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博打の海、沈黙の総長

作者: 武田じろう

昭和十六年十一月。

海軍省の廊下は、冬の冷気が染み込んだように重かった。

軍令部総長・永野修身は机に広げられた書類に目を落としていた。

兵力比較表。艦艇数、航空機数、造船能力――。

どの数字を眺めても、結論は一つだった。


この国に長期戦の力はない。


米国の工業力は日本の十倍。石油備蓄は一年半から二年。

短期決戦で勝負をつけられなければ、敗北は目に見えている。

永野は深く息を吐き、椅子の背に身を預けた。


扉を叩く音がした。

「入れ」

現れたのは連合艦隊司令長官・山本五十六である。

海軍きっての人気者、博学で、そして奇襲戦術に長けた男。

彼は軽く笑みを浮かべながら、机の上の兵力表に視線を投げた。


「修身、数字ばかり睨んでいても勝てやしないよ。」

「五十六……。」永野は眉を寄せた。「君の真珠湾攻撃案、あまりに危うい。」


山本は煙草に火を点け、紫煙を吐き出した。

「危うい? 賭けだからこそ勝てることもある。半年で叩いて講和に持ち込む。それしか道はない。」


「国の命運を半年の賭けに乗せるのか。」

永野の問いに、山本は笑みを浮かべて応じた。

「そうだ。俺は博打好きだ。負けると分かっていても、賭けなきゃならん時がある。」


永野は言葉を失った。

彼は勝負を嫌う。だが、この男は勝負を信じる。

二人の性格の違いが、いまや国の行く末を左右しようとしていた。




数日後、大本営連絡会議。

陸軍参謀総長・杉山元が声を張り上げた。

「米英を相手取ること、もはや不可避! 南方作戦を急がねばならん。」


陸軍の机上作戦図は、東南アジアに赤い矢印を伸ばしていた。

永野は腕を組み、口を閉ざす。反論すれば「海軍は腰抜け」と糾弾されるだけ。

だが彼の胸の内は嵐のように荒れていた。


——戦えば必ず国は疲弊する。

——だが戦わねば、石油が尽き、屈服は避けられぬ。


「総長、意見は?」

視線が永野に集まる。

彼は静かに答えた。

「……戦力を温存しつつ、国力を持続させる策を講ずべきです。」

それ以上は言えなかった。


会議後、廊下で山本が永野の肩を叩いた。

「修身、腹を決めろ。賭け札はすでに配られてる。」

永野はただ頷くしかなかった。




十二月一日、御前会議。

昭和天皇の御前に、開戦の是非が問われた。

首相・東條英機、外相・東郷茂徳、陸軍と海軍の首脳が居並ぶ中、永野は海軍を代表して進言した。


「海軍としても、やむを得ざると存じます。」


その声は冷静だったが、内心では血の気が引いていた。

天皇の沈黙が長く続き、やがて静かに頷かれた。

これにより、開戦は正式に決定された。


会議を終え、永野は重い足取りで廊下を歩いた。

窓の外、冬空に沈む夕日が赤く燃えている。

——これで、数百万の命が賭場に差し出される。

彼の胸には、ただ冷たい予感が残っていた。




十二月八日未明。

真珠湾攻撃の成功が伝えられた。

軍令部の参謀たちは歓声を上げ、新聞は「大勝利」と踊った。

だが永野は机上の戦果報告を見つめ、低く呟いた。


「油槽所は残っている……これでは半年後、必ず立ち上がってくる。」


隣で山本が声を弾ませる。

「見たか修身、賭けは当たったぞ!」

永野は微笑みもせず、ただ答えた。

「……賭けは、当たった時こそ危うい。」


その言葉は誰の耳にも届かなかった。



外では万歳の声が響き渡っていた。

だが、永野の胸には冷たい沈黙が広がるばかりだった。

彼はすでに知っていた。

勝負師の賭け札が、やがて国を破滅へ導くことを。



昭和十七年六月。

梅雨の雨に煙る軍令部の窓から、永野修身は遠くの東京湾を眺めていた。

