第1話『春は唐突に』
六歳の夏だった。
父親に連れられて、初めてライブハウスというところに足を踏み入れた日のことを、今でも鮮明に覚えている。
地下に降りる階段の途中から、すでに空気が違った。
換気扇の唸りと、低音の振動が、壁を通してじわじわと伝わってくる。
扉を開けた瞬間、熱気が顔にぶつかってきた。
煙草と汗と、何か焦げたような匂い。
母親が「くさい」と顔をしかめたのを覚えている。俺は逆に、もっと奥に進みたかった。
ステージは小さかった。天井も低くて、照明はほとんど赤と白しかない。
でもそこに五人が立った瞬間、場所のせまさなんてどうでもよくなった。
最初の一音で、足元から揺れた。
ドラムのスティックがカウントを刻んだと思ったら、ギターが鳴り、ベースが唸り、ボーカルが叫んだ。
それはテレビから聞こえてくる音とは全然違った。
録音された音は、どこか遠くから聴こえてくる。
でもライブハウスの音は、体の内側に直接飛び込んでくる。
鼓膜じゃなく、肋骨に、胃に、背骨に、音が当たってくる感じがした。
ギタリストが弦をかき鳴らすたびに、俺は胸の奥で何かが動くのを感じた。
指が弦を押さえ、右手が空を切る。その一動作のたびに部屋全体が変わる。
あんなに小さな動きが、あんなに大きな音になる。信じられなかった。魔法みたいだと思った。
曲の途中、ギタリストが顔を上げてにやりと笑った。観客が沸いた。
俺は父親の手をぎゅっと握った。
「どうだ」と父親が耳元で言った。
俺は何も言えなかった。言葉が出てこなかった。ただ、目が離せなかった。
翌日、俺は父親の部屋からアコースティックギターを引っ張り出した。
弦を押さえるたびに指先が痛くて、ちっとも綺麗な音は出なくて、それでも手が離せなかった。
母親には「うるさい」と怒られた。父親には「貸した覚えはない」と苦笑された。
それでも俺は、毎日そのギターを抱えた。
小学三年になる頃には、簡単なコードなら弾けるようになっていた。
近所の中学生に教えてもらって、Fコードが押さえられた日は、一人で飛び跳ねるくらい嬉しかった。
自分の音が、少しずつあの夜のステージの音に近づいていく感覚。それが堪らなかった。
上手い下手なんてどうでもよかった。
ただ、弾いているとき——俺は俺の一番好きな世界にいられた。
あの日から——凪咲暁音の人生には、春が来ている。
時は流れて、高校二年の春。
四月も後半になると、恋桜花高校の桜はとっくに散っていて、青々とした葉が風にそよいでいた。
土曜の朝というのは独特のゆるさがある。
電車の乗客は少ないし、駅のホームに流れる空気も、どこかのんびりしていた。
俺は吊り革を掴みながら、ギターケースを足元に立てかけて、欠伸を一つかみ殺した。
今日は部活が休みだった。それでも学校に向かっているのは、他でもない。自主練のためだ。
軽音楽部の部員は、暁音を含めて五人。ボーカルの三年、ベースとドラムの二年が一人ずつ。
そして暁音のひとつ下の一年にキーボードの後輩が一人いる。
部室を使えるのは週四日。俺にとっては、正直足りなかった。
学校の裏口から入って、階段を上がり、三階の端にある部室の前に立つ。鍵は顧問から借りてきた。
鍵をカチャリと外して、ドアを押し開けると、わずかに埃っぽい空気と、昨日の練習で残った弦の匂いが混ざり合って出迎えてきた。
「……よし」
誰もいない部室は、静かだった。でもこの静けさは、嫌いじゃない。
これから自分で音を埋めていくための、余白みたいなものだから。
ギターケースを開けて、チューニングを確認する。アンプに繋いで、ボリュームを控えめに設定する。
一人のときはいつもそうだ。
爆音で弾きたい気持ちはあるが、土曜の朝から近隣に轟かせるほど非常識ではない.......たぶん。
コードを一つ鳴らす。部屋に音が広がる。
それだけで、頭の中がクリアになる気がした。
最初の十分は、ウォームアップ代わりに好きな曲を流れで弾いた。特に理由はない。
