけなかったら。

また、置いていかれる。

あの通路みたいに。

背中だけが遠ざかって、俺だけが残る——


喉の奥が、つっかえた。


違う。今は追放じゃない。

今は——仕事だ。


カメラのグリップを握り直す。手のひらの汗で革が滑る。


——追え。


ヘッドセット越しに、配信開始の電子音がもう一度鳴った。

画面の端に数字が走り始める。同接カウンター。


四桁。五桁。一瞬で六桁。

まだ止まらない。加速している。


コメントが滝みたいに流れる。読めない。読めないのに、単語だけが目に刺さる。


『来た来た来た』

『ゲリラ最高』

『カメラ誰?』

『新人かな??』

『何分持つ?』

『今日も死ぬかなw』


笑いの記号がついているのが一番怖い。

俺の命に値札が貼られている。俺の見えないところで、何万人がそれを眺めている。


ミラは振り返らない。


「遅れるな」


声は前から来た。振り向かないのに、俺に向けた声だ。

いや——俺じゃない。画面に向けた声だ。


「画面を殺すな」


画面を殺す。

さっき彼女が言った「画面が死ぬ」と同じだ。俺の命より画面が先。その優先順位が、もう体に入っている。


奥歯を噛む。歯が鳴った。頭蓋の内側に響く。

カメラのグリップに、爪が食い込む。


——落とさない。


そう思った瞬間、視界が変わった。


変わった、というより——固定された。


ミラがファインダーの中心に吸い付いている。

俺が息を乱して体を揺らしたのに、画面だけが揺れない。

揺れたのは俺の体だ。肺も内臓も揺れた。なのに画角だけが、まるで別の意志を持ったみたいに修正される。


ジンバルの補正ではない。

機械の動きは"遅れてから直す"。今の動きは違った。揺れる前に補正している。


俺の足が、勝手に斜めへ出た。


危険回避の足ではない。

ミラの左側へ回り込む足。


左斜め。常に左。一ミリもズラすな。


命令が、頭を通らずに体へ入ったみたいだった。

脳で判断して動いたんじゃない。ミラの位置を"感じて"、体が最適な角度を選んだ。


何が起きている。


考える暇がなかった。


ミラが前に出た。

次の瞬間、闇が動いた。


天井の影から、黒い獣が落ちてくる。


シャドウハウンド。

入口〜中層に棲む群れ型のモンスター。犬に似た体躯に、影のように揺れる黒い体毛。単体なら脅威は低い。だが群れると厄介だ。


爪。牙。空中で首を振り、獲物を見つけた目が黄色く光った。


《空間把握》が赤い線で軌道を引く。


落下点。着地後の跳躍方向。咬みつきの角度。

そして——血飛沫の拡散範囲。


血飛沫。


その予測線を見た瞬間、胃が縮んだ。喉の奥に酸っぱいものが上がる。


ミラは止まらない。

剣を抜く動作すらなかった。右手が軽く振られ、白い光が一本走る。


シャドウハウンドの体が、空中で裂けた。


音がない。

音が出る前に終わっている。


裂けた断面から、赤い粒が散った。

飛沫の軌道が、赤い雨として視界に浮かぶ。粒の速度、角度、レンズに届くまでの時間。


飛ぶ前に拭け。


俺は息を吐く暇もなく、胸ポーチからレンズ拭きの布を掴んだ。


赤い粒が飛んでくる。

ここに。この距離で。この角度で。


俺の手が動いた。

布がレンズの前を横切る。

粒が当たる前に、滑らせる。拭くというより、受け流す。


次の瞬間——画面に赤い粒は一つもなかった。


コメントが弾けた。


『レンズ無傷www』

『今のどうやった??』

『拭くの速すぎて見えない』

『血飛沫ゼロ草』

『MIRAのスタッフやばくね』

『このカメラ誰だよ』


誰でもない。まだ名前も価値もない。

でも、心臓が鳴っている。恐怖とは違う鳴り方。速いのに、不快じゃない。


ミラが、ほんの半拍だけ首を傾けた。


「……それ」


それ、が何を指しているのかわからない。

布か。俺の動きか。画面か。


「そのまま」


褒めていない。ただ命令している。

なのに体の奥が、ほんの少しだけ軽くなった。

