理不尽:映えのために死ね
黒い点が——大きくなっている。
点じゃない。縁が見える。
丸くない。歪んでいる。輪郭が呼吸するように伸縮して、見るたびに形が違う。
縁が見えるということは、大きさがあるということだ。
大きさがあるということは、ここに在るということだ。
在るのに、《空間把握》が何も返さない。
距離がない。温度がない。質量がない。
"ない"のに"在る"。
その矛盾が、胃の底から冷たいものを押し上げてくる。
赤い線が——流れ始めた。
直線だったはずの線が、黒い縁に向かって弧を描いていく。床の線も、壁の線も、天井の線も。まっすぐ引かれていたものが、一本残らず曲がっている。流体のように。排水口に吸い込まれる水のように。赤い世界が、黒に呑まれかけている。
壁と床と天井から、赤い人型が剥がれかけていた。
十、二十——数え切れない。黒い一つ目が、いくつも開こうとしている。
開こうとして——開き切らない。
赤い線が渦に引かれている。個体になるための線を、黒い縁が吸い上げている。形を保てない。首から上の接続線が渦に流されて、頭部が完成する前に崩れる。胴が裂ける。腕が溶ける。生まれかけて、生まれられない。
それでも、目だけが開いている。
形のない体に、目だけが浮かんで、こちらを見ている。
あれと戦うことになるのか。——いや、違う。あれは戦う相手じゃない。あれは「環境」だ。赤い世界そのものが、敵になりかけている。
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同接カウンターが八桁の後半で明滅して、数字が読めない速度で回っている。
コメント欄は「本物」という二文字だけが連なって流れていた。議論は止まっている。百万人以上が同時に息を止めている。
その静けさの中で——ファインダーの右上に、見慣れない表示が割り込んだ。
《PREMIUM OFFER:ACCEPT?》
露出とホワイトバランスの数値を押しのけて、カメラのUIに直接表示されている。配信運営が、撮影機材の中にまで手を伸ばしてきた。
文字は一瞬で点滅し、消えずに残った。
"選べ"という表示だった。
画面の中で人が死にかけているときに、課金ボタンを光らせる。
スポンサーのヴォルトエナジーのロゴだけが異常なほど安定して画面右下に居座っている。世界が壊れかけているのに、広告だけが正確だ。
それが、この業界の怖さだった。
ダンジョンの化け物より、運営のタイミングのほうが正確に人の心を抉る。
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ミラは笑っていない。
でも口角が一ミリだけ上がった。
ファインダー越しでなければ見えない変化。配信画面には映らない。俺のレンズだけが拾う、一ミリの表情。
ミラは黒い縁を見ていた。知っている顔だった。初めて見たものを見る顔じゃない。もう何度も見た。もう何度も、ここに来た。そういう顔。
「佐久間。寄って」
寄って、が来た。
この赤い世界で。黒い縁に向かって寄れと言う。
寄るたびに床が沈む。〇・三ミリずつ。戻らない。近づくほど空気が重くなる。肺に届く酸素が減る。喉の内側を擦る砂の粒が太くなっていく。
ミラの背中まで三メートル。
三メートルが、異様に遠い。
遠いのに、黒い縁はもっと近い。
一歩、踏み出した。
足元の赤い線が渦に流されて、隙間が変わる。さっき安全だった場所が、もう安全じゃない。隙間が動いている。止まっている線はひとつもない。
二歩目。床が沈む。〇・三ミリ。合計〇・六ミリ。
黒い縁の向こうから、空気がこちらの肺を引っ張る。吸っているのか吸われているのかわからない。呼吸のたびに体の中身が向こう側に流れていく感覚。
三歩目——で、体が止まった。
止めたんじゃない。止まった。
足が動かない。意思はある。踏み出す信号は送っている。でも膝から下が、凍ったように動かない。恐怖じゃない。もっと原始的な何か。生き物としてのブレーカーが落ちた感覚。ここから先は壊れる、と体が判断した。
喉まで言葉が来た。
——死ぬ。
声にはしなかった。道具は言い返さない。カメラマンは意見を持たない。ここにいるのはミラの機材で、機材は止まらない限り文句を言わない。
でも、顔に出た。
出てしまった。ファインダーから目が離れた一瞬、唇が震えた。〇・二秒。それだけの時間、レンズの外に感情が漏れた。
ミラは振り返らなかった。振り返らないまま、言った。
「死ぬなら、映える死に方にしなさい」
聞こえた瞬間、頭が真っ白になった。
怒りでもない。悲しみでもない。ただ、理解が追いつかなかった。今、何を言われた。映える死に方。映え。人の生き死にに、映えという単語を使った。この女は——
