脱出:勝っても帰れない
息ができる。
それだけで、泣きそうになった。
中層の空気は湿っていて、重くて、肺の底に溜まるような不快感がある。でも——削らない。吸っても喉が裂けない。それだけで十分だった。
ミラは岩壁に背中を預けて、目を閉じていた。
右手の赤い線が、手の甲から指先を超えて前腕の半ばまで這っている。深層に入る前は手の甲に収まっていたのに、今は腕を覆う地図になっている。線と線の隙間がほとんどない。脈に合わせて、全部が同時に光る。
カメラを向けない。
ミラの右腕は、撮らない。
ファインダーには岩の天井だけを映した。湿気で光る鍾乳石と、どこかから垂れる水滴の音。配信画面としては最悪だ。
コメント欄が動いた。
『え 天井?』
『ボス倒したあとに天井の配信始まった』
『鍾乳石チャンネルに転生した説』
『いや休憩でしょ 人間だもの』
『人間じゃないだろあの女』
——うるさいな。
でも、ありがたかった。コメントが流れているということは、通信が生きているということだ。深層では完全に死んでいた電波が、ここでは細い糸みたいに繋がっている。
同接カウンターの数字が見えた。桁が多すぎて、一瞬読めなかった。
「——聞こえますか」
通信に声を入れた。
返事は、砂利を噛んだような音の向こうから来た。
「生きてるね——出口、潰れてる——西ルートの亀裂から裏に回って——ミラを映すな——。」
そこで途切れた。呼び返しても、もう繋がらなかった。
いつもこうだ。必要なことだけ言って、こっちの状態なんか聞かない。「怪我は」とか「大丈夫か」とか、そういう言葉がない。
でも「ミラを映すな」は、たぶん——そういう意味だ。
レンズを天井に向けたまま、立ち上がった。膝が笑っている。足の裏が、中層の岩の硬さを久しぶりに感じて、逆に怖い。深層では踏めば沈んだ。ここでは沈まない。沈まないことが、かえって信用できない。
カメラを持ち直した。レンズに黒い染みが残っている。深層で付いたものだ。拭いても取れない。ファインダーの右上に薄い影が常にかかっている状態で、それが妙に気になる。
ミラが目を開けた。
立ち上がる動作に魔法を使わなかった。右手を壁に当てて、膝を伸ばして、足に力を入れて——純粋な筋力だけで立った。
赤い線が、腕の上で脈打った。
「——行くわよ」
短い。いつも通り。
でもその声が少しだけ低かった。それだけで、回復しきっていないことが分かる。分かるけど、カメラは向けない。
---
西ルートの亀裂。
《空間把握》を起動した。
中層の壁と天井に赤い線は——ない。深層だけの現象だったのか、それとも見えないだけか。どちらにしても、ファインダーの黒い染みが引っかかる。あの染みが反応したら、また何か来る。
通路は狭かった。肩幅ぎりぎり。カメラを体の前に抱えて、横歩きで進む。ミラは前を歩いている。背中が見える。右手は体の横に下げたまま、壁には触れていない。壁に触れたくないのか、触れると何かが起きるのか。聞けない。聞く距離じゃない。
コメント欄。
『洞窟探検パートだ』
『急に地味になったな』
『いやこの静けさが怖いんだって』
『BGMほしい』
『BGMは甘え』
——音がした。
小さい。岩を引っ掻くような、乾いた音。
《空間把握》が反応した。前方、上——天井の裂け目の奥に、何かが蠢いている。
レンズの黒い染みが——震えた気がした。いや、手が震えてるだけだ。たぶん。
ミラが足を止めた。
天井を見ている。
暗い。補助灯をつけるか迷った。光を当てれば見える。見えれば撮れる。でも、光を当てたら向こうもこっちを見る——。
ミラの左手が、小さく上を指した。
「つけろ」だ。
補助灯を点けた。
白い光が天井を舐めた。
ブラインドティック。
虫だ。灰色の外殻に、退化した眼が並んでいる。一匹じゃない。天井の裂け目が巣になっていて、光が届く範囲だけでも数えきれない。岩の色と虫の色が同じで、どこまでが岩でどこからが虫か分からない。天井が生きているように見えた。
『ヒッ』
『無理無理無理無理無理』
『虫パートやめて』
『労災(虫)』
光が当たった個体が一斉に身を縮めた。光に弱い。だが縮んだだけで、逃げてはいない。補助灯を消した瞬間に動き出す。
ミラが右手を持ち上げかけて——下ろした。
赤い線が腕の上で脈打っている。魔法を使えば片付く。でも使えば線が増える。深層であれだけ増えた線が、これ以上増えたら——。
ミラは使わなかった。
代わりに、俺を見た。
補助灯。それしかない。
カメラの補助灯の光量は限られている。バッテリーも無限じゃない。今の残量で、虫の巣の下を何メートル歩けるか。通路の長さが分からない。途中で光が切れたら、暗闇の中で天井から虫が降ってくる。
選択肢は二つ。引き返すか、光が保つことに賭けて進むか。
ミラが歩き出した。
——選択肢は一つだった。
虫は光に怯むだけで、道を空けない。ミラの頭上三十センチを灰色の腹が埋めている。光の円の端で、縮んでいた個体が脚を伸ばしかける。補助灯の角度を少し振ると、また縮む。