次に何をすればいいかが決まったからだ。この人の命令は理不尽だけど、輪郭がある。輪郭があるものは、追える。


ミラは足を止めない。前へ。


通路が広がり、柱が増え、床の材質が変わった。石灰岩から黒い花崗岩に。

空気が変わる。湿度が上がり、重くなる。金属の匂い。血の匂いじゃない。血がまだ出ていない場所の匂い。これから出る場所の匂い。


《空間把握》が示す線の種類も変わる。赤が濃くなる。本数が増える。


深度が一段、落ちた。


「佐久間」


ミラが俺を呼んだ。振り返らずに。

苗字。部品を識別する呼び方。それでも、呼ばれると喉が鳴った。

何かが認められたわけじゃない。ただ、まだ壊れていないと確認されただけ。


「寄れ」


「……寄る?」


「近い絵が欲しい」


欲しい、が命令の形をしている。


ミラとの距離、四メートル。

《空間把握》が即座に示す。ここから一メートル詰めたら、ミラの戦闘範囲に入る。彼女の剣の軌道と、モンスターの攻撃範囲が重なる領域。

安全地帯がない距離。


近い絵は——死ぬ距離だ。


でも、近い絵が同接を跳ねさせる。臨場感ボーナスが二乗で効く。

彼女はそれを知っている。知った上で、命令している。


「……了解」


自分の声が聞こえた。

了解、と言った。言ってしまった。


足が前に出る。


三メートル。


《空間把握》が、前方の柱の陰に反応した。


床の不自然な盛り上がり。魔力の波形が乱れている。空気の流れが柱の裏で分散している。


群れ。


シャドウハウンドが——十。いや、もっと。

見えるだけで十二。柱の死角にさらに。線が増える。赤が重なる。逃げ道が薄くなる。


「……来ます」


俺の声が掠れた。


ミラは笑わない。でも口元がほんの少しだけ動いた。

笑みの形だ。感情はわからない。楽しんでいるのか。怒っているのか。


「来させなさい」


右手を上げ、指を鳴らした。


パチン。


音は小さいのに、空気が裂けた。


柱の影からシャドウハウンドが一斉に飛び出す。黒い塊が雪崩になる。

咆哮が重なる。爪が光る。牙が光る。十二じゃない——十五。増えている。


《空間把握》が、赤い線を何十本も走らせる。


軌道。着地点。噛みつき角度。次の次の次。

線が重なりすぎて、地図が潰れる。


脳が追いつかない。

でも体が動く。


完全回避。自分だけ助かるスキル。

——そのはずなのに、今は違う形で発動している。


俺は"逃げて"いない。位置を取りに行っている。


ミラの左斜め。常に左。画面の中心。


シャドウハウンドが跳んだ。

最初の一匹が、俺の右側を通過する。

顔の横を風が裂く。獣の体毛の匂いがした。体温が頬に触れる距離。


《空間把握》が軌道を示していた。だから避けられた。

紙一枚。いや、もっと薄い。睫毛一本分の距離。


怖い、という感情が生まれる前に、もう終わっている。

体が回避を済ませ、カメラを保持し、画角を維持している。


揺れたのは俺の内臓だ。

胃が跳ね、横隔膜が引きつった。

なのに画面だけが滑らかに流れている。


『カメラおかしい(褒め言葉)』

『人間じゃない動きしてる』

『MIRAの動き全部映ってるんだが』

『寄りやば 臨場感えぐ』

『同接の伸び方おかしくね???』


七桁が見えてきていた。

数字が上がるたびに、背中に重りが乗る。人の視線の重さだ。何十万人ぶんの期待が、回線越しに俺の肩に落ちてくる。


ミラが剣を抜いた。


抜いた動作を、俺は見ていない。

気づいたときには剣が光っていた。

光が一本走り、シャドウハウンドの群れが二列に裂ける。裂けた隙間にミラが入る。


白い刃が闇を切り裂く。


そう見えた。

でも違う。ファインダー越しに見ると、わかる。

彼女の体の動きは刃じゃない。舞いだ。足の運び、腰の回転、剣を振る腕の角度——全部が、見る者の目を引くように設計されている。


戦っているのに、魅せている。

殺しているのに、美しい。


血が噴いた。