「この先の映像は二度と撮れない。私でも、たぶん二回目はない。一回しかないものを撮り逃すのと、死ぬのと、どっちが嫌?」
質問の形をした命令だった。
答えは聞いていない。ミラの目は前を向いたままだ。答えを待っていない。カメラマンが答えを返す立場にないことを、最初から知っている。
でも、質問は投げた。
投げたということは——答えを持っていると思われている。道具は答えを持たない。でも答えを持っていると思った相手に、ミラはその質問をした。
カメラに手が戻った。
勝手に。考えるより先に。指がグリップを握り直して、ファインダーに目が吸い込まれた。フレームの中にミラの背中が収まる。赤い渦と黒い縁と、十五本の赤い線が脈打つ右手。
一回しかないものを、撮り逃すほうが嫌だ。
声にはしない。答えは返さない。でもカメラが動いた。それが、俺の答えだ。
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四歩目。膝が動いた。ブレーカーが上がったんじゃない。壊れたまま、その先に踏み込んだ。
五歩目。床の沈下が加速した。〇・三ミリじゃない。〇・五ミリ。黒い縁に近づくほど、床の減り方が早くなる。
赤い線の隙間がほとんどない。指一本ぶんの幅を、つま先で選んで置いている。《空間把握》は沈黙したまま。スキルなしで歩いている。目と、足裏の感覚と、三歩前までの記憶だけで。
ミラの背中が近づく。二メートル。一・五メートル。
カメラが捉えている。ミラの右手の赤い線が脈打っている。十五本。さっきと同じ数。でも脈動の間隔が短くなっている。さっきは一・二秒間隔だった。今は〇・八秒。加速している。
黒い縁が、さらに広がった。
渦の中心に引き込まれた赤い線が、黒に塗り潰されていく。赤い世界が、端から消えている。
壁の赤い人型たちが、ついに形を保てなくなった。目すら維持できない。赤い線が黒に吸い込まれて、一つ目が歪み、潰れ、壁に溶け戻っていく。黒い縁は敵すら食う。ここにあるもの全部を呑み込む穴だ。
ミラの足が止まった。
黒い縁まで——一メートル。
ミラの右手から、赤い線の十六本目が浮かんだ。手首の内側。脈を打つ場所に、細い線が滲むように現れた。
十六本。
ミラは右手を見なかった。見る必要がないように。増えることを、知っていたかのように。
「ここよ」
ミラの声が低い。配信用の声じゃない。
「この先で、映像が死ぬ」
黒い縁の向こう側に、空間がある。あるはずだ。でもファインダーには何も映らない。黒。純粋な黒。光が存在しない領域。カメラは光を記録する道具だ。光がなければ——撮れない。
「映像が死ぬ場所で、映像を残す。それができたら——」
ミラは言葉を止めた。
止めた先に何があったのか。「合格」か。「面接終了」か。それとも別の何か。
聞けなかった。聞く前に、黒い縁が動いた。
裂けた。
縁が裂けて、黒の向こうから——風が吹いた。
風じゃない。圧だ。空気の塊が押し寄せて、体が後ろに傾ぐ。カメラを握る手に力を込める。《微風》が起動して、レンズの表面に保護層を張る。追放されたスキルが、また俺を守っている。
黒い裂け目の奥に——光が見えた。
赤じゃない。黒でもない。
黄色い光。
一つ。
目だ。
グレイズアイの目じゃない。ブラインドティックの目でもない。赤い人型の目でもない。もっと大きい。もっと深い。もっと——古い。
見た瞬間、《空間把握》が再起動した。
沈黙していたスキルが、一気に線を描き始めた。赤い線じゃない。白い線じゃない。
黒い線。
部屋中に。床に。壁に。天井に。ミラの体に。俺の手に。カメラに。
すべてに——黒い線が走った。
《空間把握》が描いたのか。それとも空間そのものが裂けたのか。
わからない。わからないまま、ファインダーの中に——すべてが収まっている。黒い線と、黄色い目と、剣を構えるミラと。
コメント欄が消えた。
文字が流れなくなったんじゃない。表示領域そのものが黒に呑まれた。同接カウンターも、スポンサーのロゴも、UIの全部が——消えた。
画面に残っているのは、ファインダーの映像だけ。
俺のカメラだけが、まだ動いている。
「——来るわよ」
ミラが笑った。
初めて見た。
口角が上がるだけの、あの一ミリの変化じゃない。歯が見えた。目が細くなった。楽しんでいる顔だった。黒い裂け目の向こうの、光がない世界に踏み込む直前に——ミラは、楽しんでいた。
怖い、と思った。
ミラが怖い。敵が怖いんじゃない。この女が、怖い。
でもカメラは回っている。回っている限り、俺はここにいる理由がある。
黒い裂け目が——広がる。




