君に桜を、水底に花を
薄暗い宵闇の中を、雪花は歩いていた。村へ至る道には、ぽつぽつと血が落ちた跡がある。朧月に照らされるそれをたどって闇を往く。
村唯一の診療所に行き着いたところで、ちょうどそこから誰かが出てきた。あの司令塔の青年だ。彼は軽傷だったため、簡単な手当てだけを受けどこかへと向かうようだ。
ぼんやりと月明かりがあるとはいえ、灯りを持たず忍ぶように行動しているのは怪しい。雪花は距離を空けて後を追うが、隠さなくとも足音はない。身体を持たない霊になったのだと実感する。
青年を尾行していくと、やがて大きな屋敷が見えてきた。彼は立派な門扉はくぐらず、裏口から入り込んだ。物音をたてないように長い廊下を移動し、明かりの漏れるとある一室の襖をこっそりと開ける。ほんのり酒の香りが漂ってきた。
「お前か。首尾はどうだったよ」
びくりと、ないはずの身体が強張った気がした。幼い頃から少し変わりはしたが、この声は雪花をいじめていた筆頭である村長の息子の声だ。屋敷を見た時から薄々あった、嫌な予感が当たってしまったようだ。
青年が襲撃の報告に来たということは、黒幕は村長の息子で間違いないだろう。あの青年は、昔から村長の息子の腰巾着だった。今でもその関係は続いているのだろう。
「返り討ちに遭った。全員が大なり小なり負傷している。社に住み着いていたのは、あのシロだ」
「やっぱりなぁ」
「わかっていたのか? あいつは八年も前に行方不明になったのに」
「お前には言ってなかったが、社のそばで見た人影は白髪の少女だったって証言する奴がいくらかいたんだよ。そんなの、シロしかいないだろぉ?」
言葉の端々に、じっとりとした執着心が滲む。彼はあの頃から、執拗に雪花に絡んできたものだ。
当時の記憶がよみがえり、雪花は動けなくなる。
「で? お前らは小娘一人にしてやられて、のこのこ帰ってきたのか?」
「違う、龍が出たからだ。水を操る、本物の。立ち去らなければ加護をなくすと脅されれば、従うしかないだろう。あの川は文字通り村の生命線なんだから」
川を氾濫させるのも流れを止めるのも、龍にとっては身体を動かすよりもたやすい。それゆえかつての村人たちは、龍を祀ったのだ。
「シロは、神隠しにでも遭ったのかもな。だからあんな、化け物じみた強さを身につけていたんだ」
「そのシロは? ちゃんと捕らえたんだろうなぁ?」
ふと、雪花は違和感を覚える。青年は追い出せという指示を受けた、と言っていたはずだ。なぜ捕らえたかなどと聞くのだろう。
「シロは……。俺が、殺した」
「殺したって、何やってんだ! たかが女一人、どうして捕まえられないんだよ!」
「そうでもしなきゃ、俺たちの方が殺されていた! だいたい、お前だってあいつを嫌っていただろう。昔いじめていたんだから」
「はあ? おれはあいつをいじめてなんかないだろ。可愛がってたんだよ、わかんねぇか?」
襖の向こうが一瞬沈黙に包まれる。あの頃の雪花は、このままでは殺されるとすら思っていた。子供の暴力は無邪気で、それゆえに残酷だった。
呆気にとられたのは、青年も同じだったらしい。それに気づかないのか、村長の息子は言葉を続ける。
「近々見合いの予定があってな。噂の正体が本当にシロだったら、その前に妾として囲ってやろうと思ったんだよ。おれはあいつを気に入ってるからなぁ」
「それと社を壊すことと、何の関係があるんだ」
「住む所がなくなれば、あいつはおれに頼るしかないだろぉ? おれは幼馴染みで、次期村長なんだぜ?」
雪花への執着と尊大な自意識で、どこまでも自分に都合良く考えているらしい。歪んだ感情がねっとり絡みついてくるようで気持ちが悪い。何よりも、憤怒がじわじわと雪花の心を染めていく。
「皆、もし野盗だったら危険だから、村を守るためにと立ち上がったんだ。そんなことのために、これ以上命を張る理由はない!」