今度は量が違う。十五匹ぶんの血飛沫が、赤い霧になって広がる。


飛ぶ前に拭け。


俺は布を掴む。

拭いた。——拭いたつもりだった。


一回目の撫でで、大半は弾いた。でも量が多すぎる。飛沫が霧になると、方向が散る。全方位から来る。


布を戻す。二度目。三度目。


四度目——遅れた。


レンズに赤い粒が一つ、残った。


心臓が一段落ちた。


胸の奥で、何かが外れる音がした。

画面が死ぬ。ミラの価値が下がる。俺の価値が終わる。


その瞬間——視界が変わった。


赤い粒が、異様に大きく見える。

いや、大きくなったんじゃない。俺の知覚が、その一粒に集中している。


粒の形。粘度。表面張力。レンズ上での広がり方。

重力の方向。レンズの傾き。

布で拭き取れる角度。


——〇・四秒。


それだけの時間が、引き伸ばされたみたいに長く感じた。


俺の手が動いた。

布の端がレンズを撫でる。力ではない。角度だ。粒の広がる方向と逆に、布を滑らせる。


消えた。


赤が、消えた。


『消したwww』

『今の何秒?? 0.5秒くらい??』

『0.4だろ草』

『レンズ神すぎ』

『MIRAのスタッフどこから連れてきた』

『#カメラマン誰』


ハッシュタグが生まれた瞬間を、俺はファインダー越しに見ていた。

自分の行為が、文字になって流れていく。現実感がない。


ミラが初めて——ほんのわずかに——声の温度を変えた。


「……いい」


たった二文字。

褒め言葉としては小さすぎる。声量も変わっていない。振り返ってもいない。


なのに、体の芯が軽くなった。

さっきまで肺を焼いていた熱が、一瞬だけ引いた。


——この人の「いい」は、他の誰の「すごい」より重い。


理由はわからない。でもそう思った。


その余韻が消える前に。


床が鳴った。


ギシ、と。


《空間把握》が反応する。

赤い線が、今までの比じゃない濃さで足元に走った。


床下の空洞。岩盤の応力線が限界を超えている。

崩落予兆。今。すぐ。


範囲——半径三メートル。

俺の足元。ミラの足元。シャドウハウンドの残骸も巻き込む。全部。


「——落ちる!」


叫んだ。声が出た。でも自分の鼓膜に届く前に、血流の音に塗りつぶされた。


ミラは止まらない。振り返らない。


「寄れ」


さっきと同じ命令が、今度は刃になる。


寄れ。

崩れる床に、寄れ。


「落ちるんだぞ」ではない。「最高の絵を撮れ」だ。

崩れる瞬間の、一番美しいフレームを。


ミラの足元で、《空間把握》が崩落までの時間を刻む。


二秒。


一・八。


一・五。


俺の体が、一瞬だけ硬直した。


——あの通路を、思い出した。


岩針が降ったとき。

志摩の肩に当たったとき。

俺の体は、勝手に退いた。自分だけ助かる方向に。

仲間を庇う動きは、入っていなかった。


今、同じ反射が俺の足を引っ張っている。


退け。逃げろ。安全地帯はそっちだ。


《空間把握》が、逃げ道を示す。

右斜め後方。二歩で安全圏。


逃げられる。俺だけなら。


いつもそうだ。

いつも、俺だけが助かる位置を知っている。

そして——いつも、そっちを選んできた。


一・二秒。


ミラは前にいる。

崩落の中心に、立っている。

振り返らない。待たない。止まらない。


コメントが流れている。


『やばい地面!!!』

『崩れる崩れる!!!』

『カメラ逃げろ!!!』

『無理だろ新人!!!』


視聴者が、俺に逃げろと言っている。

正しい。逃げるのが正しい。


〇・九秒。


——でも。


逃げたら、画面が死ぬ。


画面が死んだら、ミラの価値が——


違う。


そうじゃない。


逃げたら——また、俺だけが助かる。


〇・六秒。


選べ。


逃げるか。

寄るか。


退くか。

踏み込むか。


俺の体が——


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