春に目覚める花の色
はらり。ひとひらの花びらがそっと水面を揺らし、小さな波紋を描く。
そのわずかな振動を感じ取り、水底にわだかまっていた紺青色の闇がゆっくり動き出した。差し込む昼下がりの光にきらきらと輝く鱗を持ち、しなやかに泳いでいくのは一柱の龍神だ。
川岸に降り立つと真っ先に目に入るのは、滝壺のそばに佇む桜の巨木だ。今が花の盛りのようで、枝が見えないほどに薄紅色が咲き誇っている。
動きやすいよう人の姿をとり、龍は樹に歩み寄った。そこでは根に抱かれるようにして、桜色の長髪を緩く三つ編みにした和装の青年と、彼の胸元に寄りかかって眠る少女がいる。
と、龍の気配に気づいた青年が顔を上げた。
「主様、おはようございます」
「おう。で、ソッチはどうだよ」
問いかけながら、龍はふたりの前にしゃがむ。規則正しい寝息をたて、穏やかに眠る少女を抱え直し、青年は愛おしげな視線を落とす。
「彼女もじき、目覚めるかと。もう花も咲く季節ですから」
「そんな悠長に待ってられっかよ。早くしないと花が散るじゃねェか」
「主様は花見がお好きですものね」
「ソレは否定しねェが、あのハレの気はコイツにこそ必要なモンだろ」
「そう、ですね」
複雑な表情で、青年は少女の頭を撫でた。新雪を思わせる、孤高で純粋な真白の髪は、青年のたおやかな指からさらりと流れる。
少女の睫毛がふるりと揺れ、目を覚ました。桜色の瞳を何度か瞬かせ、龍と青年をぼんやりと見遣る。
「主様、紅華さん……」
「おはようございます。よい夢は見れましたか?」
「よォ、寝坊助。主を待たせるとはイイ身分だなァ、オイ」
「春宵一刻値千金と言うではないですか。雪花が心地よく眠れていたのなら、それが何よりです」
言葉ほど怒っていない龍と、それをわかっていて軽く宥める青年――紅華の掛け合いを聞くともなしに聞くうちに、徐々に意識がはっきりしてきた。
満開の桜が、雪花の目に映る。今は花見をこよなく愛する龍神が、一年で一番の楽しみにしている桜祭りの季節だ。また、桜を見にやって来る人々の信仰心とハレの気を受け取れるいい時期らしい。
「今年も、紅華さんの花は綺麗ね」
「だろ? 明日には神事があるから、今日のうちにオマエらと花見したくてな」
「では雪花も目覚めたことですし、準備を始めましょうか」
ずっと紅華が抱えていてくれたらしい。彼の膝から、雪花は立ち上がる。ほんの少し冬の気配を残した空気の中、ぬくもりから離れるのは名残惜しい。
花見を賑やかに楽しみたい龍に起こされるこの時期以外、雪花は眠り続けている。その間、桜の樹の精である紅華が、彼女の身体を守ってくれているのだ。もうずっと、彼の桜色で瞳が染まってしまうほどに。
桜の樹の陰がかかる社に、蓙を取りに行く。滝の飛沫がここまで飛んで、床や外壁に花びらを貼り付かせていた。
いつ見ても変わらない。雪花にとって、かつて龍たちと暮らした大切な場所だ。
「あ……」
物思いに耽っていた雪花は、はっとして手を離す。また力加減を誤ってしまったらしい。壁に爪痕がついていた。起きていられるうちに、手入れをしておかなければ。
この手はもう、人のものではない。雪花の胸元や、身体のところどころは紺青色をした龍神の鱗に覆われている。中でも両腕の肘から先は、かろうじて人の形は残しているが鋭い爪も生え、まさしく龍だ。
「雪花、どうした?」
「ごめんなさい、主様。社に傷をつけちゃった……」
「気にすんな。そんなモン、後で直しときゃあいい」
「ん……」
うつむいた彼女の髪を、龍はくしゃくしゃとかき回す。肩までしかない髪は少女にしては短いが、その綺麗な白は昔から彼のお気に入りだ。
「オマエがいなきゃ、あの時壊されてたんだからよ」
本来ならば、雪花もあの日命を落としていたはずだった。こうして永らえているのは、龍と紅華のおかげだ。いつだって助けてくれたのは、このふたりだけ。雪花は、その恩を返したに過ぎない。
「ホラ、早く行くぞ」
「うん、主様」
子供のように手を引かれ、鳥居をくぐる。龍の神域から、人の暮らす現世へと境を越える。
人々に交じっての花見がしたいのだという。周囲の賑やかな雰囲気こそハレの気であり、醍醐味なのだと彼は熱弁する。
花見客が多く訪れる中でも、人ではない存在である龍たちの姿は、人の目には映らない。先に待っていた紅華の書生服姿も、龍の頭にある長い角も騒ぎ立てられることはない。人目を引く自身の白髪でさえ後ろ指を指されないことを、雪花はいつも奇妙に思うのだった。
「雪花。こちらは肌寒いようですから、これを」
ふわりと肩に掛けられたのは、夜を思わせる深い紫に薄紅色の桜が映える羽織だった。
「ありがとう、紅華さん」
「精霊殿は相変わらず、我が弟子には過保護だね」
声と共に、黒い翼を持つあやかしが舞い降りた。裏の山に縄張りのある烏天狗一派のひとりだ。
天狗は武術に秀でており、彼女もまた棒術を得意とする。雪花に戦う術を教えてくれた師匠であり、姉のように慕う相手でもある。
「彼女は可愛い妹のようなものですから。これくらいは当然でしょう?」
「……本当に、相変わらずだね」