「そうね。そんなことのために主様の社を壊そうとして、あの桜の樹を危険にさらしたなんて、絶対に許せない」
閉ざされていた襖をすり抜け、音もなく室内に姿を現した雪花に、二人の青年は腰を抜かした。胸元が血に汚れた最期の姿のままで、彼女が死んでいることは明白だ。
「し、シロ……」
「わたしには、わたしの名前を呼んでくれるひとがいるの。あんたなんかの玩具にはならない……っ」
雪花は、動けずにいる村長の息子の首に手をかける。酸素を取り込もうと繰り返される無意味な呼吸が浅ましい。どくどくと主張を強くしていく拍動が煩わしい。
止まってしまえばいいのに。男の喉を締め上げる両手に、雪花はさらに力を込める。彼女を振り払おうと暴れる身体も、体術の心得もある雪花は性差があろうがたやすく押さえ込む。
しばらくそうしていると、男は事切れた。むなしい抵抗を続けていた手足が、だらりと弛緩する。
もう一人の青年は逃げ出していた。だがそれはどうでもいい。雪花が成し遂げたかった復讐は社を襲われたことに対するもので、自分が殺されたのはさして重要なことではない。
それから雨の降りだした夜をあてもなく歩いているうちに、気づけば龍神の社の前に戻ってきていた。
「龍神殿の言った通りだ。本当に帰ってきたね」
「師匠……」
「龍神殿も精霊殿も君を待ってるよ。さあ、行こう」
伸べられた手に、雪花はふるふると首を振る。
「師匠、わたし帰れないよ。こんなに汚れちゃったし、最後まで戦えなくて主様の手を煩わせたもの。わたしがやらなきゃいけなかったのに」
「けれど君は、ここに戻ってきた。それが答えじゃないかい?」
その通りだ。彷徨いながらもここに足が向いていた。雪花が帰りたいと思う場所は、ここだけなのだから。
濡羽はあっさりと雪花を言い負かしてしまう。彼女に手を引かれるまま、おずおずと雪花は歩き出す。
「それに、状況なら聞いたよ。卑怯な手を使ったのは向こうなんだろう? あの数相手に、よく戦ったじゃないか」
「いつもは厳しいのに、こんな時だけ褒めてくれるのはずるいよ」
「だって私は、君が強くなろうとした理由を知っているからね。一歩も退かず、立ち向かったそうだね。ちゃんと目的を達成して、師匠として誇らしいよ」
初めて、ここにいたいと思える居場所ができた。もしいつか、かつていじめてきた者たちと対峙する時が来ても、今度こそ逃げずに戦える自分になりたい。濡羽に教えを乞うた時、雪花はそう言った。
「わたしに守ることを教えてくれたのは、みんなだから。だから今度は、わたしが守りたかったの」
「ソレでオマエが死んだら、何も意味ねェだろ。この、バカ娘」
「主様……」
気づけば鳥居を通り過ぎ、龍の神域に入っていたようだ。水底のような紺の瞳が、怒りにも似た感情をたたえて雪花に向けられていた。足を止めた雪花に構わず歩み寄ってきた龍は、強く彼女を抱きしめる。
「だが、よくやった。おかえり、雪花」
シロと呼ばれ、蔑まれていた少女が初めて龍からもらったのが雪花という名前だった。その名を呼ぶ声が、雪花を無力だった子供から、龍神に仕える今の自分へと引き戻してくれた。
龍に包み込まれると、清廉な水の匂いがする。馴染みあるその香りに、雪花は安心感を覚える。そして冷静さを取り戻してようやく気づいた。そこに血の匂いが混ざっていることに。
「主様、その怪我……」
「こんなモン、すぐ治る。オマエの方が深手だったんだからな。いくらココが大事だからって、無茶し過ぎ……」
「違うの主様! 全部わたしのせいで、わたしが、ここにいたせいで……っ」
半ば叫ぶように龍の言葉をさえぎり、雪花は泣き崩れる。そんな彼女を抱き上げ、龍は社へ戻る。雪花が幼かった頃から、泣き出した彼女をなだめるのは紅華の方が上手かった。
「主様? 雪花が帰ってきたのですか?」
「まァな。けど、話はコイツが落ち着いてからだな」
その後、時おり声を詰まらせながらも、雪花は村で見聞きしたことを話し終えた。自分が原因で龍の社や紅華の樹を危険にさらしてしまった罪悪感は、最後まで戦えなかった後悔よりも重い。
