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嘘のあとに、本当の朝を  作者: 久遠 睦


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硝子の城が砕ける音 :凍てついた宣告

第1章:硝子の城が砕ける音


第1部:凍てついた宣告


 四十三歳という年齢は、人生の折り返し地点だという。  長い上り坂を終え、ふと立ち止まって後ろを振り返る。そこには自分が歩んできた道が続いているはずだった。しかし、今の佐藤知美さとう・ともみの目に映っているのは、霧に包まれた断崖絶壁だけだった。  深夜二時。  港区の端に位置するこの分譲マンションの二十二階は、地上を走る車の音さえ届かないほど静まり返っている。知美は、イタリア製の高価なグレーのソファに深く腰を沈め、動かなくなった空気の一部になりきっていた。


 部屋の明かりは、キッチンカウンターの上にあるペンダントライトひとつに絞っている。柔らかなオレンジ色の光が、無機質な大理石の床に長い影を落としていた。  目の前のローテーブルには、冷めきったルイボスティーが入ったカップが置かれている。かつては、この時間が夫婦の語らいの場だった。真治が仕事から帰り、ネクタイを緩め、知美が今日一日の陽菜ひなの様子を話す。知美が淹れるお茶の湯気に、真治が「ほっとするよ」と笑いかける。そんな、どこにでもある、けれど何物にも代えがたい幸福が、この場所には確かに存在していたはずだった。


 知美は視線を上げ、部屋を見渡した。  北欧のデザイン家具、壁に飾られた現代アートの版画、陽菜が幼い頃に一緒に選んだ大きなドウダンツツジの枝。すべては、知美が選び、整え、維持してきた「理想の家庭」のパーツだ。真治の年収が上がるにつれ、住む場所も、着る服も、置く家具も、少しずつ「格上」のものへと変わっていった。  それは誇らしかった。自分が支える夫が社会的に認められ、その果実を家族で享受すること。知美はそのために、自身のキャリアを二の次にし、パートタイムの事務職として働きながら、家の中のすべてを完璧に切り盛りしてきたのだ。


 けれど、いつからだろう。  この贅沢な空間が、息苦しい「硝子の城」のように感じられ始めたのは。


 カチャリ、と音がした。  玄関の電子ロックが解除される、無機質な電子音。  続いて、重いドアが閉まる音が、静寂を切り裂くように廊下を伝わってきた。知美の背筋を、氷のような寒気が走り抜ける。それは期待でも喜びでもなく、得体の知れない恐怖に近い感覚だった。


 足音が近づいてくる。  真治の足音は、以前よりも少し重く、それでいてどこか投げやりなリズムを刻んでいた。リビングのドアが開くと、冷たい夜気とともに、異質な匂いが流れ込んできた。


 タバコと、上質なアルコールの匂い。そして、その奥に隠しきれない、甘く華やかな香水の残り香。


「……まだ、起きていたのか」


 真治は知美と目を合わせることなく、ダイニングテーブルの方へ歩いていった。  彼はコートも脱がず、一番高いデザイナーズチェアに乱暴に腰を下ろした。緩んだネクタイ、わずかに乱れた髪。四十五歳になった彼は、白髪こそ混じり始めていたが、年を重ねるごとに渋みが増し、仕事のできる男特有の自信に満ちたオーラを纏っていた。  知美は、その姿を眩しく思うと同時に、ひどく遠く感じた。


「お帰りなさい。……遅かったわね」 「ああ、接待が長引いてな」


 嘘だ、と知美の心の中の何かが囁いた。  接待なら、彼はもっと疲れた顔をするはずだ。今の彼の瞳の奥には、どこか高揚した、自分ではない「誰か」に向けられた光が残っている。


「真治さん、お話ししたいことが……」 「俺の方こそ、話がある」


 真治が言葉を遮った。その冷徹な響きに、知美は息を呑んだ。  彼はようやく知美を見た。しかし、その瞳には、かつて向けられていた慈しみも、敬意も、同情さえもなかった。そこにあるのは、目の前の障害物を排除しようとする、冷淡な意思だけだった。


