春宵一刻値千金
春の夜はゆるゆると更け、時おり舞い散る桜の花びらだけが時間の流れを表していた。雪花がぼんやりとそれを眺めているところへ、龍が歩み寄ってくる。
「起きたか、雪花。さっきまで客が来てたんだがな」
「客? わたしに?」
「おう、オマエに助けられたって嬢ちゃんたちだ。礼を伝えといてくれとさ」
雪花が暴走するきっかけとなった、揉め事に巻き込まれていた少女たちだ。助けた時に、龍神に仕えていると告げた雪花の言葉を覚えていて、わざわざ社まで出向いたらしい。姿を現さなかった龍に対しても、丁寧に挨拶をしていったという。律儀なことだ。
「にしても、意外だな」
龍は紅華の隣に腰を下ろし、桜の幹に背を預けた。
「主様の御前での勝手を許す訳にはいかないもの。あの子たちを助けるために動いたつもりじゃないのよ」
「ソッチじゃねェ。アイツら、あの村の末裔だったろ。結果的にしろ、助けて良かったのか?」
紺青色の瞳が、まっすぐに雪花を射貫く。龍は言外に、もうあの村の者たちを憎んではいないのかと問うているのだ。
「一番憎かった相手はもうこの世にいないし、あの日のことは、おとぎ話と呼ばれるくらい昔の話になったんだもの。今を生きるあの子たちに罪はないでしょう」
「オマエがそう思うならソレでいい。オマエからその言葉を聞けるまで待ってた甲斐があるってモンだ」
龍はどこか嬉しそうに、雪花の真っ白な髪をわしわしとかき回す。その仕草も強すぎない力加減も、人間である雪花のために龍神が覚えてくれたものだ。
「あの日のことは忘れないし、許せないけど。いつまでも引きずるのは、終わりにしようかなって」
「ああ。せっかく永らえたんだ、怨みだけに時間を割いてねェで色々と経験しとけ。明日は濡羽と出掛けるんだろ?」
「そうなの! 師匠がね、現代の女の子が着るような服買ってくれるって」
ぱっと雪花の表情が華やぐ。時おりだが、こんな年相応の笑顔も見せるのだ。
「でも、どうしよう主様。わたし、まだこの手の力加減できてないのに」
雪花が視線を落とせば、紺青色の鱗に覆われた手は月光にきらきらと輝く。水面のように綺麗な鱗は、川の主たる龍の加護がある証だ。
明日は濡羽が目くらましの術をかけてくれることになっていて、異形の手が目立ちはしないだろうが、脆いものに触れれば壊してしまうかもしれない。
「封じるのが手っ取り早いが、ソレはあまり得策とは言えねェな。だが今のオマエなら制御くらいできるはずだ。オレも手伝ってやるから、試してみろ」
こくりとうなずいた雪花の手を、龍が取る。
怨霊と化した時、村長の息子を絞め殺したせいで最も瘴気に穢れたのが両腕だった。人間のままの雪花の身体はそれに耐えきれず、壊れるはずだったところを龍の鱗によってまぬがれた。
「オマエはオレの眷属で、コレはオレが与えた力なんだから、使いこなせない道理はねェ。オマエ自身のモンでもあるってコトを意識しろ」
人の姿をとっていても、雪花に触れる龍の温度は水と同じだ。彼の本質は川で、雪花を護るのは流水による浄化の力。
流水に浸した手から、瘴気と共に鱗が流れていく。それを想像すれば、雪花の手は人らしい形になっていた。紺青色はわずかに残る程度だ。だが龍の力が確かにそこに在ることは感じる。
「うまくいったの?」
「ああ、上出来だ。これなら明日も問題ねェだろ。楽しんでこいよ」
「うんっ」
*
空が柔らかな黄昏の色彩を帯びる頃、神域に戻ってきたふたりの気配を感じた龍は社を出た。夜からの神事のための準備を手伝ってくれていた紅華も後からついてくる。
「龍神殿、ただいま戻りました。……ほら雪花、君も隠れてないで出ておいで」
烏天狗にうながされ、鳥居の影からおずおずと顔を覗かせた雪花が龍たちの元へやって来る。
彼女の白髪によく似合う淡い色のワンピースは、胸元に桜の刺繍が施されている。リボンやフリルが愛らしく、大人と子供のはざまである繊細な年頃の雪花の魅力を引き立てていた。
「主様、紅華さん、どう? 師匠はかわいいって言うけど、わたしこういう服初めてだし……」
「見慣れた和服も良いが、洋装も似合うじゃねェか。なァ、紅華」
「ええ。あまりにかわいらしくて、見惚れてしまいました」
まっすぐな褒め言葉に、雪花は安堵の笑みを浮かべて頬を染めた。
「精霊殿。女の子が新しく服を買ったのだから、それを着てどこかに出掛けようと誘うのが礼儀だよ」
「そう……なのですか? 濡羽さんは物知りですね」
雪花の元へ歩み寄った紅華は、彼女の手をとって視線を合わせる。心なしか、いつもより距離が近い。
「あなたもご存知の通り、僕はあの樹からあまり離れることはできません。ですから、桜祭りを一緒に回るというのはどうでしょう?」
「せっかくの紅華さんのお誘いだもの。もちろん、喜んで」
今までであれば照れて口ごもっていただろう雪花も、嬉しそうに誘いを受ける。
「龍神殿、あのふたりは何かあったんですか? いえ、確かにいつも通りではあるのですが、いつもとは何か変わっていますよね?」
「さァな。だが、言ったろ? 関係の名が何だろうが、アイツらはアイツらだって」
「そうでしたね。龍神殿は昔から、ご自身の眷属のことをよくわかっておられる」
「当然だろ。大事な眷属たちのコトすらわかってやれねェで、何が主だ」
あの日のことを後悔しているのは、龍も同じだ。雪花が追い詰められているのに気づき、もっと早く自分が割り入っていれば、彼女を怨霊にせずに済んだ。けれど。
「主様、お土産があるの。師匠とわたしで選んだのよ」
「たまには酒宴ではなく、お茶会にしませんか?」
そんな出来事さえ乗り越え、穏やかな笑顔を取り戻した雪花の強さも、ずっとそばで彼女を支え続けた紅華の献身も、龍は尊く思うのだ。
暗い水面に、月光を纏ったかのような桜の花びらがひらひらと舞い落ちて、水と共に流れゆく。
「春宵一刻値千金、か。本当に良い夜だなァ」