経緯
「あのとき。マリアーノ様は北の離れ近くの湖のほとりでヴァイオリンを奏でておられました」
マリアーノは芸術においてあらゆる才能があり、その一つが楽器を奏でる事だった。
次期当主だが彼が不用意に見知らぬ人と関わると、また『事故』が起きてしまう。
故に重要書類の署名以外に仕事はなく、余暇は好きに過ごしている。
本宅の敷地は広大で小規模な湖も擁しており、水辺で過ごすことが好きなマリアーノのために機能性も警備も最高級の屋敷を父が建てた。
クエスタ家にとってマリアーノは規格外の美獣のようなものだ。
焚火に飛び込む蛾のように、人が勝手に魅了されてしまうだけで本人に罪はない。
止めようのないこと。
ヴァレンシアを抱きしめ愛を誓った翌日にマリアーノに跪いた男は、残念ながらソシモだけではない。
仕事の一切を代行し、時には父と魔獣討伐や領地戦に駆り出され多忙な日々を送るヴァレンシア自身、マリアーノを恨んだことはなく、そういう家に生まれたのだからと受け止めている。
「それで」
ヴァレンシアが平然と先を促すと、ソシモは声を絞り出した。
「…突然、はるか上空から鳥の羽ばたきが聞こえました。尋常じゃない音で我々はすぐにマリアーノ様をお守りする陣を敷いたのですが…」
太陽は澄み切った青い空をまだ昇りきれていない、そんな時間だったのを記憶している。
美貌の嫡男は湖面に向かって優雅にヴァイオリンを構え、切ない旋律の恋歌を巧みに弾き、それは北の峰々へも響き渡った。
あと少しで曲が終わる。
そんな時だった。
騎士たちが異変に気付いたのは。
「人獣だったと、手紙にあったな。火の鳥のようだったとも」
「はい。全部で五人…そのうち一人は鳥族ではなかったのか、人の姿で仲間の背に乗っていました」
それらが急降下すると同時にソシモをはじめとして十人近くいた騎士たちに強い魔術をかけた。
捕縛、固定の魔法。
全員マリアーノに手の届かない位置へ飛ばされ、腹ばいの状態で地面に縫い付けられた。
様々な種と色の鳥たちがゆったりと優雅に舞い降りて、地に足が触れた途端、すうっと人の姿へと変わっていった。
マリアーノは弓を弦に当てたままの姿勢で彼らをじっと見つめた。
「やっと…見つけた」
人獣たちの中でもひときわ目立つ姿の男が迷うことなくマリアーノへ近づく。
ルビーのように赤い髪をなびかせ、あっという間に距離を詰めた男がマリアーノの両手首を取ると、まるで操られるかのように彼は足元の草原に楽器を下ろした。
「私の、番」
言うなり、男はマリアーノに口づけた。
最初あっけにとられていたマリアーノがやがて抵抗し、少し身体が離れた瞬間に男の頬を張る。
「ふ…。可愛いな」
殴られて傷ついたのか、男の形の唇から血が滴った。
男は自らの唇に親指をあてて拭い、それをマリアーノの下唇に差し込んだ。
「………っ!」
怒りで頬を染め、更に殴ろうと振り上げた手は難なくかわされ、細身の身体は鍛えられた両腕の中に閉じ込められた。
「さあ、始めようか。私たちの営みを」
護衛騎士たちは指一本動かせない。
ただ、腹ばいになったまま主が紅い鳥の男に飲み込まれて行くのを歯を食いしばって見つめるしかなかった。
「―――――」
草原に、マリアーノの高い悲鳴が響き渡る。
そして。
気が付くと、あたりは夕陽に染められていた。
男はぐったりと眠っているマリアーノの身体を紅い布で包んで両腕に抱き、愛し気に何度も口づけを落とす。
「この男は私の番だ。我が国に連れて帰る。妃として愛しむゆえ、何も心配はいらぬと親へ告げるが良い」
そう言いおくと、男たちは紅い靄の中に消えた。
そして。
ソシモ達護衛騎士たちの呪縛は解け、ぼうぜんと座り込むだけだった。