ボス戦(前半):美しさと殺意
黄色い雪が降っている。
粒のひとつひとつが、闇を押し返している。壁の凹凸が見える。欠落した床の縁が見える。残った足場の輪郭が見える。
そして、ミラが見える。
壁の出っ張りに靴底を引っかけて、かろうじて止まっている。左手が壁に張り付いている。右手は垂れている。剣はない。氷もない。赤い線が二十一本、手の甲から手首を越えて前腕の内側にまで伸びている。
黄色い雪が、ミラの髪に触れて、溶けずに光っている。
きれいだった。
きれいだと思ってしまった。闇の中で壁にへばりついて、武器もなく、魔力も枯れかけて、赤い線に蝕まれた女が、光の粒に照らされている。それがきれいだった。
撮れている。
ファインダーの中の映像が、生きている。光がある限り、カメラは動く。カメラが動く限り、俺はここにいていい。
黄色い粒が一つ、レンズの前を横切った。追いかけた。追いかけて——ミラの頬に落ちる瞬間を捉えた。粒が頬の上で弾けて、小さな光の飛沫が散る。
その一瞬を切り取った画が、たぶん、この配信で一番きれいな映像になる。
粒が散るたびに、闇が浅くなる。浅くなった闇の中で、欠落した空間の境界が鮮明に浮かぶ。ヴォイドゲイザーが食い散らした世界の傷痕が、光に照らされて——美しく見えた。
廃墟が美しいのと同じだ。壊れたものにしか出せない光がある。
でも、この光は長くない。
粒が一つ消えた。また一つ。闇の底に落ちて、弾けて、光を失っていく。ヴォイドゲイザーの残骸から散った光には寿命がある。寿命が尽きれば、また闇に戻る。
急がなければ。
この光があるうちに、撮れるものを全部撮る。
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コメント欄が、戻った。
戻った、というより爆発した。UIの表示領域が復活した瞬間、堰を切ったように流れ込んできた。
『うおおおおおおおおおお』
『光!!!光出てる!!』
『闇の中で雪降ってるんだが???』
『今の何倒した!?!?』
『神回』
『神カメラ』
『カメラ、ずっとブレてないのバケモン』
『運営、今の巻き戻し機能くれ!!!』
一行だけ、変なのが混じった。
『労災申請フォーム、光の雪に埋もれて見えません』
笑えなかった。でも、鼻の奥が一瞬だけ熱くなった。笑いじゃない。涙でもない。ただ、呼吸が乱れると困るから——その一瞬を、飲み込んだ。
同接カウンターが回っている。八桁の後半。さっき闇に呑まれてUIごと消えたはずなのに、視聴者は離れていなかった。離れるどころか、増えている。闇の間も待っていたのか。映像が死んでいた時間を、待っていたのか。
黄色い雪の粒がまた一つ消えた。光の寿命が縮んでいく。
ミラの呼吸が見えた。
白い冷気が口元から短く、短く、連続で吐き出されている。肩が上下している。隠せないほど。配信画面でも——この光量なら、見える。見えてしまう。
カメラを一ミリ下げた。
ミラの口元をフレームから外した。映すのは鎖骨から下。剣のない右手。二十一本の赤い線。壁に張り付いた靴底。
息の乱れは映さない。
映せば「弱ってる」と読まれる。読まれた瞬間、コメント欄が変わる。心配が煽りになり、煽りが数字になり、数字が運営を動かす。運営が動いたら、ミラは退けない。前に出る。
余計に壊れる。
俺のカメラが選んだのは、「強いミラ」だけを切り取るフレームだった。二十一本の赤い線は映る。それは事実だ。でも震えは映さない。呼吸は映さない。事実は見せるが、弱さは見せない。
それが俺にできる、唯一の守り方だった。
黄色い粒がまた消えた。残りが少ない。光の絨毯が、端からほつれていく。
ミラの肩の上下が止まった。整った。
カメラを戻す。ミラの横顔をフレームに入れ直す。
ミラは何も言わなかった。でも、俺がカメラを外していた時間の長さを——知っている顔をしていた。
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ミラが、低く言った。
「……まだ、いる」
まだいる。
ヴォイドゲイザーは凍って砕けた。四つの目を潰した。倒したはずだ。
なのにミラが「まだいる」と言うなら、いる。
黄色い雪の最後の粒が、ミラの頬を照らして——消えた。
闇が戻った。
黒線だけの世界。色のない輪郭だけの世界に、戻った。
でもさっきまでと違うものがある。
風だ。
風がある。ここに風があるのはおかしい。さっきまで、圧と欠落しかなかった。光のない空間に、空気の流れだけが存在している。
《空間把握》が黒線を吐き出した。床。壁。天井。そして——黒い裂け目。
まだ開いている。
ヴォイドゲイザーが出てきた裂け目。あの目を倒しても、裂け目は閉じていなかった。むしろ——広がっている。縁がさっきより大きい。静かに、音もなく、こちら側を削り続けている。
