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契約交渉:値札を付けられる側


白いライトが眩しい。


救護テントの蛍光灯は、ダンジョンの光と違って容赦がない。影の逃げ場がなくて、全部を平らに暴く。傷も、疲労も、目の下の隈も。


俺の前腕は縫われた。縫い目の下で皮膚が引っ張られている。指を曲げると、糸が「まだだ」と言う。


右肩は、もっと酷い。ストラップを引っかけた瞬間に抜けかけた関節が、呼吸のたびに小さく鳴る。骨じゃない。靭帯の音だ。体の中で何かが正しい位置に戻れなくなっている音。


膝の上に、カメラがある。


レンズを支えていた軸が動かない。モーターの音がしない。レンズの黒い染みだけが消えない。ファインダーの右上に、いつも薄い影がかかっている。


——なのに。


コメント欄が流れている。


『カメラマンの腕、縫うところも配信して』

『倫理を置いてきたのは深層だけじゃない』

『労災申請フォーム、今なら「神回の傷」で通りそう』


……まだ?


配信は終わったはずだ。Aゲートのディスプレイに『LIVE END』が出ていた。俺もそう思っていた。


録画ランプを見た。


赤い光。点灯。点滅じゃない。


点灯は——ライブ。


背中に冷たいものが走った。

ゆっくり息を吸う。喉が裂けない。地上の空気だ。なのに、胃の底が落ちる。


ミラを見た。


担架の上。毛布。目を閉じている。起きているのに「起きてない顔」。

呼吸は浅い。でも眠っていない。眠っている人間の呼吸は、もっと無防備だ。


——切っていない。


会場の表示が終わっただけだ。公式の枠が閉じても、ミラの配信は閉じていない。

カメラが回っている限り、世界は流れる。


つまり今このテントの中が——全部、流れている。


縫われている俺の腕も。死んだカメラも。担架の上のミラも。

そしてこれから始まる「契約」も。


俺は反射でカメラを伏せかけて——やめた。


ミラが切っていないなら、理由がある。

ミラが意味のないことをするのを、俺はまだ一度も見ていない。


右腕は毛布の下に隠れている。見ない。赤い線の密度を確認しない。確認したら、数字が現実になる。


《空間把握》を薄く起動した。テント内の動線。人の足運び。物の置き方。空気の流れ。


そして——入口。


めくれた布の向こうから、靴音が入ってくる。革の硬い音。焦りのない音。現場じゃなくて会議室の音だ。


桐生玲奈が入ってきた。


スーツの皺がゼロ。髪もゼロ。人間としての隙がゼロ。

なのに目だけが動いている。数字を探す目だ。テントの中を一周見て、ミラの担架を見て、俺のカメラを見て、俺の縫われた腕を見て——そのすべてに値段をつけている。


後ろに、運営側の人間が二人。胸のID。タブレット。無表情。


最後に、現場の男。短髪。クリップボード。名前はまだ知らない。


玲奈が笑った。


「本日は本当に……歴代級です。ミラさん。佐久間さんも——お疲れさまでした」


「お疲れさま」の温度がゼロだった。深層の闇より冷たい。あっちは殺意がある分だけ正直だ。こっちは笑顔で値踏みしている。


ミラが目を閉じたまま、遮った。


「打ち上げ? いらない」


間髪入れず。


「契約の話をする」


空気が固くなった。救護班の手が止まる。運営の二人が同時にタブレットを起動する。玲奈の笑顔が一段——営業に切り替わる。


現場の男だけが、淡々と俺の膝のカメラを見た。


「……それ、死んでるな」


「死んでます」


言ってしまってから、妙に可笑しかった。さっきまで俺たちが死にかけていて、今はカメラの死亡確認をしている。優先順位が壊れている。


コメント欄が刺してくる。


『カメラ死亡確認は草』

『人間の方も死亡確認しろ』

『労災シリーズ、機材編に突入』


——やめてくれ。俺の腹筋は縫われてないけど、今笑ったら肩が外れる。


玲奈がタブレットを差し出した。紙じゃない。紙の時代はとっくに終わっている。


「こちら、専属契約のドラフトです。待遇は——かなり良いです」


「“かなり”じゃ分からない」


ミラが目を開けた。それだけで、玲奈の背筋が一ミリ伸びた。


「数字で言いなさい」


玲奈が即座に数字を出す。月額。歩合。危険手当。肖像権とデータ権の帰属。違約金。


桁が多い。


追い出されたときの違約金が、目の裏にフラッシュバックした。あのときの桁と、今の桁が並ぶ。

