第3話『届けろ』
自主練に戻る、と言ったものの。
結局、完全に一人になることはできなかった。
澪は壁際で黙々とベースを弾き、小春はイヤホンを片耳に突っ込んで鍵盤を叩いている。
さっきまでの熱は、嘘みたいに散っていた。
俺はアンプの前に座り、ブリッジのフレーズをもう一度さらう。
さっき誉莉に言われた「悪くなかった」が、妙に引っかかっている。
悪くなかった、は褒め言葉だ。
でも、それ以上じゃない。
音を重ねたときの、あの一瞬の“満ちた”感じ。
あれは本物だったのか、それともただの思い込みか。
コードを鳴らす。
少しだけ走る。
「.........また」
小さく呟いた瞬間。
「暁音」
呼ばれた。
振り向くと、誉莉がマイクスタンドから離れ、こちらを見ていた。
「ちょっと、外出ない?」
「は?」
「廊下。うるさいから」
自分が出した音のことだと気づいて、少しだけむっとする。
でも何も言わず、ギターをスタンドに立てかけた。
廊下はひんやりしていた。
土曜の校舎は静かで、窓から入る風の音だけがやけに大きい。
誉莉は壁にもたれたまま、腕を組んだ。
「さっきのさ」
「.......どれ」
「最後。走ったやつ」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
澪と同じことを言う。
思わず睨むと、誉莉は小さく息を吐いた。
「焦ってるでしょ」
「焦ってない」
「焦ってるよ」
即答だった。
「澪に張り合ってる」
「張り合ってない」
「張り合ってる」
同じテンポで言い返されて、言葉が詰まる。
誉莉は少しだけ視線を落とした。
「ねえ、暁音」
声のトーンが変わる。
「なんでそんなに上手くなりたいの」
答えは、簡単なはずだった。
上手いほうがいい。
褒められる。
バンドが強くなる。
でも、口を開こうとした瞬間、六歳の夏がよぎる。
地下に降りる階段。
壁を震わせる低音。
最初の一音。
「.......魔法みたいだったから」
気づけば、そう言っていた。
誉莉が顔を上げる。
「何が」
「あのときの音。体の中に直接来る感じ。テレビとは全然違って.......」
言葉が足りない。
でも、止まらない。
「自分も、ああなりたいって思った」
「魔法使い?」
「.......うるさい」
でも誉莉は笑わなかった。
「それ、今も?」
「え?」
「今も、魔法使いたいの?」
答えに詰まる。
最近は、“ミスしないこと”ばかり考えていた。
走らないこと。
澪に負けないこと。
小春に見られていること。
魔法、なんて。
「........分からない」
正直に言うと、胸の奥が少し軽くなった。
誉莉は小さく頷く。
「私はさ」
腕を解いて、窓の外を見る。
「上手いバンドやりたいんじゃない」
風が髪を揺らす。
「届くバンド、やりたい」
「届く?」
「うん。誰か一人でもいい。ちゃんと刺さるやつ」
誉莉の声は、強くない。
でも、揺れていない。
「今日の最後、ちょっとだけ刺さりそうだった」
心臓が跳ねる。
「でも暁音、途中で自分のことしか見えてなかった」
「..........」
「澪に勝とうとしてた」
否定できない。
「私はさ、ベースと勝負したいんじゃない。暁音の音に、ちゃんと乗りたいの」
まっすぐな目。
逃げられない。
「暁音が前向いてくれないと、声、置いてかれる」
喉が乾く。
「.......じゃあどうすればいい」
思わず聞いていた。
誉莉は少しだけ口角を上げる。
「二人でやる?」
「は?」
「ギターとボーカルだけ。今から」
部室に戻る。
澪と小春は何も言わない。ただ、ちらりとこちらを見る。
誉莉はマイクを握る。
「ちょっと二人でやるから。邪魔しないで」
「はーい」
「別に」
俺はアンプのボリュームを少し下げた。
ドラムもベースも鍵盤もない。
丸裸。
「......いくぞ」
カウントは取らない。
コードを鳴らす。
隙間だらけの音。
そこに、誉莉の声が入る。支えるんじゃない。
押し出すんでもない。
ただ、隣にある。不思議と、走らない。
視線が自然と上がる。
誉莉がこちらを見ている。
逃げない。最後のコードを鳴らす。
音が消える。
部室は静かだった。
でも、さっきまでの沈黙とは違う。
「.......今の」
誉莉が小さく言う。
「嫌いじゃない」
胸の奥が熱い。
「魔法っぽかった?」
思わず聞くと、誉莉はふっと笑った。
「ちょっとだけ」
少しだけ間を置いて。
「暁音がちゃんと前向いてたから」
言葉が出ない。
代わりに、小さく息を吐く。
視線の端で、小春がじっとこちらを見ているのが分かる。
澪は何も言わず、静かにベースを抱え直している。
音は揃わない。心も、きっとまだ揃わない。
それでも。
六歳の夏に感じた振動が、ほんの少しだけ戻ってきた気がした。
魔法は、まだ消えていない。
たぶん。