「別れてほしい」


 その言葉は、爆弾というよりは、薄い刃物が心臓を正確に貫いたような感触だった。  痛みを感じるよりも先に、知美の意識は真っ白に染まった。  別れてほしい。  その五文字が、十八年間の歳月を、一瞬にして瓦礫へと変えていく。


「……何を、言っているの? 急に」 「急じゃない。ずっと考えていたことだ」


 真治は淡々と続けた。その口調は、まるで仕事の契約を打ち切る通告のように事務的だった。


「彼女が、できたんだ。……妊娠している」


 知美の心臓が、一度大きく跳ね、そのあと激しく脈打ち始めた。  妊娠。  その言葉が、知美の腹部をえぐられるような衝撃として襲いかかる。  知美と真治の間には、高校生の陽菜がいる。陽菜を授かった時の喜び、産声を聞いた時の感動、夜泣きに二人で対応した日々。それらすべての記憶が、夫の「別の女との妊娠」という告白によって、汚泥の中に沈められていく。


「誰なの? その人は」 「会社の、部下だ。……お前も会ったことがあるだろう。去年のバーベキューに来た、河野こうのだ」


 知美の脳裏に、鮮やかな色彩が蘇った。  昨年の夏、真治がプロジェクトの打ち上げとして、チームのメンバーを招いた時のことだ。その中に、ひときわ明るく、若さに満ち溢れた女性がいた。二十代前半。透き通るような肌と、屈託のない笑顔。 「奥様、お料理すごいですね! 憧れちゃいます」  そう言って、知美の作ったサラダを無邪気に頬張っていた、あの子。


「彼女は、まだ二十四だ。……若くて、危なっかしくて。俺がついていてやらないと、すぐに壊れてしまいそうな、そんな脆さがあるんだ」


 真治の声に、隠しきれない熱がこもった。  その熱が、知美には何よりも耐え難かった。自分に向ける視線はあんなに冷酷なのに、名前も思い出せないような、たかが二十歳そこそこの娘に向ける感情は、これほどまでに瑞々しいのか。


「……壊れそう? 彼女が?」


 知美は、絞り出すように笑った。乾いた、砂を噛むような笑いだった。


「真治さん、あなたは分かっているの? あなたが守るべきなのは、壊れそうな部下じゃない。十八年一緒に歩んできた妻であり、今まさに大学受験を控えている娘でしょう?」 「陽菜のことは、もちろん責任を取る。学費も出すし、生活も困らせない」 「お金の問題じゃないわよ!」


 知美は立ち上がった。震える膝を、必死に抑えつける。


「彼女は壊れそうだから守る。じゃあ、私は? 私はどうなるの? 私は一度だって、あなたに弱音を吐いたことはなかったわ。あなたが仕事で失敗して落ち込んでいた時も、お義父さんの介護で私がボロボロになっていた時も、私は笑顔を絶やさず、この家を守ってきた。……私は壊れそうになかったから、捨ててもいいっていうの?」


 真治は、鬱陶しそうに目を逸らした。そして、知美にとって一生忘れられない、呪いのような言葉を口にした。


「知美、お前は……強いよ。強すぎて、可愛くないんだ。……正直に言うが、お前にはもう、女性としての魅力なんて欠片も感じられない」


 時が、止まった。


 女性としての、魅力。


 その言葉が、知美の四十三年間の人生を、根底から否定した。  知美だって、最初から「強い女」だったわけではない。  慣れない育児に泣きながら夜を明かした日もあった。家計のやりくりに頭を悩ませ、自分の欲しい靴を一足買うのにも何ヶ月も迷った。美容院に行く頻度を減らし、デパートの化粧品売り場を通るのを避け、スーパーの特売品を追いかける。  それらすべては、家族のためだった。真治が社会で胸を張って戦えるように、陽菜が何不自由なく健やかに育つように。  自分を削り、磨り潰し、そうして出来上がった「妻」であり「母」としての強さを、彼は「魅力がない」と一蹴したのだ。


 知美は、自分の手を見た。  水仕事で荒れ、指の節が少し太くなった手。かつて真治が「綺麗な手だね」と言って指輪を嵌めてくれたその手は、今や生活の垢にまみれた、ただの労働の象徴でしかなかった。  鏡を見なくてもわかる。今の自分は、きっと酷い顔をしている。疲れが取れないまま、目尻には小じわが刻まれ、肌にはくすみがある。  二十四歳の、あの娘のような輝きは、今の知美にはない。


