深層:赤い世界
息を吸った瞬間、喉の内側を砂が擦った。
比喩じゃない。空気が、固い。気管を通るたびに粒子が粘膜を引っ掻いて、肺に届くころには重さが半分に減っている。吐く。軽すぎる。吐いたぶんだけ体の中身が減る感覚。次の吸気までの〇・三秒が、水の中にいるのと変わらない。
《空間把握》が線を引いた。
赤い。
——赤い線。ミラの指に浮かぶ、あれ。
違う。
ミラの赤い線は体の内側から滲む。十三本。数は覚えている。でもこれは、空間そのものに彫り込まれた線だ。床に、壁に、天井に。縦横斜め、数えられない。太さ〇・五ミリから一・二ミリ、均一じゃない。不規則に走っている。
触れれば死ぬ、と《空間把握》が告げている。
根拠はない。測定値も出ていない。ただ、スキルが描く線の色が——赤を超えている。もっと深い、目の奥を焼くような赤。人間が見ていい赤じゃない。
右足を床に置いた。
沈んだ。
〇・三ミリ。小さい。だが《空間把握》が数字の横に赤字を添えた。
復元——なし。
反発がない。踏んだぶんだけ床が沈み、戻らない。石じゃない。石に見えるだけの、何か別のもの。踏むたびに〇・三ミリずつ、地面が消えていく。百歩で三センチ。千歩で三十センチ。どこかで足元がなくなる。
この深層は、立っているだけで死に近づく場所だ。
---
ファインダーの中で、ミラが一歩を踏んだ。赤い線と赤い線のあいだ。隙間、約二十センチ。靴底がちょうど収まる幅。その二十センチを、迷いなく選んでいる。
三歩目を踏んだとき——床が、光った。
ミラの足元じゃない。俺の右側。十メートル先の壁際。赤い線の交差点が脈打つように明滅して、その中から何かが——剥がれた。
壁から、染み出すように。
赤い線を纏った、人型。
身長は百五十センチほど。頭部がない。首から上は赤い線が束になって上に伸び、天井の線と繋がっている。四肢は細く、関節が逆に曲がっている。胴体の中央に、黒い一つ目が縦に裂けて開いている。
《空間把握》が情報を返した。
——体長一・五二メートル。四肢末端の爪、長さ八センチ。移動速度——測定中。表面温度——測定不能。名称——該当なし。
名前がない。図鑑にも、冒険者ギルドのデータベースにもない。ここは深層だ。知られている場所じゃない。
もう一体、左の壁から剥がれた。同じ形。同じ一つ目。ただし天井との接続線が五本多い。個体差がある。
三体目。正面の床から。赤い線の隙間を縫うように、四つん這いで這い出てくる。
カメラを、正面の個体に向けた。
言葉は出さない。出す理由がない。俺はカメラマンだ。レンズの向きが、俺の言葉だ。
ミラの肩が動いた。振り返らない。だが剣に手が伸びた。鞘に触れる指の位置で、気づいていることがわかる。カメラがどこを向いたか——ミラは、音で聞いている。レンズの駆動音。フォーカスが合う、かすかな機械音。それだけで、方向を読んでいる。
正面の個体が加速した。四肢の関節が逆方向に伸びて、赤い線の隙間だけを正確に踏んで走ってくる。こいつらも赤い線を避ける。触れたら死ぬのは、敵も同じ。
ミラが動いた。
抜刀。鞘から剣が抜ける音が、この重い空気の中でやけに鋭く響いた。氷が刃に沿って走る。白い冷気が刃の軌道を先に描いて、一拍遅れて鋼が追いかける。
正面の個体が跳んだ。天井の接続線を支点にして、振り子のように弧を描いて頭上から落ちてくる。爪が八本、全部こちらを向いている。黒い目が——レンズを見ている。
ミラの剣が、振り子の頂点を斬った。接続線ごと。赤い線が切断されて、火花のように散る。個体は軌道を失い、壁に激突して——砕けなかった。壁にめり込んで、そのまま赤い線に溶けていく。
消えていない。《空間把握》が追っている。壁の中を移動している。線を伝って、位置を変えている。
カメラを右壁に振った。
レンズが壁の上方を追う。フォーカスが壁面の赤い線の膨らみを捉える。移動している。天井に向かっている。
ミラの右耳が、わずかに動いた。カメラの駆動音を聞いた。レンズが上を向いたことを、音だけで理解した。
ミラは動かない。待っている。出てくる瞬間を。
天井の赤い線が膨らんだ。個体が顔を出す——黒い目が開く——
ミラの左手から氷の槍が射出された。長さ一メートル二十センチ、直径五センチ。天井に縫い止める軌道。個体の胴体を貫通して、天井の岩盤に刺さった。黒い目が閉じかけて——閉じない。
片手で氷の槍を掴み、自分の胴から引き抜こうとしている。
硬い。
ミラはもう走っていた。壁を蹴り、氷の足場を空中に生成し、一段、二段、三段目で天井に届く。逆さまの体勢で剣を振り下ろした。縫い止められた個体の黒い目を、刃が縦に割った。
今度こそ、動かなくなった。
赤い線が個体の残骸から抜けていく。体が灰になるんじゃない。赤い線だけが壁に戻り、抜け殻の白い外皮だけが残る。中身は——最初から赤い線だった。線が、形を取っていただけだ。
---
カメラを左に振った。
二体目。左壁、八メートル。床を走り、赤い線の隙間を縫いながらジグザグに距離を詰めている。速い。だが直線じゃない。赤い線を避けるから、軌道に規則がある。
次の隙間は、右側にしかない。右に折れる。
