レシートの裏の裏の君
午後一時を過ぎると平日は客入りが悪くなる。ユキヒデにとって気の休まる時間だった。
朝七時から始めるモーニングは眠気まなこで注文をとりながら動き、その惰力でランチ迄を乗り切る。そして夕方に疎な客の相手をして店を閉める。喫茶店なのだからコーヒーや紅茶だけを客に提供していれば楽なのに、そういう訳にはいかなかった。
ユキヒデは客側のカウンターに座ってペストジェノベーゼのパスタを咀嚼しながら、腕を伸ばして伝票刺しにあった紙を一枚引き抜いた。エプロンの胸ポケットからボールペンを取り出して紙の後ろにすらすらと文字を書き込む。そして昼食を終えた。紙を丸めて捨てても構わないけれど、もとあった場所にユキヒデは刺した。暇つぶしの一人遊びだ。
食器を洗って布巾で水分を拭っているとドアが開く鐘の音がした。カランコロンカラン。祖父の代から変わらない音がユキヒデに合図を出した。お客様が来た。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
ユキヒデは明るく女性客に声をかけた。客は会釈して先程までユキヒデが昼食をとっていた席に腰を下ろしてからメニューを開いた。水を入れたグラスをカウンターに音を立てずにユキヒデは置いた。
「ペペロンチーノとモカブレンドをお願いします」
「かしこまりました、コーヒーの方は食後にされますか?」
「はい、それでお願いします」
「少々お待ちください」
ユキヒデはフライパンを弱火にかけた。慣れた手つきで調理とコーヒーの準備に取りかかる。湯を張った寸胴にあらかじめ用意された四つのテボの一つにパスタを投入して軽く泳がせる。店にはコンロは六つあったが、四人までが一度に対応する限界だとユキヒデは決めていた。店内には今は一人の客しかいないので、焦ることなくアルデンテを見極めることができた。
「お待たせしました。ペペロンチーノです。ごゆっくりどうぞ」
女性客は持参した文庫本を閉じてユキヒデに会釈して手を合わせた。ユキヒデは食べる前に手を合わせるなんて今どき珍しいな。女性客に好感を持ちながらカウンターの奥に下がった。
客が食べている姿を目に入れないように配慮して店主は消えた。
目の前に立たれたままならどうしようか? 話かけられるのは苦手。店内に客は自身しかいない。仮に声を掛けられれば二度と来ない。パスタの味がどんなによくても絶対に来ない。
女性客の思いは裏切られることになった。
想像よりもパスタは美味しかった。茹で加減と塩味のバランスが良くて、仕上げに使ったバージンオリーブオイルの風味が素晴らしかった。食後のコーヒーも特別とまでいかずとも十分に及第点といえた。
ユキヒデは女性客が食事している間、カウンターの奥で壁にもたれかかりながら、補充しなければいけない物をリストアップしていた。トイレットペーパーとキッチンペーパーと紙ナプキンも少なくなっている。紙ばかりじゃないか。
女性客は紙ナプキンで口元を拭いて立ち上がった。レジの横にある伝票刺しになにか文字が並んでいるのが目に留まった。その文字を追い終えてから会計を済ませた。女性客はレシートを受け取り店を出た。伝票刺しにあるレシートは受け取らなかった客のものだろうか? と女性客は首を傾げた。
先ほど読んだ文字を頭の中で反芻しながら職場である図書館に歩いて戻った。仕事場の机に座ってメモ帳に店で見た文字を書き出してみる。少し長い文章だったが間違っていないだろう。
書き終えて一息ついたあと、これは詩なのだろうかと考察する。
「ありがとうございました。又の御来店心よりお待ちしています」
ユキヒデは女性客がお待ちしていますと最後まで聞いてから店を出たので少し気分がよかった。多くの初来店者は又のご来店くらいでドアを開けてカランコロン鳴らして出て行く。まだこちらが形だけでも挨拶をしているのに。後ろから尻を蹴り上げてやりたくなることもしばしば。仮にありがとうと告げなければ文句を目で訴るくせに。
ユキヒデは自嘲して、色々と向いてないなと耳をほじってから手を洗った。
砂浜にある椰子の木に登った猿が沖を眺めていた。黄色い帆を張ったヨットが停泊している。
椰子の木の根元にカニがいた。カニは鋏を振り上げて猿を威嚇する。
猿はカニを見てから視線をヨットに戻した。波の押しては返す音が満ちている。
女性客は一日の終わりに、ベットの上で書き写したメモを眺めた。
これは誰が書いたのだろう? 猿が本人でカニは猿の上司かしら? ヨットは忘れられない夢かな? 波の音は繰り返しているから退屈な日常ということ?