裂け目の奥に、黄色い光が一つ点った。
目だ。
ヴォイドゲイザーの目とは違う。位置が違う。圧が違う。あの目は「見る」ことで空間を食った。この目は——見ているだけだ。見ているだけなのに、背筋が凍る。
見ているのではない。覗いている。向こう側の何かが、こちらを窓越しに覗いている。
ミラが立とうとした。
壁の出っ張りに靴底をかけて、左手で体を引き上げようとした。
立てない。
膝が伸びかけて、止まった。魔力で無理やり動かせば立てる。でもその瞬間に赤い線が増える。ミラはそれを知っている。知っていて、それでも——
右手が壁を掴んだ。赤い線が走る右手で、壁の凹凸を握った。
立った。
赤い線は——二十一本のまま。増えなかった。魔法を使わずに、筋力だけで立った。
ミラの膝が震えていた。黒線の輪郭越しに見える、微かな揺れ。
俺はカメラをミラの足元に向けた。靴と壁の接点。安全な画。震えが映らない角度を選んで、立ち上がる動作だけを映した。
視聴者は「立てない」とは思わない。「立った」と思う。
——そういう画を作る。それが、俺の仕事だ。
ミラが息を一つ吐いた。
それから、右手を握った。何も持っていない手を、握った。
赤い線が脈打った。二十一本。増えていない。増えていないまま、脈動だけが速い。体が「これ以上は出すな」と堰き止めているみたいだった。
「佐久間。——次、来るのを撮って」
撮りなさい、ではなく——来るのを撮って。
俺の仕事が、指定された。「撮れ」ではなく「何を撮れ」。ミラが俺のカメラに、初めて具体的な被写体を与えた。
それだけのことなのに、指先の震えが止まった。
返事の代わりに、カメラを裂け目に向けた。声より先に、レンズが答えていた。
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《空間把握》が裂け目の縁に線を引いた。
黒線が、いびつに震えている。震えに周期がある。
一・二秒。
〇・九秒。
〇・六秒。
間隔が詰まっている。何かがこちら側に近づいている。出る準備をしている。
裂け目の縁が——伸びた。
裂け目の中からではない。裂け目そのものが、こちら側に浸食してきた。
黒い線が一本、床を這った。床を這い、壁を登り、天井を舐めた。舐めた場所の黒線が消える。《空間把握》の輪郭が削られていく。
削られた先から、世界が欠ける。
ヴォイドゲイザーの欠落とは違う。あれは「消える」だった。これは「塗り潰される」。黒で。何もない黒ではなく、何かがある黒で。裂け目の中身が、こちら側に染み出してきている。
ミラが笑った。
歯が見える笑い。裂け目に踏み込む前に見た、あの笑い。同じ種類。楽しんでいる。壊れかけているのに、楽しんでいる。
「……ほら。来た」
来た。
黒い線が、ミラの右手へ伸びた。二十一本の赤い線の上に、黒が重なる。
重なった瞬間、ミラの指が震えた。消せない震え。今までで一番大きい。
俺は震えを映さなかった。映す代わりに、ミラの横顔を映した。笑っている横顔。笑っているのに、目が冷えている。
そして——黒い線の先端が、向きを変えた。
ミラの手を離れて。
カメラへ。
俺のカメラのレンズへ、まっすぐに伸びてきた。
《微風》を最大にした。空気の層を厚くして、レンズを守る。追放されたスキルを、全力で回した。
風が黒い線に触れた。
弾けない。
結露でも粉塵でもない。空気の層を、黒い線がすり抜けていく。《微風》が効かない。初めてだった。このスキルが役に立たない敵は、初めてだった。
黒い線がレンズに触れた瞬間——ファインダーが白く弾けた。
砂嵐。一呼吸未満。瞬きより短い。
でも、その白の中に——文字が見えた。
みている
前に《空間把握》の線が消えたときは、一秒で戻った。今度は戻らない。背中の冷えが、残ったままだ。消えたまま、張り付いている。
砂嵐が消えた。ファインダーの映像が戻った。
でも背中の冷えだけが、残った。
コメント欄が、また止まった。
止まったのに、同接は落ちない。落ちないどころか、数字が跳ねた。
怖いもの見たさが、一段上がった。視聴者は恐怖を娯楽に変換する生き物だ。怖いほど見る。見るほど数字が回る。数字が回るほど、運営が笑う。
ミラが言った。
「——面接、ここからよ」
裂け目の向こうの黄色い目が、こちらを見ている。覗いている。
ミラは剣がない。氷が出ない。赤い線が二十一本ある。立っているだけで精一杯の体で——「ここから」と言った。
ここから。
この女は、ヴォイドゲイザーを前座だと思っている。
カメラを構えた。手が震えている。でもファインダーの中は——揺れていない。揺れていないことだけが、俺がまだ壊れていない証拠だった。
裂け目が、また広がった。




