ボス戦(後半):神回の誕生
裂け目の奥で、何かが回っている。
黒い花弁。何枚も重なって、開いて、閉じて、開いている。カメラの絞りと同じ動き。レンズの中にある機構が、裂け目の向こう側に——生き物の大きさで在る。
中心に、黄色い瞳。
ヴォイドゲイザーの目とは違う。あれは「見る」ことで空間を食った。この瞳は見ていない。焦点を合わせている。何かにピントを合わせ続けている。
ミラが名前を吐いた。
「ヴォイドアイリス」
知っている声だった。初めて見るものの声じゃない。何度もここに来て、何度も見て、何度も撮れなかったものの名前。
「ヴォイドゲイザーは目。これは——門そのものよ」
門。虹彩。裂け目の焦点機構。あの絞りが閉じるたびに、世界が一枚ずつ消える。開くたびに、向こう側が覗く。
ヴォイドアイリスの花弁が、ゆっくり閉じ始めた。
閉じる動きに合わせて——床が消えた。
ヴォイドゲイザーの欠落とも違う。あれは「存在が消える」だった。これは「フレームが抜ける」。写真のコマ送りから一枚だけ引き抜いたように、連続した空間の一部分が——なかったことになる。
音がない。過程がない。因果がない。
さっきまで石だった床が、最初から石ではなかったかのように。
《空間把握》が花弁の動きを追った。閉じる速度。一・三秒。次に開くまで〇・四秒。閉じている時間のほうが長い。閉じるほど世界が消える。
こいつは、閉じるために存在している。
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ミラが言った。
「佐久間。——囮になって」
囮。
心臓が跳ねた。怖い。でも「寄れ」より怖くない。寄れは「死ね」で、囮は「役割」だ。役割がある恐怖は、ない恐怖より耐えられる。
「画角、中心に置いて。——私が横から割る」
横から。絞りの死角。真正面から見たものが消される。なら、斜め。虹彩の縁。花弁の隙間。
俺のカメラが「見させる」側に回る。ヴォイドアイリスがレンズに焦点を合わせている間、ミラの側は手薄になる。
返事はしなかった。カメラを裂け目の中心へ寄せた。
画面のど真ん中に、黄色い瞳。その周囲に、黒い花弁。視聴者が一番見たがる構図。
同接が跳ねた。
コメントが叫ぶ。
『やばいの来た』
『目じゃない、絞りだ』
『カメラみたいなやつ!』
『これ運営の演出じゃない、無理、怖い』
『#神カメラ お願い、落とさないで』
一行だけ混じった。
『視聴者:見たい ダンジョン:見せる 運営:課金 俺:泣く』
泣けない。泣いたらレンズが曇る。曇ったら焦点がズレる。ズレたら——死ぬ。
ヴォイドアイリスの瞳が、レンズに焦点を合わせた。
ファインダーが白く弾けた。砂嵐。瞬き未満。
白の中に——文字が見えない。
さっきは見えた。「みている」が見えた。今度は見えない。白だけ。純粋な白。
見えないほうが怖かった。いなくなったのか。それとも、見えないほど近いのか。
砂嵐が消えた。映像が戻った。
でも俺の手は止まっていない。ファインダーの中心に黄色い瞳を据えたまま。囮は逃げない。逃げたら焦点がミラに移る。
ミラが視界の端で動いた。黒線の輪郭でしか見えない。左斜め。常に左。俺の画角の外側を走っている。
花弁が閉じていく。一・三秒のカウント。閉じるたびに世界が消える。俺の足元の床が一枚。右の壁が一枚。天井が一枚。
フレーム単位で世界が死んでいく。
でも俺のファインダーだけは生きている。中心に瞳を据えているから。瞳に焦点が合っている間、ヴォイドアイリスも俺に焦点を合わせている。見る側と見られる側が重なっている。
その間、ミラは——消されない。
花弁が閉じきる〇・二秒前。
カメラを一気に引いた。中心からズラした。
最初の合図は“寄る”。二つ目は“引く”。現場の暗黙だ。
引いた動きで、ミラに伝える。「今」という一語を、カメラの動きで投げる。
ミラが跳んだ。
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ミラの体が、闇を裂いて飛んだ。
