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配信現場:命が値札の業界


Aゲートは、入口広場の一番奥にあった。


観光客が写真を撮るメインゲートと違って、ここだけ空気の色が違う。消毒液の酸っぱさ、乾いた汗、魔導バッテリーの焦げた甘さ。人の声は多いのに、誰も笑っていない。


《空間把握》が、頼んでもいないのに拾い始める。


台車の車輪が片方だけ偏摩耗している。あと数回の旋回で軸が折れる。

魔導バッテリーの外殻に微細な亀裂。過充電の兆候。持っているスタッフは気づいていない。

人の足運び。焦っている人間は踵が浮く。落ち着いている人間は重心が低い。


ここにいる全員が、踵を浮かせていた。


「佐久間透?」


受付台の向こうに、ヘッドセットの女性がいた。

目の下に濃いクマ。片手にタブレット、もう片手で紙束を押さえ、首から下がった社員証の写真は今より五歳は若い。笑っているのに、目が笑っていない。


「はい」


「遅刻してない。偉い」


褒められたのかどうか判断がつかない。

女性は俺の全身を一瞬で見て——見るというより、値踏みして——淡々と言った。


「まず、守秘契約。それから同意書。免責。あと——死亡時の取り扱い」


「……死亡時?」


「はい。死亡時」


言い方が天気予報と同じだった。

明日の降水確率みたいに、人の死を読み上げる。


タブレットがこちらへ向けられる。


《DUNLIVE現場スタッフ業務委託契約》

《ダンジョン内事故・負傷・死亡に関する免責》

《撮影データ・音声・通信ログの権利帰属》

《守秘義務(違約金:——)》


違約金の桁が、目に刺さった。

俺の全財産の、三桁上。


「普通ですか、これ」


「この現場では普通。嫌なら帰っていい」


一拍。


「帰る人、いるんですか」


「さっき一人。今朝三人。昨日は——」


彼女は指でタブレットの画面をスクロールした。数えるように。途中でやめた。


「忘れた」


忘れたんじゃない。数えるのをやめたんだ。


俺は画面に指を滑らせてサインした。

手は震えなかった。震える段階は、あの通路で終わっている。今あるのは、腹の底に溜まった冷たい空洞だけだ。


「よし。では説明します——と言いたいけど、時間がない」


女性はヘッドセットのマイクを口元に寄せた。


『現場、追加一名。カメラ候補、入れます』


返事はすぐだった。ノイズ混じりの男の声。


『了解。持って三分。壊れたら替える』


"壊れたら替える"が、カメラの話なのか人間の話なのか、区別がつかなかった。


「装備は?」


「これだけです」


俺は小さなバッグと安物のカメラを見せた。

レンズに薄い傷がある。さっき——あの通路で、ついた傷。


女性の顔が、一瞬だけ「嘘でしょ」と言った。声には出さなかったが、目が完璧に言っていた。


「……最低限、こっちで出す」


受付台の横の棚から黒いケースが引き出される。

プロ用の頑丈なカメラ。耐血コート済みのレンズ。簡易ジンバル。魔導バッテリー。レンズ拭き。予備フィルター。


一式を、俺の胸に押しつけられた。


重い。

カメラの重さじゃない。「これを壊したら人生が終わる」という重さだ。


「持てる?」


「持てます」


「落としたら弁償。弁償額はさっきの違約金の隣に書いてある」


見なくていい。見たら足が止まる。


女性は俺の胸ポケットに"STAFF"とだけ書かれたシールを貼り、最後にこう言った。


「控室はこの先、右。走って。配信者は待たせると——」


そこで一度、言葉を切った。


「——今日は、ミラの日だから」


ミラの日。


その三文字だけで、彼女の声のトーンが変わった。

天気予報の声じゃない。注意報の声だ。


俺は走った。


---


控室は、テントを三つ繋げたような仮設の空間だった。

ケーブルが床を這い、小型モニターが積まれ、スタッフが走り回り、誰かが怒鳴り、誰かが謝っている。


その中で——一箇所だけ、人がいない場所があった。


テントの奥。パイプ椅子が一脚。小さなテーブルにミネラルウォーターが一本。

