第1話:『幸福の静けさ』
はじめまして。あるいは、こんにちは。
数ある作品の中から本作を見つけていただき、ありがとうございます。
「高卒」と見下され、実家を追い出された主人公が、幸せな家庭を築いた後に、落ちぶれた家族と決着をつけるお話です。
全10話、完結済みです。
『完結まで一挙投稿します』
ドロドロした展開もありますが、最後はスカッとハッピーエンドをお約束します。
短い間ですが、どうぞ最後までお付き合いください。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、食卓に並んだ焼き立てのトーストとコーヒーの香りを際立たせている。
リビングには、Eテレの子供向け番組の音が小さく流れていた。
「ママー、これ見て! わんわん!」
「ふふ、可愛いねえ。結ちゃんもわんわんみたいに元気だね」
三歳になる娘の結が、満面の笑みでテレビを指さす。私はその柔らかい髪を撫でながら、頬が緩むのを止められなかった。
向かいの席では、夫の健人がコーヒーカップを置き、穏やかな眼差しをこちらに向けている。
「遥。今日の卵焼き、すごく美味いよ。いつもありがとう」
「そんな、ただの卵焼きだよ? 健人くんは大げさなんだから」
「本当のことだよ。……遥と結とこうして朝ごはんを食べてると、俺は世界一幸せ者だなって思うんだ」
照れくさそうに笑う夫を見て、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。
暴力も、暴言も、嘲笑もない。
互いを尊重し、感謝の言葉が自然と飛び交う空間。
二十五歳になった今、私はようやく手に入れたのだ。
誰にも侵されない、平穏で温かい「私の居場所」を。
――でも、ふとした瞬間に思い出してしまうことがある。
この幸せが奇跡のように思えるほど、冷たく暗かった「あの家」のことを。
◇
あれは、高校三年の秋のことだったと思う。
夕食の席で、私は勇気を振り絞って両親に頭を下げた。
「お願い、お父さん、お母さん。私、大学に行きたいの。奨学金も自分で借りるし、バイトだってするから……!」
担任の先生からは、地方の国公立なら十分に狙えると言われていた。学ぶことは好きだったし、将来の選択肢を広げたかった。
けれど、私の必死の懇願は、父の一言であっさりと切り捨てられた。
「女が大学に行ってどうする。生意気だ」
父は箸を止めず、私の方を見ようともしなかった。
すがるように母を見る。しかし母は、隣でふんぞり返っている兄の茶碗にご飯をよそいながら、面倒くさそうに吐き捨てた。
「あのねえ遥。うちはお兄ちゃんが国立大学に通ってるのよ? 一人暮らしの仕送りだって馬鹿にならないんだから。あんたにかける無駄金なんて、一円もないわ」
「でも……成績だって維持してるし、お金は私が後で返すから……」
「しつこいな、お前は」
会話に割って入ってきたのは、兄の翔太だった。
当時、現役で難関国立大学に合格し、家の「誇り」として崇められていた兄。彼は箸の先で私を指し、見下すように鼻で笑った。
「いいか遥。俺は選ばれたエリートなんだよ。将来、一流企業に入ってこの家を支える人間だ。それに比べてお前はなんだ? ただの女だろ?」
「っ……兄ちゃんだって、私のテストの点数見てないくせに!」
「ハッ、笑わせるな。お前レベルの高校のテストなんて、俺にとっては遊びみたいなもんだよ。身の程を知れ、高卒」
高卒。
その言葉の響きに含まれた、決定的な差別と侮蔑。
両親も、兄の言葉に同調して頷いている。
「翔太の言う通りだ。お前みたいな出来損ないは、さっさと働いて家にお金を入れればいいんだ」
「そうよ。お兄ちゃんの邪魔だけはしないでちょうだいね」
ああ、そうか。
この人たちにとって、私は「家族」じゃないんだ。
優秀な兄という偶像を崇めるための、ただの「養分」であり「使用人」でしかないんだ。
悔しさで爪が食い込むほど拳を握りしめたあの夜。
私は泣かなかった。その代わり、心に誓ったのだ。
高校を卒業したら、一秒でも早くこの家を出てやる。そして二度と、こんな人たちのために私の人生を使ってやるものか、と。
◇
「……遥? どうしたの、怖い顔して」
夫の声で、私はハッと我に返った。
目の前には、心配そうに私を覗き込む健人の顔がある。
いけない。過去の記憶に引きずられていた。
「ううん、なんでもないの。ちょっと昔のことを思い出してただけ」
「昔のこと?」
「うん……今の生活が幸せすぎて、バチが当たらないかなって」
「バチなんて当たるわけないだろ。遥はいつだって頑張ってるんだから」
健人は優しく微笑んで、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
その大きな手のひらの温もりが、凍りついていた過去の記憶を溶かしてくれる。
そうだ。もう終わったことなのだ。
私は高卒で家を飛び出し、必死に働いて、自分の力で生きてきた。そして健人と出会い、結を授かった。
あの家の人たちがどうなっていようと、私にはもう関係ない。
兄がエリートとしてどう生きていようと、知ったことではない。
私は今、幸せなのだから。
「さ、そろそろ行く時間だね。結ちゃん、お着替えしようか」
「はーい!」
健人を送り出し、結の支度を始める。
今日もまた、穏やかで愛おしい一日が始まるはずだった。
――ジリリリリリリリ!!
突然、リビングの静寂を切り裂くように、固定電話がけたたましい音を立てた。
こんな朝早くに、誰だろう。
胸騒ぎを覚えながら、私は受話器へと手を伸ばした。
「……はい、佐伯です」
『もしもし、遥か?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、数年間、一度も聞くことのなかった――そして、二度と聞きたくなかった声だった。
淡々とした、事務的で、冷たい声。
血の気が引いていくのがわかった。
――父さんの、声だ。
『親父が死んだ』
その言葉は、私の平穏な日常に打ち込まれた、終わりの始まりを告げる楔だった。
お読みいただきありがとうございます。
平穏な朝を切り裂く一本の電話。
絶縁していたはずの「あの家」と、再び関わらざるを得ない状況になってしまいました。
次回、久しぶりに兄と会話をしますが……相変わらずのようです。
第2話:『訃報』
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