第9話:『強制更生』
兄という「粗大ゴミ」を処分し、帰宅しました。
家で待っているのは、自分も助けてもらえると信じて疑わない母です。
「親を見捨てるのか」というお決まりの泣き落としに対し、遥が下した最後の審判とは。
兄を乗せたワゴン車が見えなくなると、辺りには虫の音だけが響く静寂が戻った。
私は深く息を吸い込む。雨上がりの夜の空気は、ゴミ屋敷の異臭が混じっていたとしても、以前よりずっと澄んで感じられた。
「……行こうか。お義母さんに報告しないと」
「うん」
健人に促され、私たちは再び車に乗り込んだ。
あの汚れた家を振り返ることはしなかった。あそこはもう、更地にして売られるだけの「負債」でしかないのだから。
◇
自宅に戻ると、リビングで母が小さくなって震えていた。
私たちの顔を見るなり、すがるような目で駆け寄ってくる。
「は、遥! お兄ちゃんは……あの子はどうなったの? まさか、警察に……?」
母の声は恐怖と、ほんの少しの期待が入り混じっていた。
息子に殺されかけた恐怖と、それでも息子を失うことへの不安。その優柔不断さが、この悲劇を招いたのだ。
「警察じゃないわ。……山奥の更生施設に送ったの」
私は淡々と事実を告げた。
「寮に入って、朝から晩まで規律ある生活を叩き込まれる場所よ。もちろん、外出も連絡も禁止。最短でも二年は出てこられないわ」
「に、二年……」
「文句ある? あそこで一生、犯罪者予備軍として飼い殺しにされるよりマシでしょ。費用は私が払ってあげたんだから、感謝してほしいくらいだわ」
母は力が抜けたようにソファにへたり込んだ。
安堵したのか、悲しいのか、表情は曖昧だ。
私はそんな母の前に一枚の紙を置いた。
不動産売却の査定資料だ。
「さて、お母さん。これからの話をしましょう」
「え……?」
「お兄ちゃんがいなくなっても、あの家にはもう住めないわよ。借金取りが来るかもしれないし、何よりあんなゴミ屋敷、お母さん一人じゃ片付けられないでしょ」
私は冷徹に、彼女に残された唯一の道を提示した。
「家と土地を売って。お父さんが残した唯一の財産よ。立地は悪くないから、更地にすればそれなりの値段になるわ。それで兄が作った借金を返済して、残ったお金で地方の安いアパートか、高齢者向け住宅に入りなさい」
母の目が大きく見開かれる。
「そ、そんな……家を売るなんて……。それに、私一人で知らない土地で暮らすなんて無理よ! 遥、あんたの家に……」
「置くわけないでしょ」
母の言葉を遮り、即座に否定した。
「勘違いしないで。今回助けたのは、兄という『危険物』を処理するため。お母さんと同居するためじゃないの」
「で、でも……私はあんたの母親よ!? 困ってる親を見捨てるの!?」
「見捨てられたのは、私の方よ」
私の声が低く響き、母が息を呑む。
私は真っ直ぐに母の濁った瞳を見つめた。
「私が進学したいと泣いて頼んだ時、お母さんは何て言った? 『無駄金だ』って切り捨てたわよね。兄が私を見下して嘲笑った時、一緒になって笑ってたわよね。……あの時、私はあんたたちの娘じゃなくなったの」
「そ、それは……お兄ちゃんが優秀だったから……」
「その優秀な兄に殺されかけた気分はどう? 自分の見る目がなかったことを、死ぬまで反省して生きなさい」
母の目から涙が溢れ出した。
今度は演技ではない、後悔の涙だろう。
彼女は床に手をつき、頭を下げた。
「ごめんなさい……遥、ごめんなさい……っ! 私が間違ってた。あんたが一番、親思いのいい子だったのに……っ!」
遅い。
あまりにも、遅すぎる。
その言葉を、十七歳の私が聞いたら泣いて喜んだかもしれない。
でも、二十七歳になった今の私には、何の感情も湧かなかった。
「謝罪はいらないわ。ただ、私の指示に従って。……手続きは夫の知人の不動産屋に任せるから」
私は事務的に告げた。
「家が売れて、引越し先が決まったら、もう二度と私たちに関わらないで。連絡先も変えるし、住所も教えない。……もし約束を破って私たちの生活を脅かそうとしたら」
私は一瞬だけ、かつての兄のような冷たい笑みを浮かべてみせた。
「お母さんも、お兄ちゃんと同じ施設に入れてあげる。……あそこなら、親子仲良く暮らせるんじゃない?」
ヒッ、と母が短い悲鳴を上げる。
それで十分だった。
彼女はもう、私に逆らわない。すがりつく気力すらも、恐怖で上書きされたはずだ。
「今日は近くのビジネスホテルを取ってあるから、そこで寝て。明日の朝、不動産屋を呼ぶから」
私はタクシーを呼び、母を家から追い出した。
去り際、母は何度も振り返り、何かを言いたそうにしていたが、私は一度も目を合わせなかった。
タクシーのテールランプが闇に消えていく。
私の人生にこびりついていた、最後の汚れが落ちた瞬間だった。
「……お疲れ様、遥」
健人が背後からそっと抱きしめてくれる。
その温かさに、張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
「うん……終わった。本当に、全部終わった」
兄は施設へ。母は遠くの街へ。実家は更地へ。
私の過去を縛り付けていた鎖は、すべて粉々になったのだ。
お読みいただきありがとうございます。
お母さんの「あんたの家に……」という甘い考え、即却下でしたね!
「見捨てられたのは私の方」という遥のセリフ、本当にその通りだと思います。
最後の「お母さんも施設に入れるよ?」という笑顔の脅し。
これ以上の抑止力はありません。これで母も二度と連絡してこないでしょう。
さあ、すべての憂いは断ち切られました。
長かった夜が明け、本当の幸せを手に入れる時です。
次話、いよいよ最終回。
第10話、『静かな夜空』へお進みください!