そこだけ、空気が違う。温度が低い。匂いがない。


誰かのために空けてある場所だ。

そして誰も、そこに近づかない。


俺が立ち尽くしていると、横から声が飛んできた。


「お前が新しいカメラか」


振り返る。

中年の男。短髪。日焼け。目が鋭い。腕まくりしたシャツの下に、古い傷跡がいくつも見えた。


《空間把握》が拾う。この男の重心は異常に低い。踵が浮いていない。

ここにいる全員が踵を浮かせている中で、この男だけが地面に根を張っている。


「はい。佐久間透です」


「名前はいい。三日持ったら覚える」


三日。歴代カメラマンの最長記録と同じ数字だ。


男はクリップボードを片手に、俺の装備を一瞥した。


「カメラ持ったことは?」


「趣味で少し」


「趣味」


その一語に、呆れと諦めと、ほんのわずかな同情が混じっていた。


「いいか、一回しか言わない」


男はクリップボードで俺の胸を軽く叩いた。


「お前の仕事は、MIRAを撮ること。ただし——」


指を一本立てる。


「撮るな」


「……は?」


「撮るな。追え。MIRAの動きに食らいつけ。構図は考えるな。画角は気にするな。ただ、追え。追いつけたら映る。追いつけなかったら——映らない。それだけだ」


追え。追いつけ。

戦闘の話じゃない。撮影の話だ。

なのに、声のトーンが戦場のブリーフィングと同じだった。


「MIRAは待たない。振り返らない。お前が遅れても、止まらない。倒れても、止まらない。死んでも止まらない」


最後の一文で、男の目が一瞬だけ遠くなった。


過去に誰かが、本当に倒れたのだ。

そしてMIRAは——止まらなかったのだ。


「質問は」


「……一つだけ」


俺は自分でも驚くほど落ち着いた声で訊いた。


「どうして、こんなに人が辞めるんですか。MIRAさんが怖いから?」


男は少し黙った。

それから、答えた。


「怖いんじゃない。追いつけないんだ」


その言葉が、胸の奥に落ちた。

怖いから逃げるんじゃない。追いつけないから、折れる。


——俺のスキルは、《完全回避》。

追いつく能力じゃない。逃げる能力だ。


逃げるスキルで、追いつけるのか。


考える間もなかった。


テントの外が、突然静かになった。


さっきまでの怒号も足音も、全部消えた。

消えたんじゃない——息を止めたのだ。全員が。


《空間把握》が、これまでにない種類の反応を返す。


危険の輪郭じゃない。

"圧"だ。

空気そのものが、一方向に押されている。


足音が聞こえる。

軽い。規則正しい。けれどブレが一切ない。

歩いているだけなのに、地面を支配している。


テントの入口の布が揺れた。


黒羽ミラが、入ってきた。


——想像より、背は高くない。


それが最初の印象だった。

なのに、テントの中の全員の視線が、磁石みたいに引き寄せられる。

さっきまで走り回っていたスタッフが、足を止めている。

呼吸のリズムが変わっている。全員の。


《空間把握》が、彼女の情報を拾う。


重心の位置。完璧に中心。揺れがない。

筋肉の張り。戦闘直後ではない。けれど、いつでも動ける状態で維持されている。

衣装の素材。血飛沫対策のコーティング済み。胸元と袖口に強化繊維。

右手の指先に、微細な傷。爪の付け根が荒れている。何度も握り直した跡。武器を——いや、何かを握り続けた手。


そして、目。


黒い瞳が、テントの中を一巡した。

「見る」じゃない。「仕分ける」 だ。

使えるか、使えないか。必要か、不要か。

スタッフの一人一人を、一秒以下で分類していく視線。


その視線が、俺で止まった。


空気が詰まる。

胸の奥で心臓が鳴ったのが、自分に聞こえた。


一秒。


二秒。


ミラが口を開いた。


「——新しいカメラ?」


声は低い。静かだ。

怒鳴らないのに、テントの隅まで届く。


隣の男が答える。


「はい。今日のカメラ候補です」


ミラの視線が俺に戻る。

《空間把握》が、また奇妙な反応をした。ディスプレイで見たときと同じだ。

危険ではない。なのに、輪郭がある。触れたら変わる、何か。


「名前」


「……佐久間、透です」