机上には、真珠湾以来の戦果報告、そして新たな作戦計画が積み重なっている。


——ミッドウェー。


米空母を誘い出し、一挙に殲滅する。

連合艦隊司令長官・山本五十六が立案した作戦は、またしても「賭け」だった。


永野はその危うさを誰よりも知っていた。

補給は逼迫し、搭乗員は疲弊している。

「この一戦で勝負を決する」——そう声高に叫ぶ幕僚の熱気に、彼は冷ややかな視線を向ける。


だが、歴史はまたしても彼を押し流していく。



軍令部の会議室。

山本は自信を隠そうともせず、机上の地図を指した。

「我が方は敵を欺き、一挙に叩く。勝機は必ずある。」


参謀たちは一斉にうなずいた。

だが永野は口を開かず、指先でペンを転がした。


「……勝機を掴めなければ、どうなる。」

彼の問いに、一瞬の沈黙が走る。

「その時は……」山本が笑みを浮かべる。「次の賭けだ。」


永野は深く目を閉じた。

——勝負師は常に次を信じる。

だが国に次の賭けなど存在しない。




六月五日、報告が届いた。

「ミッドウェー作戦、我が方空母四隻……全て喪失。」


参謀の声は震えていた。

永野は報告書を受け取り、戦死者の名簿を黙って見つめた。

そこには、真珠湾で勝利をもたらした精鋭搭乗員の名が赤く記されていた。


山本からの電文が届く。

《総長 不運 次を期す》


永野は机に置かれた電文を見下ろし、苦く笑った。

「……次など、もうない。」



その夜。

軍令部の廊下は静まり返り、雨音だけが響いていた。

永野は執務室に灯を点けたまま、戦況地図を広げる。


南太平洋、ガダルカナル。

ソロモン海、ニューギニア。

そこに赤く引かれた線は、もはや勝利への道ではなく、敗北への後退線だった。


勝てぬと知りながら戦い続けることは、破滅を意味する。

彼はそう悟っていた。


だが総長として、ただ「やめよ」とは言えない。

せめて被害を抑え、破滅だけは回避する。

それが自分の役目だ。


数日後、大本営連絡会議。

陸軍参謀総長・杉山元が声を荒げた。

「海軍は何をしている! これ以上の敗退は許されん!」


永野は冷静に返した。

「補給が尽きれば、兵は餓死し、艦は海に沈む。戦を続けることこそ破滅です。」


陸軍作戦部長・服部卓四郎が机を叩いた。

「弱腰だ! 士気を見よ!」

永野は一瞥し、淡々と告げた。

「士気では燃料は積めません。」


議論は決裂し、御前会議に持ち込まれた。

天皇陛下の前で永野は訴える。

「戦力を温存し、国を存続させるためには、撤退こそ必要です。」


静寂の後、天皇陛下は頷かれた。

ガダルカナル撤退。

勝ちは捨てても、破滅は避けられた。


夜の軍令部。

永野は机に突っ伏し、深く息を吐いた。

——勝負師は次を夢見る。

——だが、自分は次の敗北を見据えている。


この国の針路は、もはや破滅の坂道を転げ落ちている。

それでも、最後の一線だけは越えさせぬ。

そのために、自分は沈黙を続ける。


外では、雨音がなおも途切れず降り続いていた。



昭和十八年四月十八日。

軍令部総長室に、一本の電報が届いた。

「連合艦隊司令長官山本五十六大将、戦死。」


永野修身は、その報を無言で受け取った。

米軍が暗号を解読し、ブーゲンビル島上空で山本の搭乗機を待ち伏せしたのだ。

賭けに生きた男は、最後もまた賭場の真ん中で命を落とした。


机の上には、まだ山本から送られた電文が残っている。

《次を期す》

あの言葉は、もはや永遠に叶わぬものとなった。


永野は電文を握りつぶすように折り畳み、深く息を吐いた。

「五十六……お前の賭けは、ここで尽きたか。」



軍令部では、山本の死は「玉砕」を美化する宣伝に使われた。