カメラを右に振った。先回りして、個体が折れる地点にフォーカスを合わせる。
ミラは天井から降りながら、着地点を氷で滑らせた。カメラが向いた方向——そこに個体が来る。ミラはそう読んだ。剣を水平に構え、滑りながら待つ。
個体が右に折れた。
横薙ぎ。胴体が二つに割れた。赤い線が散り、白い殻が崩れる。
二体目。
残り、一体。右壁の個体。——赤い線に溶けたまま出てこない。《空間把握》が壁の中を走査しているが、移動速度が中層のどの敵より速い。位置が掴めない。
どこから出る。
カメラを構えたまま、周囲を走査する。右壁。天井。左壁。床——。
床。
ミラの真後ろ。赤い線が膨張している。他の個体と違う。線の隙間を通るんじゃない。赤い線そのものを突き破ろうとしている。ルールが違う。
カメラでは伝えられない。ミラの背後だ。レンズの駆動音は前方にしか届かない。ミラは前を向いている。剣を振り切った直後で、体勢が流れている。
声を出すしかない。
喉が詰まる。カメラマンが声を出すな。映像で語れ。それが——。
赤い線が破裂した。個体が床から飛び出す。爪がミラの背中に向かって伸びる。
「——後ろ」
絞り出した。それだけ。方向だけ。一語だけ。
ミラの左手が、背中の後ろに伸びた。振り返る時間はない。指先から氷の壁が生成される。厚さ十五センチ、幅五十センチ。
個体の爪が氷壁に激突した——貫通した。十五センチの氷を、八センチの爪が突き抜けた。先端がミラの背中の七センチ手前で止まっている。
ミラは振り向いた。氷壁ごと体を回転させ、壁に刺さった爪を軸にして個体を引きずり回す。遠心力で地面に叩きつけ、踏みつけた右足の下で氷が爆ぜた。黒い目が凍り、砕けた。
三体目。
静寂が落ちた。赤い線の残滓が空中を漂い、壁に吸い込まれていく。白い殻が三つ、床に転がっている。
ミラは息を整えていた。わずかに。配信画面では絶対に見えない程度の肩の上下。ファインダー越しの距離でしか気づかない乱れ。
俺はそれを撮らなかった。カメラを、ミラの足元に落とした。靴と床の接点。安全な画。呼吸が戻るまでの数秒を、映さない選択をした。
ミラの肩の動きが止まった。整った。
カメラを戻す。
ミラは何も言わなかった。でも、半歩ぶんだけ——歩き出すのが遅れた。俺がカメラを外したことに、気づいていた。
---
奥の通路から、脈動が伝わってくる。
《空間把握》が反応した。赤い線の密度が異常に高い一角。交差点が無数にあり、すべてが脈打っている。さっきの三体は先遣だ。奥にはもっといる。線の一本一本が個体になれるなら——数え切れない。
コメント欄が割れていた。「やばい」「赤い」「なにこれ」が流れ、直後に「CG」「加工」「深層エフェクトだろ」がぶつかる。信じる人間と疑う人間が、同じ速度で言葉を流し込んでいる。
どちらが多いかは数えない。数えたら、たぶん撮れなくなる。
スポンサー枠のヴォルトエナジーのロゴだけが、異常なほど安定して画面右下に居座っている。現実が壊れかけているのに、広告だけが正確だ。
赤い線が——曲がり始めた。
直線だったはずの線が、一点に向かって弧を描いている。床も、壁も、天井も。すべてが一点に吸い込まれるように収束していく。
渦。赤い渦。
中心に——黒い点。
《空間把握》が、初めて見る色を描いた。赤でも白でもない。黒。測定値がない。距離も、太さも、温度も——何も返ってこない。スキルが沈黙した。
黒い点から、一本の線が伸びていた。まっすぐに。ミラの右手に。
十三本の赤い線が浮かぶ、その指先に向かって——黒い線が、伸びている。
ミラは、それを見ていた。表情がなかった。怖がっていない。怒っていない。知っている顔だった。前にも見たことがある、という顔。
「佐久間」
ミラが呼んだ。
「撮りなさい」
「遅い」と言われた。「止めるな」と言われた。「死ななかったわね」と言われた。「寄って」と言われた。全部、ミラが自分のために出した言葉だった。配信のため。画角のため。数字のため。
「撮りなさい」は——違った。
俺のカメラに向けて言っている。俺が撮ることに、意味があると言っている。少なくとも、そう聞こえた。間違っているかもしれない。ミラの言葉を正しく受け取れた試しなんかない。
でもカメラは正直だ。ファインダーの中のミラの横顔は、まだ前を向いている。
「——回ってます」
それだけ返した。カメラは止まっていない。最初から回っている。でもミラは知っていたはずだ。それでも「撮りなさい」と言った。
赤い線が——十五本に増えていた。数分前まで十三本だった。深層に入ってから加速している。
壁の脈動が大きくなる。奥の通路から、赤い線の個体が、十、二十——数え切れない数が、壁と床と天井から同時に顔を出しかけている。黒い目が、いくつも開こうとしている。
ミラが剣を構えた。
俺はカメラを構えた。
同接カウンターが八桁の後半に届いて、数字が読めない速さで回っている。コメント欄に「本物」という二文字が連なって流れていた。議論は止まっていた。画面の中にあるものが何なのか、百万人以上が同時に息を止めている。
黒い点が——大きくなっている。