「それは、雪花が気に病むことではないですよ」
「だな。にしてもあのガキ、何様だ。雪花はもうとっくにオレのモンだってのに、愛人なんかにしようとは生意気な」
「社の襲撃もそいつの差し金ですし、龍神殿への不敬ってことで私が始末しておきましょうか」
濡羽の黒い翼に、不穏な風の気配が宿る。不機嫌さを隠しもせず尾の先端で床を叩く龍はもちろん、荒事を好まずいつもならばふたりを止めたであろう紅華でさえ、異論はないようだった。
「それはもうわたしがしたから、大丈夫。師匠にまで面倒かけられないよ」
人ならざるモノたちに育てられた雪花の価値観は、人のそれよりも人外に近い。敵と見なした相手の命を奪うことに対し、躊躇いはなかった。
けれど、代償はある。黒く汚れた両手は、瘴気を纏っている。怨霊にとっては力の源だが、龍神の領域であるこの場では穢れでしかない。神域に満ちる龍の浄化の力と反発し合い、じくじくと痛む。
龍がその手を掴み、雪花の目を見据えた。
「なァ、雪花。オマエはどうしたい?」
「え?」
「怨霊としてココに居続ければ、その怨みと痛みをずっと抱えたままになるぞ」
龍や紅華のいない場所になど意味がない。雪花にはここしかなく、他を選ぶ気はない。それは彼もわかっているのだろう。
「オマエが望むなら……、オレがこの手で解放してやる」
表情だけは平静を保っている龍だが、声がわずかに震え、紺青の瞳は波立つ水面のように揺れている。
龍には浄化の権能がある。流れる水には、悪しきものを清める力があると信じられているからだ。川の化身たる龍神の浄化の力を以てすれば、雪花のような弱い怨霊程度はたやすく祓ってしまえるだろう。
「本当にオマエが大切なら、そんな苦痛なんか与えず、終わらせてやるべきなんだろうな。だがオレは、オマエを失くさずに済んで良かったと、まだ共に居て欲しいと……そう、思うんだよ」
「主様……」
「オマエは人間だから。雪が溶けたり花が散るように、瞬きの間に消えるコトなんか知ってたはずなのにな。そんなの忘れるくらい、オマエが愛おしかった」
血が繋がらないどころか、種族すら違う雪花を龍たちは愛してくれた。家族にしてくれた。村の子供たちからいじめられていた雪花が、自分を嫌わずに済んだのは、その愛情のおかげだ。
「わたし、主様の眷属としての役目だって果たせてないし、恩返しだって全然できてないのに……。まだここに、主様たちのそばに、居てもいいの?」
「当然だろ。……辛くなったらいつでも言えよ、オマエを怨霊にした責任はオレにもある。眷属も守りきれねェ情けない主で悪ィ」
「ううん。その分、わたしが強くなるから。だから主様、今度こそわたしを主様のものにして」
いつか雪花が人の世に帰りたくなった時のためにと、龍は彼女を完全には神隠しせずにいた。雪花がいくら本当の眷属にしてほしいと乞おうとも、仮の契約しか結ばなかった。
「先を越されてしまいましたね、龍神殿」
「僕も、雪花のその選択を嬉しく思いますよ」
「うるせェぞ、オマエら。雪花、コレを取り込めばオマエはオレの眷属だ」
差し出されたのは、小さな紺青色の鱗だ。龍神の力と眷属の契約が込められたそれを、雪花はそっと口に含む。途端に水になって溶け、じわじわと龍の力が身体に染み渡っていくのを感じた。
だが相反する力は反発し合い、引き裂かれるような痛みで意識が遠のく。ぐらりと崩れ落ちかけた雪花を、龍が受け止めた。
「これだけの騒ぎが起きれば、村人共もオマエを祀るはずだ。そうすれば怨霊としての性質より、オレに属する存在としての性質の方が強くなる。それまでは耐えてくれ」
怨霊の祟りは古来から人々に恐れられ、それを避けるために手厚く祀られる。
社を襲撃した黒幕である村長の息子を殺し、過去の恨みもある雪花は、村人たちからすれば復讐として村全体を祟ってもおかしくないと思われているだろう。