あのときは払えなくて逃げた。今は——俺に付く値段が、あのときの違約金を超えている。


値札が、俺にも付いている。


その実感が、胃の底に落ちた。重い。カメラより重い。


玲奈が続けた。


「専属です。今後の配信は原則、佐久間さんがメインカメラ。サブは運営側でバックアップを——」


「要らない」


ミラが切った。


「私の画を撮れるのは、今ここにいるこの人だけでしょ」


この人。


ミラはいつも「カメラ」と呼ぶ。機材として扱う。

それと同じ温度のはずなのに——「この人」と言った。


一文字だけで、喉の奥が詰まった。


運営の一人が淡々と言う。


「ただし、危険行為については再発防止策を——本日の配信は、監査対象になります」


玲奈の目が、そこで初めて俺の膝の上——録画ランプに落ちた。


赤い光。点灯。


笑顔が、止まった。


「……ミラさん、これ——まだ配信されて……」


ミラは目を開けないまま答えた。


「ええ」


そして、追い打ちみたいに。


「契約の話をするって言ったでしょ。——全員の前で」


テントの中の全員が、同時にカメラを見た。


赤い点灯。ライブ。


今の会話が全部、流れている。スポンサーの名前も。金額も。条件も。


玲奈の笑顔が、初めて揺れた。

運営の二人がタブレットの画面を確認する。一人の顔色が変わった。


コメント欄が踊った。


『えっ 今の契約の話????』

『ガチの契約交渉ライブで映してる!?!?』

『ミラ様、配信切ってなかったの!?』

『スポンサーの顔wwwww』

『交渉を公開する女、怖すぎる』


——そうだ。怖い。

でも俺が一番怖いのは、今この瞬間も、ミラの右腕が毛布の下で脈打っていることだ。


玲奈が喉を鳴らした。営業の呼吸に戻そうとしている。でも、戻らない。視聴者の前では、戻せない。


「炎上も来ています。“危険配信”“やらせ疑惑”。スポンサー側としては……次の案件では安全演出を——」


「安全演出?」


ミラの声が低くなった。


「私に死ねって言って、次は安全を撮れって言うの?」


運営が間に入る。


「死ねとは言っていない。規約上——」


ミラが口角を上げた。歯は見えない。深層で見た笑いの、軽い方。


「規約の話なら、深層に貼ってきて」


コメント欄が壊れた。


『wwwwwww』

『深層に貼ってきては名言』

『規約を深層に貼る配信、需要ある』

『運営の顔が死んでる』


沈黙が落ちた。


沈黙の中で、玲奈が本題に戻した。崩れない。この人は崩れない。

ただし——視聴者が見ている前で、安い値段は出せない。視聴者の前で「危険配信を続けろ」とも言えない。


ミラは、交渉の前に勝負を終わらせていた。


「佐久間さん、サインを」


タブレットが俺の前に来た。ペンが渡される。


手が、動かなかった。


サインすれば値札が固定される。固定されたら逃げられない。


俺は一瞬、テントの出口を見た。布一枚めくれば外だ。逃げられる。

逃げた瞬間に、また「なかったこと」になる。


ミラの声が、落ちてきた。


「条件があるなら言いなさい」


ライブで。


視聴者の前で。


——カメラマンが条件を出す。その想定がなかった空気が、テントに漂う。


息を吸った。喉が裂けない空気。地上の空気。

深層では一言しか言えなかった。「——後ろ」「——八秒」。それが限界だった。


でもここは地上だ。


「危険の線引きは、俺が決めます」


声が出た。自分の声が自分に聞こえた。掠れている。でも震えてはいない。

怖い。今の言葉も全部流れている。指一本で“調子に乗った裏方”にされる。


運営が即座に被せた。


「不可能です。危険判断は運営——」


「運営は現場にいない」


言ってから胸が痛んだ。言い過ぎたかもしれない。立場を忘れたかもしれない。

でも——ミラが俺を見ていた。


値踏みじゃない目。測っている。俺の言葉を。俺の線引きを。

その目に見られている間は、退けなかった。


「俺が“撮れない”と思ったら撤退します。画面のために死ぬのは……線を越えてる」


言い切った。


テントが静かになった。


次に、ミラが言った。俺の言いたい残りを、全部。


「補助魔法の使用許可と機材更新の即時承認。それと——現場の動きに口を出さないこと」


俺が方向を示して、ミラが道を切り開く。