「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」
「カルボナーラとモカブレンドをお願いします」
ユキヒデは昨日来た女性客だと気づいたが、あえて言及せず、コーヒーは伺いを立てずに食後に提供することにした。
女性客はユキヒデが調理にかかるのを確かめてから伝票刺しを確認した。また違った文字が並んでいる。パスタが提供されるまでの時間以内にそれをメモ帳に素早く書き写してバックにしまい込んだ。幼少期に両親の目を盗んでこっそり菓子を頬張った時のようなノスタルジックな気持ちに女性客はなった。
山の頂で馬鹿野郎と叫ぶと山彦が返ってきた。誰? 誰ですか? と。もう一度叫ぶと、また返ってきた。悪戯ですか? でしたら迷惑です。さらにもう一度叫んだ。今度は返事がなかった。
女性客は心を弾ませながら支払いを済ませて店を出た。メモを眺めながらゆっくりと歩きながら職場に戻る。
山彦がこの文章の鍵なのは間違いない。普通は叫んだ声と同じものが返ってくるのに、違う声が返ってくるのはどうして? 承認欲求の高まり? それとも孤独の現れなの? 最後は無視されているのはどういうこと? 山彦は自身の心の声だと仮定すればいいのかしら?
女性客はレシートの裏に並んだ文字に意味を求めて想像に想像を重ねた結果、心地よい袋小路に足を踏み入れていた。
ユキヒデはキノコをバターで炒めながら女性客の質問の不可解さに戸惑っていた。
「毎回この席に座る常連の方はいますか?」
「えっ? いえ、いらっしゃいません」
「本当に?」
「はい、この席に連続で座られたのは、お客様だけです」
ユキヒデが告げると女性客は顎を引いて頷いた。ユキヒデは次の言葉を待ったが、出てきそうにもないのでその場から離れた。
女性客はこの席に座る常連客が店主に向けて残したメッセージではないかと仮定した。しかしその線は間違いだった。ならば店主が書き並べた文字なのだろうか? この席に座る客にだけ向けて? さらに気がついた者だけが知ることのできる特別なメッセージ? 女性客は好奇心がさらに刺激されて、明日も確かめてやろうと決意した。
急に雨に打たれることがある。それが今日でなくてもいいのに。天気予報はあくまでも予報で責任をとってくれない。もっと強く傘を持っていけと恩着せがましく傲慢な態度だったら。どちらにしても、雨に打たれることは決まっていたのだね。
雨は運命かな? 天気予報は人の歴史? 運命には逆らえないということ?
女性客は店の前で立ち止まり、踵を返した。本日、店は定休日だった。
ユキヒデは女性客にナポリタンを提供した後にモカブレンドを出した。普段はあまり客に声を掛けないけれど、もしかしてと気になってしまったからだった。
「あの、お客様。ひょっとして昨日も来店されましたか?」
女性客はユキヒデから話しかけられたことに驚いた。それは決して不快なものではなく、寧ろ求めていたものだったのかも知れない。紅くなる顔を伏せながら女性客は答えた。
「はい、来ました。でも定休日だったんですね」
「申し訳ありません。じゃあ、明日も待ってますね」
ユキヒデは冗談半分で笑いながら、焼いたクッキーを小皿に乗せて女性客に提供した。
「サービスです」
女性客は俯いたまま礼を述べた。
橋の向こうに見える川の底で暮らすのさ。丸い石より四角い石の方がいい。
虹の根元にはなにかがある、池の淵での生活は慣れたかい。四角い石より丸い石の方が役に立つ。
四角い石は尖っていたいということかな。丸い石は元々四角い石だったと仮定して、成長を現している。少し難解ね。直接聞けば教えてくれるかしら。でもそれはルール違反よね?