剣がない。氷も出ない。二十一本の赤い線が走る右手だけを突き出して、花弁の縁に向かっていく。
ヴォイドアイリスの焦点が俺のレンズから外れた。ミラを捕捉しようとする。花弁の内側が、ミラの方向に向く。
遅い。
ミラのほうが速かった。
ミラの指先から霜が出た。薄い膜。それだけ。杭でも壁でもない。ただの霜。
霜が、花弁の縁に張り付いた。
閉じきる瞬間の花弁に。黒が締まる瞬間に。
霜が凍った。薄い氷の輪。絞りの縁を一瞬だけ固定する。
花弁が——止まった。
閉じきれない。閉じきれないまま、開こうとして、開けない。氷が噛んでいる。機構が壊れかけている。
ヴォイドアイリスが反応した。
瞳が大きく開いた。開いたというより——露出した。普段は花弁の奥に隠れている部分が、強制的に剥き出しになった。
中心の奥に、もう一段深い黄色い光。入れ子の瞳。その奥にさらに闇。覗いたら戻れない深さ。
でもミラは覗き込んでいた。目を逸らさずに。
ミラの右手が、露出した瞳の縁を掴んだ。
氷の輪ごと。花弁ごと。素手で。
掴むはずのないものを掴んでいる。手が壊れる。指が壊れる。でもミラは掴んだ。
花弁がきしんだ。
金属みたいな音。カメラの中の機構が壊れるときの、あの音。闇の中に、高く澄んだきしみが響いた。
ミラの右手から、光が生まれた。
ヴォイドアイリスの瞳から漏れる黄色い光を、ミラの指が吸い取っている。吸い取って、凍らせている。指の中で光が白く変わっていく。温度が下がっていく。
光の針。
あの——ヴォイドゲイザーを凍らせたのと同じ武器。敵の光を凍らせて、敵の内側に返す。
ミラの右手の赤い線が脈打っていた。速い。速すぎる。増えているのがわかる。数える余裕はない。ファインダー越しに見える線の密度が、さっきと明らかに違う。手の甲が赤い線で埋まっている。手首を越えて、前腕に伸びている。
でも数えない。数えたら、撮れなくなる。
ミラが手を開いた。掌の中に、細い針。長さ十五センチ。黄色い光を凍らせた、一本の光の針。
ミラが針を突き込んだ。
露出した瞳の、中心に。
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光が弾けた。
黄色ではない。白い光。ミラの氷の光。
瞳の内側から凍結が始まった。外からではなく、内側から。虹彩が凍る。花弁が凍る。「見る」機構そのものが凍っていく。
ヴォイドアイリスの瞳に、ひびが走った。十字のひび。そこから光が漏れて、闇を白く染めた。
白い光。
ファインダーに映像が戻った。光で照らされた映像。凍結していく巨大な絞り機構と、その縁に片手でぶら下がるミラの姿。
撮った。
ファインダーの中に、すべてが収まった。白い光。凍りゆく花弁。ひび割れた黄色い瞳。ぶら下がるミラの横顔。二十何本かわからない赤い線が走る右手。
完璧な構図。
完璧すぎて、胸が痛い。
ヴォイドアイリスの花弁が、一枚ずつ砕けていった。凍った花弁が闇に散る。黄色い光の破片が、雪のように降る。
また——黄色い雪。
でもさっきの雪とは違う。ヴォイドゲイザーの雪は静かだった。ヴォイドアイリスの雪は——重い。粒が大きい。光が強い。破片のひとつひとつが、闇を深くまで照らしている。
ミラの体が離れた。掴んでいた花弁が砕けて、体が落下する。
落下しながら——ミラの顔が見えた。
笑っていなかった。
初めてだった。勝った瞬間に、ミラが笑っていない。ヴォイドゲイザーを倒したときは「面倒ね」と吐いた。裂け目の前では歯を見せて笑った。
今は——何もない顔。空っぽの顔。全部出し切った顔。
ミラが落ちていく。
俺は壁の凹凸を蹴って飛んだ。ミラが落ちる方向に。カメラが首からぶら下がって暴れる。両手を空けた。
左腕がミラの背中を掴んだ。
重い。人の体の重さ。画面の中の存在じゃない。人間が腕の中にいる。
ミラの体温が低い。冷たい。
残った足場に着地した。膝が軋んだ。でも立っている。ミラを抱えたまま。
黄色い雪が降り続けている。ヴォイドアイリスの破片が、まだ散っている。光が闇を照らしている。