深層と同じ。場所が違うだけで、回路は同じだった。


玲奈が笑った。小さく。


「……“口を出さない”は難しいですね。ブランド——」


ミラが被せた。


「ブランドより、レンズでしょ」


コメント欄がさらに燃える。


『言ったwww』

『ミラ様が代弁してて草』

『スポンサー「ブランド」 ミラ「レンズ」 戦争だ』

『労災申請フォーム(契約係争)』


玲奈が俺を見る。刺す目だ。


「佐久間さん、あなたは——」


「この人は“カメラ”じゃない」


ミラが言った。声は低い。淡々。だが、空気が変わった。


「今日、私の死角を守った。私の命を守った。私の画を守った。それが出来る人間に権限を渡さないなら——次は誰も守れない」


それもライブで流れている。ミラの評価が、世界に流れている。


運営が反論しようとして、止まった。

止まる理由は一つだ。


数字。


歴代級の数字が口を塞ぐ。

しかも今この瞬間も、契約交渉を見て同接が増えている。最悪だ。最強だ。


現場の男がクリップボードを叩いた。


「……機材、次は新品入れろ。今日のはもうダメだ。あと、こいつの肩、明日動かすな。——壊れる」


「明日も来い」


ミラが即答した。


現場の男が無表情で返す。


「……殺す気か」


ミラは笑わない。


「生きたなら、来れるでしょ」


俺の肩が痛んだ。痛みが「明日」を連れてきた。

明日がある。明日があるということは、終わっていない。


玲奈が深く息を吐いた。負けた時の呼吸だ。でも笑顔は消さない。


「……分かりました。条件、調整します。危険判断の優先度、現場裁量の条文を入れる。補助魔法の使用許可、機材更新の即時承認。代わりに——」


「代わりに、何」


ミラが聞く。


玲奈は笑って言った。視聴者の前で、嘘がつけない顔で。


「炎上時の矢面は、あなたたちです。運営は守りません」


ミラが薄く頷いた。


「元からよ」


——元からだ。深層で俺たちを守ったのは、規約でもスポンサーでもない。カメラの向きと、氷の刃と、ストラップ一本だった。


俺はペンを握った。


震えている。怖さじゃない。線を引いた後の重さだ。

ここに名前を書いたら、もう「ただのカメラマン」じゃなくなる。そしてその瞬間がライブで流れる。


サイン欄。カーソルの点滅。


書いた。


佐久間 透


書き終えた瞬間、指の震えが止まった。


ミラが俺を見た。目が細くなる。


「……悪くない」


否定の否定。

でも今はそれで十分だった。


コメント欄が爆発した。


『サインした!!!!!』

『就職ライブwww』

『#神カメラ 内定おめ』

『労災申請フォーム(内定)』

『次は労基じゃなくて労務契約だった』


玲奈が最後の確認をする。


「専属開始は“明日”でよろしいですね?」


ミラが言った。


「明日も来い。遅刻したら殺す」


その言い方が、いつもの冗談みたいな冗談じゃなかった。

冗談の温度に、少しだけ本気の熱が混じっている。


俺は逃げなかった。


逃げないで、と言われたからじゃない。

値札が付いたからでもない。


ここで逃げたら、また「なかったこと」になる。

今日撮ったものも。今日掴んだ腕の細さも。今日聞いた「この人」も。


それだけは嫌だった。


ミラの声が落ちた。


「——佐久間透」


フルネーム。初めて、フルで呼ばれた。


追い出されたとき、苗字だけ呼ばれた。切り捨てるための音だった。

ミラにも苗字で呼ばれてきた。識別するための音だった。


今のは違う。名前として呼ばれた。

ライブで、世界の前で。


「明日、カメラ持って来なさい。新品で」


「……はい」


声が掠れなかった。


ミラが最後に言った。


「——切って」


静かに。短く。


俺は録画ランプに指を伸ばした。


赤い点灯が、消えた。


テントの中が、急に静かになった。コメントが消える。数字が消える。視聴者が消える。

残ったのは、蛍光灯の白い光と、縫われた腕の痛みと、壊れたカメラの重さと。


ミラが、配信が切れた後にだけ聞こえる声量で、つぶやいた。


「……足りない」


何が足りないのか、聞けなかった。


でも——ライブの中の言葉より、この言葉のほうが重かった。


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