 けれど、それを奪ったのは、誰だったのか。  その輝きを捧げた相手は、一体誰だったのか。


「……魅力がないから、若い子に乗り換えるのね」 「そんな単純な話じゃない。魂の、……そう、魂の救済なんだよ。彼女と一緒にいると、俺は本当の自分になれる。この家は、立派すぎて、息が詰まるんだ。お前の完璧な家事も、献身も、俺にとってはただのプレッシャーでしかなかったんだ」


 あまりの言い草に、知美は言葉を失った。  献身がプレッシャー。  ならば、この十八年間は、一体何のための「ごっこ遊び」だったのか。


「……もう、いいわ」


 知美は深く、深く息を吐いた。  これ以上、この男に言葉を費やすのは、自分の魂をさらに安売りするような気がした。


「出ていって。今すぐ、この部屋から出ていって」 「ああ。言われなくても、そのつもりだ。荷物は後日、業者を寄こす」


 真治は立ち上がると、寝室からあらかじめ用意していたらしいボストンバッグを持ってきた。彼はすでに、この家を捨てる準備を終えていたのだ。  知美が一人で震えながら彼を待っていた間、彼は別の女の部屋で、あるいは高級なホテルのバーで、この「処刑宣告」のシナリオを練っていたのだ。


「マンションのローンは、俺が払い続ける。だが、現金の方は……悪いが、彼女との新しい生活に必要だから、半分は持っていかせてもらう」 「半分? 私たちの貯金よ? 陽菜の将来のための……」 「また稼げばいいだろう。お前だって、まだ働ける。……じゃあな」


 真治は一度も知美の顔を見なかった。  その背中が、玄関へと消えていく。  ドアが閉まる音がした。  再び訪れた静寂は、先ほどまでのものとは異なっていた。それは、完全に破壊された世界の残骸のような、冷え冷えとした沈黙だった。


 知美は、その場に崩れ落ちた。  豪華な絨毯に顔を埋め、声を上げずに泣いた。  涙が止まらなかった。悔しくて、情けなくて、そして何より、これほどまでに自分を粗末に扱った男を、つい数時間前まで信じていた自分が許せなかった。


「……お母さん」


 暗闇の中から、震える声が響いた。  知美が顔を上げると、そこには廊下の角に身を潜めるように立っている、娘の陽菜の姿があった。  パジャマ姿の彼女は、両肩を抱くようにして震えていた。その瞳には、すべてを見て、すべてを聞いてしまった絶望の色が浮かんでいた。


 知美は、反射的に涙を拭った。  どんなに心が砕けていても、自分は母親なのだ。  娘の前で、無様な姿を見せるわけにはいかない。


「陽菜……起きてたの?」 「……お父さん、もう帰ってこないの?」


 陽菜の声は、絞り出すような細い響きだった。  知美は答えられなかった。ただ、冷え切った床の上で、娘を抱きしめることしかできなかった。  陽菜の体温が、震えながら伝わってくる。  この子の未来を、あの男は「責任を取る」と言いながら、足蹴にして去っていった。  二十四歳の「壊れそうな」女を守るために、自分の血を分けた娘の心を壊していった。


 知美の中で、涙が乾き、代わりにどす黒い炎が静かに灯り始めた。


 ――許さない。


 私を「女」として否定したことも。  この子の平穏を奪ったことも。  積み上げてきた日々を「プレッシャー」と呼んで踏みにじったことも。


 知美は、陽菜の背中を優しく、けれど強くさすった。


「大丈夫よ、陽菜。お母さんが……お母さんが、あなたを守るから」


 窓の外、夜の底はまだ深い。  けれど、硝子の城が砕け散ったあとに残された、むき出しの土の上で、知美は初めて自分の足で立とうとしていた。


 偽りの幸福は、もういらない。  どれほど質素でも、どれほど狭くてもいい。  嘘のない、本当の朝を迎えるために。


 四十三歳の佐藤知美。  彼女の本当の物語は、この凄惨な夜の終わりから、幕を開けようとしていた。


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