開幕:同接は刃物
ダンジョンの入口は、昼の広場より暗かった。
暗いというより、光が吸われる。壁面に埋め込まれた照明が白く光っているのに、三メートル先から闇のほうが勝っている。
ミラの背中が、その闇に吸い込まれていく。
速い。
俺は走った。カメラを構えたまま走った。
左斜め。常に左。ズラすな。
わかっている。わかっているのに、呼吸が追いつかない。
肺の底が焼けるように熱い。喉の粘膜がひび割れた紙みたいに乾く。走るたびに胸の中で内臓が揺れて、横隔膜が痙攣する。
脚が重い。ミラは軽い。
同じ床を蹴っているのに、彼女だけ摩擦がない。走っているんじゃない。滑っている。
《空間把握》が、入口の先の通路を線で塗りつぶす。
床の継ぎ目。天井の亀裂。壁の空洞。
罠の起動線。落盤予兆。魔力の溜まり。
赤い線が重なって、地図ではなく警告になる。
なのに。
その全部より濃い輪郭が、視界の中心にある。
ミラ。
距離、五メートル。
四・八。
四・五。
詰まっている。詰まっているのに安心できない。
彼女は本気で走っていない。俺が追いついているんじゃない。まだ加速していないだけだ。
追いつけない人間は折れる。
あの男はそう言った。
追いつけなかったら。
また、置いていかれる。
あの通路みたいに。
背中だけが遠ざかって、俺だけが残る——
喉の奥が、つっかえた。
違う。今は追放じゃない。
今は——仕事だ。
カメラのグリップを握り直す。手のひらの汗で革が滑る。
——追え。
ヘッドセット越しに、配信開始の電子音がもう一度鳴った。
画面の端に数字が走り始める。同接カウンター。
四桁。五桁。一瞬で六桁。
まだ止まらない。加速している。
コメントが滝みたいに流れる。読めない。読めないのに、単語だけが目に刺さる。
『来た来た来た』
『ゲリラ最高』
『カメラ誰?』
『新人かな??』
『何分持つ?』
『今日も死ぬかなw』
笑いの記号がついているのが一番怖い。
俺の命に値札が貼られている。俺の見えないところで、何万人がそれを眺めている。
ミラは振り返らない。
「遅れるな」
声は前から来た。振り向かないのに、俺に向けた声だ。
いや——俺じゃない。画面に向けた声だ。
「画面を殺すな」
画面を殺す。
さっき彼女が言った「画面が死ぬ」と同じだ。俺の命より画面が先。その優先順位が、もう体に入っている。
奥歯を噛む。歯が鳴った。頭蓋の内側に響く。
カメラのグリップに、爪が食い込む。
——落とさない。
そう思った瞬間、視界が変わった。
変わった、というより——固定された。
ミラがファインダーの中心に吸い付いている。
俺が息を乱して体を揺らしたのに、画面だけが揺れない。
揺れたのは俺の体だ。肺も内臓も揺れた。なのに画角だけが、まるで別の意志を持ったみたいに修正される。
ジンバルの補正ではない。
機械の動きは"遅れてから直す"。今の動きは違った。揺れる前に補正している。
俺の足が、勝手に斜めへ出た。
危険回避の足ではない。
ミラの左側へ回り込む足。
左斜め。常に左。一ミリもズラすな。
命令が、頭を通らずに体へ入ったみたいだった。
脳で判断して動いたんじゃない。ミラの位置を"感じて"、体が最適な角度を選んだ。
何が起きている。
考える暇がなかった。
ミラが前に出た。
次の瞬間、闇が動いた。
天井の影から、黒い獣が落ちてくる。
シャドウハウンド。
入口〜中層に棲む群れ型のモンスター。犬に似た体躯に、影のように揺れる黒い体毛。単体なら脅威は低い。だが群れると厄介だ。
爪。牙。空中で首を振り、獲物を見つけた目が黄色く光った。
《空間把握》が赤い線で軌道を引く。
落下点。着地後の跳躍方向。咬みつきの角度。
そして——血飛沫の拡散範囲。
血飛沫。
その予測線を見た瞬間、胃が縮んだ。喉の奥に酸っぱいものが上がる。
ミラは止まらない。
剣を抜く動作すらなかった。右手が軽く振られ、白い光が一本走る。
シャドウハウンドの体が、空中で裂けた。
音がない。
音が出る前に終わっている。
裂けた断面から、赤い粒が散った。
飛沫の軌道が、赤い雨として視界に浮かぶ。粒の速度、角度、レンズに届くまでの時間。
飛ぶ前に拭け。