その光の中で——裂け目が閉じていく。
門の焦点機構が壊れた。焦点を維持できなくなった裂け目が、ゆっくりと、自分の重さで閉じていく。
閉じていく裂け目の向こうに、黄色い光が一つだけ残っていた。覗いている。まだ覗いている。閉じる隙間から、こちらを。
背中の冷えが、一段深くなった。
裂け目が閉じた。
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閉じた瞬間、深層が怒った。
床が鳴った。ギシ。嫌な音。
深層に入ったときの沈下は〇・三ミリだった。それが一気に一センチ。戻らない。床全体が沈んでいく。
《空間把握》が赤を吐き出した。赤い線が爆発するように空間を埋めた。裂け目を閉じる前より密度が高い。線と線の隙間が十センチもない。
見られすぎた。神回が生まれた代償として、空間そのものが拒絶反応を起こしている。
ミラの目が薄く開いた。腕の中で。
「……こっち」
声が小さい。でも方向がある。
ミラの目が見ている壁。そこに——亀裂があった。赤い線が走っていない、一本だけの亀裂。壁の構造的な隙間。裂け目ではない。深層が深層になる前からあった、古い隙間。
ミラはこれを知っていた。何度もここに来たから。何度も撤退したから。
走った。
ミラを支えたまま。カメラを首からぶら下げたまま。録画ランプが揺れるたびに赤い光が壁を舐める。
亀裂に体をねじ込んだ。ミラを先に押し込んで、自分も続いた。
狭い。肩が岩に擦れる。前腕の傷が壁に当たって、視界が白く飛ぶほど痛い。でも止まらない。
亀裂の向こうに——空気が変わった。
重さが違う。砂混じりの、でも呼吸できる空気。深層の空気じゃない。
中層。
出た。
背中で亀裂が軋んだ。深層の赤い線が亀裂を塞いでいく。入り口が消えていく。
振り返った。
亀裂の奥は、もう赤で埋まっていた。何も見えない。何も通れない。
中層に——戻った。
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ミラの体を壁にもたれかけさせた。背中が中層の岩肌に触れて、ずるりと滑った。座り込む形になった。
ミラの目が閉じている。
呼吸はある。浅い。でもある。
右手の赤い線を数えたが。
もう“線”というより“地図”だ
深層に入る前は十六本だった。
カメラを構えた。構えて——下ろした。
ミラの寝顔を撮れる。撮れば数字が取れる。「ミラの寝顔」は配信史上初かもしれない。コメント欄が爆発する。同接が跳ねる。
でも。
撮らなかった。
カメラを膝に置いた。録画ランプが赤く点いている。レンズは天井を向いている。中層の、ただの岩天井。何も映っていない。
コメント欄が流れている。
『生きてる???』
『ミラ寝てない?大丈夫?』
『カメラマンさん映して!!顔映して!!』
『映さないの偉い』
『映さないの偉いが見たい。人間の矛盾。』
同接カウンターは八桁の後半で、まだ回っている。誰も落ちていない。
俺は壁にもたれた。ミラの隣に。五十センチの距離を空けて。
手が震えている。カメラを持っていないのに、まだ震えている。
ミラが薄く目を開けた。
俺を見ていない。天井を見ている。何もない岩肌を。
「……佐久間」
「はい」
「合格よ」
声が小さかった。配信に乗っていない。コメント欄は反応していない。五十センチの距離でしか聞こえない声量で、ミラは——合格を出した。
百万人以上が見ている配信で。誰にも聞こえない声で。
面接が、終わった。
「——ありがとうございます」
それだけ言った。それ以上は出なかった。
ミラは目を閉じた。
俺はカメラを持ち上げて、中層の岩天井を映した。何も起きていない画。安全な画。ミラが休んでいる間の、何も映さない映像。
でもこの映像を、八桁の人間が見ている。何も起きていない画面を、誰も閉じない。
録画ランプが、赤く点いている。
背中の冷えが、まだ残っている。
レンズの端に、拭いても取れない黒い染みが——残っていた。