ユキヒデはアンチョビとキャベツのパスタとモカブレンドを女性客に提供した。
「もう直ぐひと雨きそうですね、傘が必要なら適当に一つ持って行ってくださいね」
ユキヒデは入口に置かれた傘立てを指した。傘立てにはビニール傘が三本刺さっていた。女性客は一本の傘を借りて店を出た。
星の瞬く夜は、雨が降っていない。明日は晴れている。雨は昼に降るべきだね。そして夜に止んでしまう。すると明日もまた晴れているんだ。
星は希望の象徴ね。雨はおそらく試練よね? 試練を乗り越えれば希望の光が見えるということかしら? それだと安直過ぎない? 星は希望であり憧れと仮定するなら、決して手の届かないからこそ希望なの? 届がないところから道標として教えてくれる。だから人は上を向いて歩いていけるということ。なるほど。よくわからないわ。
女性客は持ち帰った文章を自分なりに解釈して、意味を与えていく。そんな日が続いた。二人は一言二言と会話する日が増えていった。
花を摘む少女があくびをした。少年が少女に近づきいて花の名を訊ねた。少女は花の名を知らないと答えた。少年はその花の名はシロツメクサだよと教えた。少女は作った花冠を少年に預けて駆けていった。
剥がれかけた部屋のポスターを止め直しながら、どうしてこのポスターを選んだのか思い出せないでいる。鑑賞していない映画のポスター。お洒落でも奇抜でもないポスター。ただ端のに好みの女が写っているポスター。
鳥はどうして飛べるのか知っているかい? 僕たちに見えない糸で吊るされているのさ。
魚はどうして泳げるか知ってる? 見えないゼンマイ式なのさ。
僕はどうしてここにいる? 本当はここにいないかもしれないよ。
月が出たよ。月に着いたよ。月から帰ってきたよ。次はどこにいこうか。また月が出た?
野球にもバスケットボールにもルールがあるね。どうしてルールを破る人を見て興奮するのかな。選手同士が殴り合っている様がルールに則った試合よりも断然面白く感じてしまうんだ。おそらく僕は間違っているんだ。でも、そうなんだ。
女性客は店にあるパスタのメニューを一通り注文し終えた時に答えを聞こうと決めていた。しかしそうすると二度と店には行けないような気がした。それでも答えが欲しかった。
「どれも本当に美味しい料理でした。ありがとうございました」
ユキヒデはいつものようにモカブレンドと焼いたクッキーを食後に提供しようとテーブルに置いた時だった。女性客はテーブルの上にレシートの裏に書かれた文字を写したメモ帳を開いた。
「私はあなたのメッセージを楽しみに来ていました。もちろん料理も。それで私なりに色々と考えました」
ユキヒデは「あぁ」と声を漏らした。暇な時に時間を潰す一人遊びを覗かれていたのかと。
「恥ずかしいなぁ、特別な意味はなくて、思いついた情景や考えや雰囲気を書き出しただけだから気にしないでくれたら」
女性客はかぶりを振った。
「そんなはずはないでしょ。意味のないことなんてない」
女性客の語気が荒々しくてユキヒデは気後れしながら冷静に努めようとした。
「いや、本当に深い意味なんてなくて、というより意味なんてなくて、どう答えればいいか判りませんが」
女性客は怒りと困惑を混ぜたような表情でクッキーを齧った。カリッといい音をがした。今このタイミングでクッキーを食べるのか。ユキヒデは吹き出しそうになった。
「なんですか!」
女性客はユキヒデに裏切られて馬鹿にされたように感じた。出されたコーヒーとクッキーをとにかく早く処理して店を出ようと、そして二度と来ない、来れないと。
「なら、僕が書いた文字の意味をあなたが僕に教えてくれませんか?」
女性客はコーヒーカップを手放した。
「そんなの、おかしくないですか? 変ですよ」
「おかしいですね。変ですね、でも」
「はい、おかしいですよ。変ですよ」
「それでも、教えてくれませんか? あと、よければ、お名前も」
ユキヒデが自嘲して女性客がつられて笑った。
女性客はまた来ますと言った後に、カナですと名を残して店を出て行った。ユキヒデはカナが座っていた席に着いて伝票刺しに手を伸ばした。
青い空を眺めていたら急に白い大きな雲が現れた。洗濯物はまだ干したままだ。早く取り入れてしまわなければと思った。けれど白い雲から目が離せなくて、あとどれくらい大きくなるのか確かめたくなっていた。
アルデンテ至上主義だった私はベンコッティを知らない時代がありました。なんか恥ずかしいですね、そういうの。




