第5話:『訪れた平穏と、胸に刺さる違和感』
絶縁から二年が経ちました。
遥は健人と結、家族三人で穏やかで幸せな日々を過ごしています。
実家からの連絡は一切なし。
彼らは彼らで、遺産を使って優雅に暮らしているのでしょうか?
それとも……。
嵐の前の静けさを感じる第5話です
あの日、実家との縁を切り、着信拒否をしてから、季節はいくつも巡った。
「ママー! 見て見て、お花さいたよ!」
「本当だ、綺麗だねえ。結ちゃんが毎日お水あげたからだね」
ベランダで娘の結がはしゃぐ声が聞こえる。
私は洗濯物を干しながら、その愛らしい背中を見つめて微笑んだ。
平和だ。
朝起きて、家族で食事をし、夫を見送り、娘と遊ぶ。夕方にはスーパーで特売品を選び、夜は三人で川の字になって眠る。
そんな当たり前の日常が、今の私には何よりも尊かった。
実家からの連絡は、一切ない。
スマホの着信履歴に「実家」の文字が浮かばなくなるだけで、こんなにも心が軽くなるなんて知らなかった。
時折、ふと「あの人たちは今頃どうしているだろうか」という思考がよぎることはある。
けれど、すぐに首を振って打ち消すのだ。
兄は優秀なエリート(自称)だ。父の遺産もある。母と二人、誰にも邪魔されず、彼らにとっての理想の生活を送っているに違いない。
「……遥、どうかした?」
夕食後、食器を片付けていると、夫の健人が心配そうに声をかけてきた。
「ううん、なんでもないよ。……ただ、あまりにも静かだから」
「実家のこと?」
「うん。あれだけ怒鳴り散らして別れたから、もっと嫌がらせとか、文句を言ってくるかと思ったんだけど……本当に何もなくて」
健人は苦笑して、私の肩に手を置いた。
「それは、彼らが『勝った』と思っているからだよ。遺産も家も手に入れて、邪魔者は消えた。満足してるんだろ」
「……そうだといいんだけど」
胸の奥に、小さな棘が刺さっているような感覚があった。
罪悪感じゃない。後悔でもない。
これは、もっと本能的な――「嫌な予感」だ。
あのプライドの高い兄と、依存心の強い母。あの二人がだけで生活して、本当に平穏無事に済むのだろうか? 社会は、そんなに甘いものだっただろうか。
でも、私にはもう関係ない。
そう書かれた誓約書が、引き出しの奥に眠っているのだから。
◇
そして、月日は流れた。
絶縁から、二年が経とうとしていたある日のこと。
その日は、朝から小雨が降る肌寒い日だった。
結は五歳になり、幼稚園に通い始めていた。
夕方、結を迎えに行き、夕食のハンバーグをこねていた時だ。
ピンポーン。
インターホンの音が鳴った。
宅配便の予定はない。セールスだろうか。
私は手を拭き、モニターを覗き込んだ。
「……え?」
心臓が、ドクリと跳ねた。
モニターの画面に映っていたのは、ボロボロの服を着た、小柄な老婆だった。
雨に濡れ、髪は乱れ、うつむいて震えている。
誰? 浮浪者?
いや、違う。
その特徴的な猫背。自信なさげに両手を擦り合わせる仕草。
見間違えるはずがない。
二年前、私に対して「お兄ちゃんがいれば安泰だ」と勝ち誇っていた、母・恵子だった。
「……嘘でしょ」
血の気が引いていく。
あの時の、小綺麗で少しふっくらとしていた母の面影はどこにもない。
頬はこけ、目は落ちくぼみ、まるで十年以上も歳をとったかのように衰弱しきっていた。
ピンポーン。ピンポーン。
反応がないことに焦れたのか、チャイムが連打される。
その音は、必死のSOSというよりは、私の平穏な生活をこじ開けようとする、不吉な足音のように聞こえた。
「ママ? 誰か来たの?」
「っ……結は向こうに行ってて! パパが帰ってくるまで、お部屋から出ちゃだめよ!」
私は結をリビングの奥へ促すと、震える手でドアノブに触れた。
開けてはいけない。直感がそう叫んでいる。
けれど、このまま家の前で騒がれても近所迷惑だ。
私はチェーンをかけたまま、扉を少しだけ開けた。
「……何の用ですか」
冷たく言い放つ。
隙間から見えた母の顔が、私を見た瞬間、くしゃりと歪んだ。
「は、遥……! ああ、遥……っ!」
母はその場に崩れ落ちるように膝をつき、雨に濡れたコンクリートに額をこすりつけた。
「助けて……助けてちょうだい……! 殺される……このままじゃ、私、あの子に殺される……っ!」
殺される?
あの子?
母の口から出た言葉は、私の想像していた「お金の無心」よりも、遥かに深刻で、おぞましいものだった。
私の「嫌な予感」は、最悪の形で的中してしまったのだ。
お読みいただきありがとうございます。
チャイムのモニターに映っていたのは、まさかの人物でした。
あんなに勝ち誇っていた母が、ボロボロの姿で「殺される」と……。
ちょっとしたホラーですね。
「優秀なエリート」だったはずの兄に、この二年間で一体何があったのか?
母の口から語られる、崩壊の真実。
次回、第6話『SOS』へお進みください!