新聞は「勇敢なる司令長官」と見出しを躍らせ、街には弔旗が並ぶ。

だが永野は冷ややかに眺めていた。


山本は確かに稀代の戦略家だった。

だが彼の勝負師としての気質は、国を大きな賭場へと導いた。

真珠湾も、ミッドウェーも、すべては彼の一手に始まっている。


「博打は勝てば英雄、負ければ愚者。だが国を賭けた勝負に、勝者など存在しない。」

永野は誰にともなく呟いた。



後任の連合艦隊司令長官には、古賀峯一が就いた。

彼は山本のようなカリスマ性を持たず、作戦は硬直し、現場の士気は徐々に落ちていった。


ガダルカナルを失い、ソロモン諸島でも劣勢が続く。

南太平洋の海図に引かれる赤い線は、後退を示すばかりだった。


会議で陸軍参謀総長・杉山元が苛立ちを露わにする。

「海軍は一体何をしている! 戦局を挽回する一大作戦はないのか!」


永野は冷ややかに答えた。

「兵も油も尽きつつあります。いま新たな大作戦を唱えることこそ、破滅です。」


その沈着な声に、陸軍の机を叩く音が重なった。

だが永野は動じない。

「破滅の一線を越えぬことこそ、軍令部の責務だ。」



山本の死から数か月後。

永野は一人、軍令部の廊下を歩いていた。

窓の外に広がる初夏の空は青く澄み渡っている。


かつて山本と肩を並べて議論した日々が脳裏に甦る。

「修身、賭けねば勝てん。勝てば道は拓ける。」

あの熱を帯びた声は、もう二度と響かない。


永野は立ち止まり、独り言のように呟いた。

「五十六……もしお前が生きていたら、この国の針路は違っていただろうか。」


答えはない。

だが永野は知っている。

国を破滅に導く流れは、すでに止められないことを。



その夜、机に広げた戦況図を見つめながら、永野は静かに筆を取った。

戦況報告の下に、小さく一行だけ書き添える。


「破滅回避こそ至上の任務」


山本は賭けて散った。

だが自分は賭けぬ。

沈黙をもって、最後の一線を守り続ける。


軍令部の窓の外では、夏の虫の声が鳴き始めていた。

その音に耳を澄ませながら、永野修身は静かに目を閉じた。



昭和十八年一月。

軍令部の廊下は、冬の冷気と敗戦の空気に満ちていた。

永野修身は机に広げた報告書をじっと見つめていた。


ガダルカナル島、補給線断絶。

現地の将兵は飢え、マラリアに倒れ、銃弾すら尽きていた。

「兵は戦わずして死んでゆく……。」

報告を読み上げた参謀の声は震えていた。


だが陸軍は撤退を認めようとしない。

「ここで退けば威信は地に落ちる」と言い張り、なおも持久を叫んでいた。


永野は拳を握り締めた。

威信など、飢えた兵の命に比べれば塵にすぎぬ。



大本営連絡会議。

陸軍参謀総長・杉山元が声を張り上げた。

「撤退は断じてならん! 玉砕こそ大義!」


服部卓四郎作戦部長も加勢する。

「海軍は弱腰すぎる。兵の士気を軽んじるな!」


永野は静かに口を開いた。

「……士気では、米艦は沈みません。」


会議室に沈黙が落ちた。

永野は冷ややかな目で、燃料消費量の表を示した。

「このまま続ければ、艦も兵も餓死し、全滅です。」


だが陸軍は聞こうとしない。

議論は紛糾し、ついに結論は御前会議に委ねられることとなった。



昭和十八年二月、御前会議。

天皇陛下の御前に、陸海軍の首脳が居並ぶ。

空気は凍り付いていた。


陸軍側は「持久」を訴え、海軍側は「撤退」を主張する。

そして、永野に発言の機会が与えられた。


彼は立ち上がり、静かに口を開く。

「補給は尽き、兵は病と飢えに倒れつつあります。

このまま戦えば、戦力は失われ、国は次の戦を戦う力をなくします。」


沈黙の中、永野はさらに言葉を重ねた。

「撤退は敗北ではありません。

戦力を温存することで、国を存続させる道が残されます。」