綱渡りだった。
光を正面に向けすぎると頭上が暗くなる。上に向けすぎると足元が見えない。ミラの歩幅に合わせて、角度を変え続ける。腕が痺れてきた。カメラの重さが倍になったように感じる。
ミラの髪に、虫の脚が触れた。
ミラは払わなかった。足を止めなかった。速度を変えなかった。
——俺は補助灯を二センチ上に傾けた。虫が縮む。脚が離れる。
それだけ。それだけのことに、心臓が喉まで上がってきた。
『あっっっぶな』
『髪!!!!髪!!!!』
『カメラマン偉い 角度変えた』
『キャンプファイヤーしよう(提案)』
通路が広くなった。天井が高くなる。虫の密度が薄れて、岩肌が見え始めた。
抜けた——と思った。
補助灯のバッテリー表示が点滅していた。残り一割を切っている。あと数分で切れる。あの通路がもう少し長かったら——。
考えないことにした。
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広い空間に出た。
中層の中継地点だ。天井が高く、壁が左右に開いている。見覚えがある。来たときに通った場所だ。
瓦礫の隙間の向こうに、白い光が見えた。
地上の光だ。出口だ――と思った、その瞬間。
よく見ると、来たときに使った東の通路は——崩れていた。瓦礫が積み上がって、完全に塞がっている。
通信の言葉通りだ。出口が潰れてる。西ルートの亀裂から裏に回れ。
ミラが壁際に寄った。呼吸を整えている。右手を見ている。腕の赤い線が、さっきよりゆっくり脈打っていた。落ち着いてきたのか。それとも、そう見せているだけか。
コメント欄は少し落ち着いていた。
『虫ゾーン生還おめでとうございます(まだ洞窟の中)』
『出口どこ?????』
『西ルートの亀裂ってどっち』
『カメラマンのバッテリー大丈夫?』
『労災申請のフォームってどこでダウンロードできますか?』
『このチャンネル労災シリーズになってきた』
——《空間把握》が、揺れた。
揺れた、という表現が正しいか分からない。スキルが捉えている空間の輪郭が、一瞬だけ歪んだ。ほんの一瞬。
足元。
床の岩に、赤い線が一本走っていた。
中層にはないはずの、赤い線。
細い。髪の毛ほどの太さ。見落とす。《空間把握》がなければ絶対に見落とす。
でも、ある。
深層から染み出してきている。
ミラが振り返った。見えていたのか、気配で分かったのか。ミラの目が、床の赤い線を追っている。
赤い線は一本だけじゃなかった。
《空間把握》の範囲を広げた。床の岩の下に、赤い線が網目状に走っている。表面に出ているのは一本だが、その下には——。
地面の下で、赤い地図が広がっていた。
中層まで来ている。深層で終わったはずのものが、浸食している。ヴォイドアイリスを倒しても、赤い線は止まっていなかった。
レンズの黒い染みが——光った。
ファインダーが白く飛んだ。補助灯の残り僅かな光が染みに反射して、視界を奪った。
《空間把握》が途切れた。
足の下の感覚が、変わった。
硬かった岩が——柔らかい。
深層の、あの床と同じだ。踏んだら沈む。沈んだら戻らない。
「——ッ」
声にならなかった。声を出す前に体が動いた。左手でミラの腕を掴んだ。カメラは右手で持ったまま。ファインダーは白いまま戻らない。
床が、落ちた。
岩じゃない。赤い線が岩を食っていた。表面だけ残して、中身を空洞にしていた。人が二人立った重さで、殻が割れた。
落ちる。
暗い。《空間把握》が戻らない。カメラのファインダーも白いまま。何も見えない。見えるのは、左手に感じるミラの腕の細さだけ。
軽い。
こんなに軽いのか。あれだけの魔法を使って、あれだけ戦って、体重がこれしかないのか。
落ちながら考えていた。カメラを離せば両手で掴める。カメラを離せば安定する。カメラを離せば——。
離さなかった。
右手にカメラ。左手にミラの腕。
どっちも離していない。
風が下から吹き上げてくる。落下が続いている。底が見えない。底があるかも分からない。
ミラが、俺の左手を見た。
暗闇の中で、赤い線だけがミラの腕を照らしている。脈打つ赤が、唯一の光源だった。その光で、ミラの目が見えた。
怒ってない。笑ってもいない。
ただ、見ていた。
「手。放して」
短い。静かだ。
風の音の中で、聞き逃してもおかしくない声量だった。でも聞こえた。
命令じゃない——と思った。
命令なら「放しなさい」と言う。ミラはいつもそう言う。
「放して」は——。
ミラの右手が動いた。赤い線が脈打つ右手が、俺の左手に——。
『え』
『え??????????????』
『まって』
『待って待って待って待って待って』
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録画ランプが、赤く点滅していた。
カメラは回っている。何も映っていない闇の中で、カメラだけが回っている。
コメント欄が、止まらなかった。