俺は息を吐く暇もなく、胸ポーチからレンズ拭きの布を掴んだ。
赤い粒が飛んでくる。
ここに。この距離で。この角度で。
俺の手が動いた。
布がレンズの前を横切る。
粒が当たる前に、滑らせる。拭くというより、受け流す。
次の瞬間——画面に赤い粒は一つもなかった。
コメントが弾けた。
『レンズ無傷www』
『今のどうやった??』
『拭くの速すぎて見えない』
『血飛沫ゼロ草』
『MIRAのスタッフやばくね』
『このカメラ誰だよ』
誰でもない。まだ名前も価値もない。
でも、心臓が鳴っている。恐怖とは違う鳴り方。速いのに、不快じゃない。
ミラが、ほんの半拍だけ首を傾けた。
「……それ」
それ、が何を指しているのかわからない。
布か。俺の動きか。画面か。
「そのまま」
褒めていない。ただ命令している。
なのに体の奥が、ほんの少しだけ軽くなった。
次に何をすればいいかが決まったからだ。この人の命令は理不尽だけど、輪郭がある。輪郭があるものは、追える。
ミラは足を止めない。前へ。
通路が広がり、柱が増え、床の材質が変わった。石灰岩から黒い花崗岩に。
空気が変わる。湿度が上がり、重くなる。金属の匂い。血の匂いじゃない。血がまだ出ていない場所の匂い。これから出る場所の匂い。
《空間把握》が示す線の種類も変わる。赤が濃くなる。本数が増える。
深度が一段、落ちた。
「佐久間」
ミラが俺を呼んだ。振り返らずに。
苗字。部品を識別する呼び方。それでも、呼ばれると喉が鳴った。
何かが認められたわけじゃない。ただ、まだ壊れていないと確認されただけ。
「寄れ」
「……寄る?」
「近い絵が欲しい」
欲しい、が命令の形をしている。
ミラとの距離、四メートル。
《空間把握》が即座に示す。ここから一メートル詰めたら、ミラの戦闘範囲に入る。彼女の剣の軌道と、モンスターの攻撃範囲が重なる領域。
安全地帯がない距離。
近い絵は——死ぬ距離だ。
でも、近い絵が同接を跳ねさせる。臨場感ボーナスが二乗で効く。
彼女はそれを知っている。知った上で、命令している。
「……了解」
自分の声が聞こえた。
了解、と言った。言ってしまった。
足が前に出る。
三メートル。
《空間把握》が、前方の柱の陰に反応した。
床の不自然な盛り上がり。魔力の波形が乱れている。空気の流れが柱の裏で分散している。
群れ。
シャドウハウンドが——十。いや、もっと。
見えるだけで十二。柱の死角にさらに。線が増える。赤が重なる。逃げ道が薄くなる。
「……来ます」
俺の声が掠れた。
ミラは笑わない。でも口元がほんの少しだけ動いた。
笑みの形だ。感情はわからない。楽しんでいるのか。怒っているのか。
「来させなさい」
右手を上げ、指を鳴らした。
パチン。
音は小さいのに、空気が裂けた。
柱の影からシャドウハウンドが一斉に飛び出す。黒い塊が雪崩になる。
咆哮が重なる。爪が光る。牙が光る。十二じゃない——十五。増えている。
《空間把握》が、赤い線を何十本も走らせる。
軌道。着地点。噛みつき角度。次の次の次。
線が重なりすぎて、地図が潰れる。
脳が追いつかない。
でも体が動く。
完全回避。自分だけ助かるスキル。
——そのはずなのに、今は違う形で発動している。
俺は"逃げて"いない。位置を取りに行っている。
ミラの左斜め。常に左。画面の中心。
シャドウハウンドが跳んだ。
最初の一匹が、俺の右側を通過する。
顔の横を風が裂く。獣の体毛の匂いがした。体温が頬に触れる距離。
《空間把握》が軌道を示していた。だから避けられた。
紙一枚。いや、もっと薄い。睫毛一本分の距離。
怖い、という感情が生まれる前に、もう終わっている。
体が回避を済ませ、カメラを保持し、画角を維持している。
揺れたのは俺の内臓だ。
胃が跳ね、横隔膜が引きつった。
なのに画面だけが滑らかに流れている。
『カメラおかしい(褒め言葉)』
『人間じゃない動きしてる』
『MIRAの動き全部映ってるんだが』
『寄りやば 臨場感えぐ』
『同接の伸び方おかしくね???』
七桁が見えてきていた。
数字が上がるたびに、背中に重りが乗る。人の視線の重さだ。何十万人ぶんの期待が、回線越しに俺の肩に落ちてくる。