その声は震えていなかった。

だが彼の心は切り裂かれるような思いだった。

兵を見捨てることになる……それでも、生き残る者を増やさねば国が滅ぶ。



長い沈黙の後、静かに頷かれた。

「……撤退、やむを得ず。」


決断は下された。

ガダルカナル撤退。


会議を終えた永野は、深く頭を垂れた。

重圧が少しだけ肩から降りる。

だが心は晴れなかった。


数週間後。

「ガ島撤退、完了」の報が届いた。

生き残った将兵は骨と皮ばかりだった。

だが彼らは帰還した。

破滅は、ひとまず回避されたのだ。


参謀が「総長のご英断です」と頭を下げる。

永野はかすかに首を振った。

「英断ではない。……ただの、敗北の先送りだ。」


窓の外には、まだ冬の冷たい陽光が差し込んでいる。

永野はその光を黙って見つめていた。

——この国を守るとは、ただ破滅を遅らせることなのか。


答えは、誰も知らなかった。



昭和二十年六月。

東京は廃墟と化し、軍令部の窓から見えるのは黒焦げの街並みだった。

永野は焼け跡に漂う煙を眺めながら、机に積まれた報告書に目を落とした。


「硫黄島陥落」「沖縄失陥」

文字が血のように赤く目に焼き付く。


石油は底を突き、艦艇は海に沈み、航空機は訓練不足の若者が片道攻撃に出されていた。

これ以上戦を続ければ、国は灰になる。

永野はそのことを誰よりも知っていた。



大本営会議。

陸軍参謀総長・梅津美治郎が声を張る。

「本土決戦こそ最後の一戦。国体を護るため、全力を尽くすべし!」


陸軍の机上には「決号作戦」の図が広げられていた。

国民を総動員し、竹槍まで持たせて戦わせるという。


永野は目を閉じ、低く呟いた。

「……それは、国を滅ぼす作戦です。」


陸軍参謀が怒鳴る。

「総長! 貴殿は降伏を唱えるのか!」

永野は静かに答えた。

「私は、国の破滅を避ける策を唱えている。」


七月。

広島に原子爆弾が投下された。

街は一瞬で壊滅し、数万の命が消えた。


続いて長崎。

そして、ソ連の参戦。


軍令部に駆け込んできた参謀が叫んだ。

「総長! これでは……!」

永野は机を叩いた。

「だから言ったではないか! 本土決戦など、夢物語だ!」



八月十日、御前会議。

天皇陛下の御前に、最後の決断が問われた。

陸軍はなおも徹底抗戦を唱え、海軍も一部がそれに同調する。


沈黙の中、永野に視線が集まる。

彼は立ち上がり、静かに言葉を紡いだ。


「……すでに国力は尽きました。

続ければ、この国は灰燼に帰します。

未来に残すものは、破滅ではなく、存続でなければなりません。」


その声は震えていなかった。

沈黙の後、天子様が静かに口を開かれた。

「……耐え難きを耐え、忍び難きを忍ばねばならぬ。」


その瞬間、永野は深く頭を垂れた。

——破滅は避けられた。



八月十五日。

玉音放送が流れ、戦争は終わった。


永野は軍令部の執務室でひとり、机に突っ伏していた。

外では敗戦を知った国民のすすり泣きが聞こえる。


だが彼の胸には、わずかな安堵があった。

国は灰にならなかった。

子らの未来は、かろうじて繋がれた。


「……破滅だけは、回避できた。」


永野は深く目を閉じた。

その沈黙は、敗者の嘆きではなく、国を生かすために背負った男の重さであった。



「勝負師・山本」と「沈黙の総長・永野」の対比を通じて、

日本の戦争指導がいかに「賭け」と「破滅回避」のせめぎ合い」であったかを短編にしました。


永野修身は派手さも英雄的な武勇伝もありません。

しかし「破滅を遅らせた男」という陰影こそが、後世に残すべき彼の姿だと考えています

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