泥濘(でいねい)のなかで
第2部:泥濘のなかで
深夜二時半。静まり返ったリビングに、陽菜の震える声が落ちた。 その声は、かつて彼女が幼かった頃、暗闇を怖がって私の寝室に潜り込んできた時のものと驚くほど似ていた。けれど、今の彼女が向き合っているのは、想像上の怪物などではなく、実の父親という、最も残酷な現実だった。
「陽菜……」 知美は膝をついたまま、這うようにして娘に歩み寄った。床の冷たさが膝を通り越して、骨の髄まで染み渡るようだった。 陽菜は廊下の壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。パジャマの袖をぎゅっと握りしめる拳は白く、小刻みに震えている。彼女の瞳には、つい数分前までここで繰り広げられていた「家庭の崩壊」が、剥き出しのまま焼き付いていた。
「全部……聞いていたのね」 「……お父さん、あの子のこと、守るって言った」 陽菜の声には、涙よりも先に、鋭い拒絶の色が混じっていた。 「私じゃなくて、お母さんでもなくて、会ったこともない女の人と、そのお腹の中にいる子のことを『守る』って言った。ねえ、お母さん。私たちの十八年は、あの子の数ヶ月に負けちゃったの?」
知美は言葉に詰まった。 答えなど、どこにもなかった。正論で塗り固められた世界なら「そんなことはない」と否定できただろう。けれど、真治が残していった空気は、紛れもなく「拒絶」と「上書き」だった。彼にとって、知美との歳月は「古くなった装備品」であり、新しい女との未来は「魂の救済」なのだ。
「……陽菜、こっちにおいで」 知美は娘を抱き寄せた。 十七歳になった陽菜の体は、知美が思うよりもずっと細く、そして硬く強張っていた。彼女の肩に顔を埋めると、微かに柔軟剤の匂いがした。知美が今日、彼女のために丁寧に洗い、干し、取り込んだ洗濯物の匂いだ。 こんな日常の、なんてことのない積み重ねを、真治は「息が詰まる」と切り捨てた。
「大丈夫よ。お母さんがいる。お母さんが、あなただけは絶対に離さないから」 「……お母さん、泣かないで」 陽菜の手が、知美の背中に回された。 慰めているのは自分の方だと思っていたのに、気づけば娘の小さな体温に、知美の心の方が縋り付いていた。
しばらくの間、二人は冷え切った廊下で、一つの塊のように震えていた。 どれほどの時間が過ぎたろうか。遠くの幹線道路を走る深夜トラックの微かな走行音が、この部屋がまだ「外の世界」と繋がっていることを教えてくれた。 知美は深呼吸をし、娘の肩を優しく押して、その目を見つめた。
「……陽菜、少しだけ、キッチンに行きましょう。温かいものでも飲みましょうか」 「……うん」
立ち上がろうとして、知美は自分の足に力が入らないことに気づいた。 虚脱感。 真治が去ったことで、この家を支えていた目に見えない柱が、すべて一気に引き抜かれたような感覚だった。 手を取り合ってキッチンへ向かう途中、知美の視線はダイニングテーブルの上に落ちた。 真治が座っていた椅子の背もたれ。彼が投げ捨てたかのように置いていった、高価な万年筆。それらすべてが、毒を孕んだトゲのように知美を刺す。
知美は震える手でガスコンロに火をつけた。 青い炎がシュン、と音を立てて広がる。 ミルクを小鍋に入れ、ゆっくりとかき混ぜる。木べらが鍋の底を擦る音だけが、不自然なほど大きく響いた。 かつて、真治が昇進した夜。この場所で二人でワインを開け、未来を語り合った。 「知美のおかげだよ。お前が家を守ってくれるから、俺は戦えるんだ」 あの時の彼の言葉に、嘘はなかったと思いたい。けれど、もしあれが本当だったとしたら、今のこの仕打ちは一体何なのだ。感謝の果てが、ゴミのように捨てることなのか。
「……お母さん、お金のこと、お父さんあんなこと言ってたけど」 カウンターチェアに座った陽菜が、唐突に切り出した。 「私、大学、行かない。……アルバイトして、お母さんを助ける」
知美はかき混ぜていた手を止めた。 「何を言ってるの。あなたはあなたの道を……」 「お父さんはもう、私を『責任』としてしか見てないよ。あんな人の『責任』で大学に行かせてもらうなんて、私、絶対に嫌」
陽菜の瞳には、知美も持っていないほどの烈火のようなプライドが宿っていた。 知美は、胸が締め付けられるような思いで、沸き立ちそうになったミルクの火を消した。 「陽菜、それは今決めることじゃないわ。……お父さんの言ったことなんて、まともに受け取らなくていいの」 「でも、お父さん、通帳持って行ったんでしょ?」
知美は息を呑んだ。 ……通帳。 真治の言葉が脳裏をよぎる。 『現金の方は……半分は持っていかせてもらう』 半分。 彼が「半分」と言った時、知美はそれを単なる比喩だと思っていた。けれど、真治という男の用意周到さを知美は知っている。仕事において「詰め」の甘さを何より嫌っていた彼が、手ぶらでこの家を出るはずがない。
知美は、カップに注いだホットミルクを陽菜の前に置くと、「ちょっと待ってて」と言い残して、寝室の奥にある書斎スペースへと急いだ。 備え付けのキャビネット。その三段目の引き出しに、家族の重要な書類はすべてまとめてあるはずだった。 引き出しを開ける。 指先がガタガタと震え、うまく鍵が回らない。
ようやく開いた引き出しの中身を見た瞬間、知美の頭から血の気が引いた。
「……ない」