声が掠れた。喉の奥が乾いている。


ミラは一度だけ頷いた。事務的に。書類に判を押すみたいに。


「佐久間。あなた、私を撮るのよね」


「……はい」


「なら、三つだけ覚えて」


ミラは指を立てた。


一本目。


「私が一番綺麗に映る角度は左斜め。常に左から撮りなさい。一ミリもズラすな」


二本目。


「血飛沫がレンズにつくと映像が汚れる。私の価値が下がる。飛ぶ前に拭け」


三本目。


「私が前に出たとき、あなたが一歩でも遅れたら——」


ミラは一拍置いた。

間が、刃みたいだった。


「——画面が死ぬ」


画面が死ぬ。

お前が死ぬ、ではない。画面が死ぬ。

俺の命は、画面より後ろにある。


その優先順位が、声のトーンから完璧に伝わってきた。


隣の男が、微かに肩をすくめた。

"聞いたな"という顔。


ミラはもう俺から視線を外していた。

興味を失ったのではない。分類が終わったのだ。

俺は「まだ壊れていないカメラ」として仕分けられた。それだけ。


「面接は、ここでやっても意味がない」


ミラは入口のほうを見た。ダンジョンの方角だ。


「今から入る。ゲリラで配信を回す。そこで撮れなかったら——」


振り返らずに言った。


「帰っていい。道は覚えてるでしょう」


帰っていい。

その言葉が、今朝の追放と重なった。


ここで降りろ。

帰っていい。


同じ意味だ。お前は要らない。


——でも、一つだけ違う。


あのとき、俺を切ったのは「お前のスキルは役に立たない」だった。

この人は、まだ見ていない。

俺のスキルが何に使えるか、まだ試していない。


だから——まだ、終わっていない。


「やります」


自分の声が、思ったより通った。


ミラは振り返らなかった。

けれど、足が一瞬だけ止まった気がした。

気のせいかもしれない。《空間把握》は、拾わなかった。


隣の男がヘッドセットに触れた。


『全員、配置につけ。MIRAゲリラ配信、切り替え。カメラ追随一名。新人入れる。——持って三分だ、賭けは受けない』


テントの中が、一斉に動き出す。

足音。指示。機材の音。魔導バッテリーの起動音。

さっきまでの緊張が、別の種類の緊張に変わる。

準備の緊張から、本番の緊張へ。


俺はカメラを握り直した。

手のひらの汗を、一度だけ太腿で拭う。


《空間把握》が、テントの向こう——ダンジョン入口の通路を読み取る。

壁の温度。空気中の魔力密度。床に走る罠の予兆線。奥から漏れるモンスターの気配。


線が多い。さっきの追放された階層とは比較にならない。

深い。濃い。赤い。


その全部より——目の前を歩くミラの背中のほうが、輪郭が濃かった。


ダンジョンの入口で、配信開始の電子音が鳴った。


画面の端に、数字が走り始める。

同接カウンター。


四桁。五桁。一瞬で六桁に届く。

まだ加速している。


視聴者が、雪崩のように流れ込んでくる。


コメント欄が弾ける。


『MIRA来た!!!』

『ゲリラかよ!!!!』

『待機してた甲斐あった』

『今日のカメラ誰? また新人?』

『三分持つかな笑』

『賭けようぜ。俺は5分』


五分。

俺の命に、五分の値札がついた。


ミラが振り返った。

配信のカメラに向けて——いや、違う。俺に向けて。


ほんの一瞬。

口元が動いた。


笑っていた。


怖い種類の笑みだった。

楽しんでいるのか、試しているのか、それとも——もう結果を知っているのか。


「——行くわよ」


ミラの足が前へ出る。速い。迷いがない。

闇の中に、白い背中が吸い込まれていく。


俺の足が動いた。


追え、と言われた。

追いつけなかったら終わりだ、と。


——逃げるスキルで、追いつけるのか。


わからない。

でも、足は止まらなかった。


《空間把握》が、通路の全情報を叩き込んでくる。

壁。床。天井。罠。気配。温度。湿度。そしてミラの背中までの距離。


七メートル。


六メートル。


五——


レンズの向こうで、悪魔が笑っている。


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