「あまり龍神殿の力を、一度に取り込むのもよくないよ。君自身が消滅しかねないからね」
「概念が認知されて、存在が安定するにも時間がかかるからなァ。だからしばらくは眠っていろ、雪花」
桜の樹の根元は溜め池のようになっていて、流れが穏やかだ。雪花が来るまで、龍が寝床にしていた場所でもある。
そこで眠りにつく間、ゆっくりと時間をかけて雪花の身体や存在を龍の力に馴染ませるという。
「や……っ、怖い……」
既に一度死んだのに、沈められることへの恐怖感に震える。穢れにまみれたままの手で、龍にしがみついてしまう。
「大丈夫ですよ、雪花。僕は戦えませんが、あなたの眠りを守ることはできます」
「紅華、さん……」
優しい手がそっと雪花の瞼を覆う。かすかに甘い桜の香が、ゆるゆるとした眠気を連れてくる。
「主様、よろしいでしょうか」
「オマエなら、怨みを吸い上げて昇華させるコトもできるか。オレの浄化より、雪花には良いかもな」
受け渡された雪花を抱く紅華の手つきに、繊細な花束にでもなったようだと雪花は思う。彼が一歩ずつ踏み出すごとに水に浸っていくのも、もう恐ろしさは感じない。
水の流れはゆりかごにも似て、包み込む重みは微睡みのようで。
「おやすみなさい、雪花。良い夢を」
その声に身を委ねて、雪花は深い眠りに落ちた。
*
月光を宿した桜が、闇夜の中で輝いている。
暴走した後には、必ず怨霊になった時の夢を見る。戦い抜けなかった自分の無力さ、あの男の執着を嫌でも突きつけられる寝覚めは最悪だ。
「目が、覚めましたか?」
「紅華さん……」
けれど、一番に目にするのが彼だというだけで雪花は安心できる。瘴気の残滓も紅華がすぐに祓ってくれて、気分の悪さも和らいだ。
「わたし、どれくらい寝てたの?」
「数時間ほどです。主様は、これだけ短くなったのならもう大丈夫だろうと」
「でも、ついててくれたのね」
紅華がぎゅっと、雪花を抱く腕に力を込める。近づいた距離に彼の表情が見えなくなるが、首筋に触れた吐息が安堵によるものだということくらいはわかる。
「あなたの身体が冷たくなっていると、あの時を思い出して……。情けないですね、僕はあなたの兄眷属なのに」
「違う、紅華さんは優しいのよ。そう、優しいから……わたしが死んだことに責任を感じて、そばにいてくれてるんだって思ってたの」
知らなかったのだ。雪花が目覚めないというだけで、こんなにも不安に思わせていただなんて。
「それが全くないと言えば、嘘になってしまいますね。主様が言ったように、あの出来事によってあなたが今まで永らえているのは事実です。けれど僕が何より怖いのは、あなたをまた失くしてしまうことなのです」
「だから、紅華さんの生命の力をずっと分けててくれたの?」
怨霊となった雪花の身体が生きていた頃と同じように動き、暖かいのは、紅華が力を分け与えていたからだ。雪花の瞳が桜色に染まったのはその証である。
だが既に死んだ雪花と命を共有すれば、その分紅華の寿命が縮んでしまう。
「そんなもの、何も惜しくはないんです。僕にとって雪花は大切な人です、愛しているんです。今までもこれからもずっと」
消せない怨みの記憶に囚われ、大切なことが見えなくなっていた。幼い雪花が龍の社にやって来たあの日から長い時間が経った今までずっと、彼は雪花を守り続け、愛してくれていたのに。それを、解っていたはずなのに。
「雪花、どうしたんですか? やはりまだ辛いのですか?」
声もなく涙をこぼした雪花の頬を、紅華はそっと袖で拭ってくれる。穏やかに問いかけてくる声音が心地よい。
「ううん、なんでもないの……。やっと目が覚めたような、そんな気がするだけ」
「そうですか」
「でも、もう少しこうしててほしいかも」
もう少し、このまま。優しく暖かい紅華の腕の中にいたい。彼の体温は日だまりの春で、淡く花の香を纏っている。雪花の大好きな、彼女だけの居場所だ。