定期預金の証書。共有名義の貯蓄用通帳。陽菜の学資保険の書類。 それらが、綺麗さっぱり消えていた。 残されていたのは、知美がパート代を貯めていた自分名義の、わずかな残高しかない通帳だけだった。 知美は、キャビネットの角を掴んで、かろうじて立っていた。
吐き気がした。 単なる不倫ではない。単なる妊娠でもない。 彼は、この家から逃げ出したのではない。この家を「略奪」していったのだ。 知美が、スーパーのタイムセールに通い、外食を控え、コツコツと積み上げてきた家族の共有財産。陽菜が将来、音楽を学びたいと言い出した時のために、留学したいと言った時のために、一円単位で管理してきたあの数字たちを。 彼は、それを「二十四歳の女との新しい生活」のための資金として、持ち去った。
「真治さん……あなた、そこまで……」
知美は、自分の喉から漏れた声が、獣の呻きのように聞こえた。 怒りという言葉では生ぬるい。それは、魂を根こそぎ奪われた者の、最後の咆哮だった。 十八年。 知美が彼に捧げたのは、労働力だけではない。若さも、情熱も、思考も、すべてを「佐藤真治の妻」であることに費やしてきた。 彼が仕事で遅くなれば、冷めないように工夫した食事を何度も作り直し、彼が体調を崩せば、一晩中枕元で看病した。彼の両親が倒れた時、真治は「仕事があるから」と一度も病院に泊まらなかった。その代わりに、知美がオムツを替え、愚痴を聞き、見送った。
それらすべての献身は、彼にとって「当然のインフラ」でしかなかったのだ。 ガスや水道のように、あって当たり前のもの。そして、もっと効率の良い、あるいはもっと美しい最新の設備が現れれば、ためらいなく取り替える。 知美という一人の人間は、彼の中ではとっくに「機能」へと成り下がっていた。
ふらふらとキッチンに戻ると、陽菜が心配そうな顔で知美を見上げた。 知美の顔色を見て、すべてを察したのだろう。陽菜はそれ以上何も聞かず、ただ、冷めかけたミルクを一口、静かに飲み込んだ。
「……お母さん、ここ、出よう」
陽菜の言葉は、静かだが、鋼のような強度を持っていた。 「え……?」 「このマンション。お父さんがローンを払ってるんでしょ? お父さんが『責任を取る』ために用意した場所に住むなんて、もう耐えられない。……私、こんなキラキラしただけの硝子の箱、大嫌い」
知美は、周囲を見渡した。 かつては憧れの象徴だった。この高層階からの夜景も、大理石のカウンターも、一流デザイナーのソファも。 けれど今、それらはすべて、知美を嘲笑っているかのように見えた。 『お前はここで、飼い殺されていたんだよ』と。
真治が用意した贅沢。 それは、知美をこの場所に縛り付けるための、美しい鎖だった。 彼が不倫をし、別の家庭を作っても、知美がこのマンションで「優雅な生活」を続けていれば、彼の罪悪感は軽減されるのだろう。 「金は出しているんだから、文句はないだろう」 そんな彼の声が聞こえてくるようだった。
「……そうね」 知美は、自分でも驚くほどはっきりと答えていた。 「出ましょう、ここを」
今、この瞬間に、知美の中で何かが決まった。 守らなければならないのは、この豪華な生活ではない。 自分と、陽菜の「誇り」だ。 真治から与えられる施しで食いつなぐ余生なんて、死んでも御免だ。 たとえ四十三歳で、資格も何もない事務パートの女だったとしても。 たとえ明日からの食費に窮するような生活が待っていたとしても。 彼の「魅力がない」という言葉を、そのまま受け入れて、この硝子の檻の中で朽ち果てるわけにはいかない。
「でも、陽菜。……とても苦しい生活になるわよ。今までみたいなわけにはいかない」 「分かってる。……でも、嘘の朝ごはんを食べるより、マシ」
陽菜の言葉に、知美の視界が不意に開けた。 そうだ。 これまで、知美が毎朝作ってきた朝食は、一体何だったのか。 真治の機嫌を伺い、彩りを整え、完璧な「幸せな家庭」を演出するための小道具。 その裏側で、夫は別の女を抱き、別の未来を夢見ていた。 あれは、幸せではなく、ただの「嘘」だった。
「本当の朝ごはんを、食べましょう。……二人で」
知美は、陽菜の細い手を力強く握りしめた。 窓の外、空がわずかに白み始めていた。 夜明け前の、最も冷え込む時間。 けれど、知美の心の中には、真治に捨てられた時よりもずっと熱い、静かな怒りと決意の火が灯っていた。
真治は知らない。 知美がどれほど、生活というものを守るために「泥」を啜る覚悟を持っているか。 彼が「強いから可愛くない」と言ったその強さは、彼に依存するためのものではなく、彼なしで生きていくための翼になるのだ。
知美は、スマートフォンの電源を入れた。 まずやるべきことは、泣くことではない。 真治が持ち去った財産のリストアップ。弁護士の検索。そして、今の自分たちの手元にある「わずかな武器」の確認。
「陽菜、寝なくていいわ。……荷物をまとめ始めましょう。彼が『業者を寄こす』なんて言ってたけど、その前に、私たちは私たちの意志で、この家を捨てるの」
知美は、ダイニングに置かれたままの、あの高価な万年筆を手に取った。 そして、それを迷うことなく、キッチンのゴミ箱へと放り込んだ。 カラン、という軽い音がした。 それが、知美にとっての「宣戦布告」の合図だった。
四十三歳。 一度は死んだも同然の夜を越えて。 知美は、本当の意味での「自分の人生」のスタートラインに立っていた。 泥濘の中に足を取られながらも、その瞳は、遠く、けれど確実に見え始めた「本当の朝」を捉えていた。