ただ指を慣らしながら、体全体で音のテンポを取る。
リズムが体に染み込んでいくのを感じながら、少しずつギアを上げていく。
それから本番だ。今週の練習で引っかかったブリッジのフレーズ。
テンポを落として、一音ずつ確かめるように弾く。弦の押さえが甘いせいでノイズが混じる。もう一度。
また混じる。舌打ちをして、指の角度を変えて、また弾く。
今度は綺麗に抜けた。
三十分ほど、一人で弾き続けた。
先輩から教わったフレーズを反復して、うまくいかないところを分解して、また繰り返す。
指が覚えるまで、何度でも。暁音が熱くなるのは、こういう時間だった。
うまさなんて関係ない。ただ音と向き合っていると、時間の感覚がなくなる。
そのとき、ドアが勢いよく開いた。
「あ、やっぱ先輩いた!」
弾いていた手が止まった。
入ってきたのは、小鳥遊小春だった。
ショートカットの髪を揺らして、大きなトートバッグを肩にかけて、朝だというのにやけに元気な顔をしている。
軽音楽部一年、キーボード担当——
そして俺が部内で一番扱いに困っている後輩が、一丁前に
「おじゃましまーす」
と言いながら上がり込んできた。
「........お前も自主練か」
「そうですよ。先輩こそ、休みなのに来るなんて珍しいじゃないですか」
「珍しくない。よくある」
「えー、ほんとですかぁ? 先輩ってのんびり屋のイメージあるんですけど」
小春はケースからキーボードを取り出しながら、ちらちらとこちらを見てくる。
その目が、どこか楽しそうなのが気に食わない。
「のんびり屋じゃない」
「練習中は違いますよね。なんか、スイッチ入ったみたいになるじゃないですか、先輩。あれ最初ちょっとびっくりしました」
俺は少し黙った。それから、ギターのネックを持ち直した。
「........そういうもんだろ、部活は」
「先輩って、意外と不器用ですよね」
言い方が憎たらしいくせに、声は妙に明るい。小春はそういうやつだった。
生意気なことを言うのに、なぜかこちらが怒り切れない。損な性格だと思う。
暁音は返す言葉を探して、見つからなかった。
「.......そんなことないだろ」
「さっき私が来るまで、ずっと同じフレーズ弾き続けてましたよね。しかも眉間にしわ、めちゃくちゃ寄せて」
二人分の音が、部室を満たしはじめた。ギターとキーボード。バラバラで、でもどこか馴染んでいる。
小春がぽつりと続けた。声のトーンが、さっきより少し低かった。
「そういう先輩の顔、嫌いじゃないですよ。本気なんだなって、わかるから」
俺は何も言わなかった。言えなかった、というほうが正確かもしれない。
窓の外で風が木の葉を揺らす音が、かすかに聞こえた。春の終わりの、穏やかな音だった。
それでも暁音の胸に、静かに引っかかった。
しばらくして、小春がキーボードの電源を入れた。小さく音出しをしながら、鍵盤の上で指を転がしている。
ふわりとしたメロディが部室に漂いはじめた。俺はそれをBGMにするように、また弦を弾いた。
合わせているわけじゃない。でも不思議と、邪魔にならなかった。
小春が時々こちらをちらりと見ては、何も言わずにまた鍵盤に目を戻す。
それがなんとなくおかしくて、暁音は小さく息を吐いた。笑ったわけじゃない....たぶん。
二人分の音が、部室を満たしはじめた。ギターとキーボード。バラバラで、でもどこか馴染んでいる。
そう思ったとき——
ドアが、また開いた。
また、見たことのある顔だった。
「みんな自主練好き好きだろ。変態かよ.....」
——俺も含めて。
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◎追記
「コータ」が説明していなかったので補足します。
この物語は3人がそれぞれヒロインを出し合い、それぞれ自分の出したヒロインを勝ちヒロインにするために頑張ります。そこも把握したうえで読んでくれると嬉しいです。
僕のヒロインは「小鳥遊小春」です。
「れいなと」