ミラが剣を抜いた。
抜いた動作を、俺は見ていない。
気づいたときには剣が光っていた。
光が一本走り、シャドウハウンドの群れが二列に裂ける。裂けた隙間にミラが入る。
白い刃が闇を切り裂く。
そう見えた。
でも違う。ファインダー越しに見ると、わかる。
彼女の体の動きは刃じゃない。舞いだ。足の運び、腰の回転、剣を振る腕の角度——全部が、見る者の目を引くように設計されている。
戦っているのに、魅せている。
殺しているのに、美しい。
血が噴いた。
今度は量が違う。十五匹ぶんの血飛沫が、赤い霧になって広がる。
飛ぶ前に拭け。
俺は布を掴む。
拭いた。——拭いたつもりだった。
一回目の撫でで、大半は弾いた。でも量が多すぎる。飛沫が霧になると、方向が散る。全方位から来る。
布を戻す。二度目。三度目。
四度目——遅れた。
レンズに赤い粒が一つ、残った。
心臓が一段落ちた。
胸の奥で、何かが外れる音がした。
画面が死ぬ。ミラの価値が下がる。俺の価値が終わる。
その瞬間——視界が変わった。
赤い粒が、異様に大きく見える。
いや、大きくなったんじゃない。俺の知覚が、その一粒に集中している。
粒の形。粘度。表面張力。レンズ上での広がり方。
重力の方向。レンズの傾き。
布で拭き取れる角度。
——〇・四秒。
それだけの時間が、引き伸ばされたみたいに長く感じた。
俺の手が動いた。
布の端がレンズを撫でる。力ではない。角度だ。粒の広がる方向と逆に、布を滑らせる。
消えた。
赤が、消えた。
『消したwww』
『今の何秒?? 0.5秒くらい??』
『0.4だろ草』
『レンズ神すぎ』
『MIRAのスタッフどこから連れてきた』
『#カメラマン誰』
ハッシュタグが生まれた瞬間を、俺はファインダー越しに見ていた。
自分の行為が、文字になって流れていく。現実感がない。
ミラが初めて——ほんのわずかに——声の温度を変えた。
「……いい」
たった二文字。
褒め言葉としては小さすぎる。声量も変わっていない。振り返ってもいない。
なのに、体の芯が軽くなった。
さっきまで肺を焼いていた熱が、一瞬だけ引いた。
——この人の「いい」は、他の誰の「すごい」より重い。
理由はわからない。でもそう思った。
その余韻が消える前に。
床が鳴った。
ギシ、と。
《空間把握》が反応する。
赤い線が、今までの比じゃない濃さで足元に走った。
床下の空洞。岩盤の応力線が限界を超えている。
崩落予兆。今。すぐ。
範囲——半径三メートル。
俺の足元。ミラの足元。シャドウハウンドの残骸も巻き込む。全部。
「——落ちる!」
叫んだ。声が出た。でも自分の鼓膜に届く前に、血流の音に塗りつぶされた。
ミラは止まらない。振り返らない。
「寄れ」
さっきと同じ命令が、今度は刃になる。
寄れ。
崩れる床に、寄れ。
「落ちるんだぞ」ではない。「最高の絵を撮れ」だ。
崩れる瞬間の、一番美しいフレームを。
ミラの足元で、《空間把握》が崩落までの時間を刻む。
二秒。
一・八。
一・五。
俺の体が、一瞬だけ硬直した。
——あの通路を、思い出した。
岩針が降ったとき。
志摩の肩に当たったとき。
俺の体は、勝手に退いた。自分だけ助かる方向に。
仲間を庇う動きは、入っていなかった。
今、同じ反射が俺の足を引っ張っている。
退け。逃げろ。安全地帯はそっちだ。
《空間把握》が、逃げ道を示す。
右斜め後方。二歩で安全圏。
逃げられる。俺だけなら。
いつもそうだ。
いつも、俺だけが助かる位置を知っている。
そして——いつも、そっちを選んできた。
一・二秒。
ミラは前にいる。
崩落の中心に、立っている。
振り返らない。待たない。止まらない。
コメントが流れている。
『やばい地面!!!』
『崩れる崩れる!!!』
『カメラ逃げろ!!!』
『無理だろ新人!!!』
視聴者が、俺に逃げろと言っている。
正しい。逃げるのが正しい。
〇・九秒。
——でも。
逃げたら、画面が死ぬ。
画面が死んだら、ミラの価値が——
違う。
そうじゃない。
逃げたら——また、俺だけが助かる。
〇・六秒。
選べ。
逃げるか。
寄るか。
退くか。
踏み込むか。
俺の体が——