ちらりと雪花を一瞥してから、烏天狗は呆れたとばかりに首を振る。
「おっと、忘れるところだった。龍神殿、ご所望の品です」
「今年のも、なかなかイイ酒だなァ。濡羽、オマエも一杯付き合えよ」
「では、ご相伴に預かります」
活気を感じられるが人の少ない穴場に蓙を敷き、花見を始める。食事を必要としない人外たちの花見は、龍が酒好きのためほとんど宴会と変わらない。
立てた膝に肘を置き、龍は盃を傾ける。粗雑な所作なのに、赤く濡れた唇を舐める様さえどこか蠱惑的だ。
「主様、行儀が悪いですよ。神事の際にはきちんとされているのに、こんな時ばかり」
「こんな場だからいいんじゃねェか。気を張らずに呑んだ方が美味いに決まってんだろ」
盃に残った酒を飲み干し、龍は桜に視線を向ける。
「雪花が起きてるのも、オマエの桜が綺麗に咲いてるのも。オレにとっては今この時が、値千金の一刻なんだよ」
「それは……ずるいですよ、主様」
彼は神使を持たない神だが、雪花と紅華を眷属にしている。複雑な事情を持つ元人間と、どこにでもいる桜の精を、これほど特別扱いする神は他にはいないだろう。だから紅華は、彼に忠誠を捧げているのだ。
「えっ、まだ伝えてなかったのかい?」
「し、師匠、声が大きい……っ」
烏天狗の声で注目が集まり、雪花は慌てて彼女にしがみつく。どうやら女子同士の内緒話らしいと察してくれた龍と紅華が視線を戻したのを確認して、濡羽は潜めた声で話を続けた。
「今度こそ、つがいになっているものだと思っていたのだけど」
「だって、さっきの聞いたでしょう。未だにわたし、妹としか思われてないのよ」
ふて腐れる様は外見通りに幼く、周囲にいる紅華や龍が庇護欲をそそられるのもよくわかる。だが、と濡羽は目を細めた。
ずっとそばにいるせいだろうか、雪花は桜の香と気配を纏っている。肩に掛けられた羽織も、薄紅に染まった瞳も、何より彼女の態度が誰を一心に想っているのかを雄弁に語っている。
さらに龍神の鱗という特別な加護を与えられた彼女に、粉をかける軽率な者はいないだろう。気づいていないのは本人たちだけだ。
「君の片想いも、随分長いね」
「告白に失敗して、そばにいられなくなる方が怖いもの」
「……失敗なんて、する訳ないと思うけれどね……」
濡羽は小さく呟き、雪花の頭を撫でた。恋心に翻弄される彼女は可愛らしい。相談を持ちかけている濡羽にしか見せないその表情は魅力的で、手を出さないなんて勿体ないと思う。
しかし外野が口を挟むものでもない。相談には乗るが、それ以外は黙って見守るつもりだ。
「師匠、何か良い案ない?」
「そうだな……、たまには違う格好をして雰囲気を変えるのはどうだい? あそこの子たちみたいな洋装とか、君は着たことないだろう?」
濡羽が指差した先、雪花と同じ年頃の少女たちが通り過ぎていくところだった。
「何見てるの?」
「さっきもらったパンフレット。この祭り、由来があるんだって」
「昔、龍神の社を守って命を落とした一人の少女の鎮魂のため……? ふーん、なんかおとぎ話みたい」
「それがいいんじゃん」
「好きだねー、そういうの」
「ねえ。桜も撮れたし、出店の方に行こうよ。お腹空いちゃった」
はしゃぎながら出店のある広場の方角へ向かう少女たちを見送る。年に一度しか外界との接点がない雪花にとって、現代の装いは目新しい。
「うん、可愛い……けど。わたし、服買いに行けないし……」
「そんなの、私が連れていってあげるしお金も出すよ。弟子の面倒を見るのは師匠の務めだ。それに、そろそろ君も安定してきたし、もう少し長く起きていても大丈夫なんじゃないかな。ねえ、龍神殿?」
稽古こそ厳しいが、濡羽は基本的に雪花に甘い。抱きしめられると酒の匂いがするので、酔いが回って機嫌が良くなってきたのだろう。
「濡羽がついてりゃ、大抵のコトには対処できるか。それなら、少しずつ試してみたらどうだ。なァ、雪花」
信頼の置ける主と、尊敬する師匠がそう言うのならばと雪花は頷いた。
起きていられる時間が長くなれば、その分龍や紅華のために働ける。昔のように。紅華に守られて眠る心地よさに未練はあるが、彼らに尽くすことこそが雪花の役目だ。
改めて気を引き締めると、雪花は不穏な気配を感じた。
「なんか、向こうが騒がしい……? わたし、ちょっと様子見てくる」
引き留める間もなく、雪花は薙刀を手に駆け出した。
「あの子は相変わらず、貴方の領域を守ることにこだわりますね」
「アイツの好きにさせてやれ。あんな境遇なんだ、何かしら役目がないと不安なんだろ」
龍神と烏天狗は、そんな彼女を静観しつつ杯を重ねる。そこらのごろつきに遅れをとる雪花ではない。心配など不要とわかっていても、空になったふたりの盃に酒を継ぎ足してから、紅華は立ち上がった。
「すみません、主様。僕も席を外します」
「アイツなら大丈夫だろ。オマエも心配性だな」
「ですが、雪花は女の子なのですよ。酔客に絡まれでもしていたら、男の見目の僕がいた方がいいでしょう」
居ても立ってもいられないといった様子で雪花を追った紅華を、龍はそれ以上何も言わず送り出してくれた。
「精霊殿は、あれで本気で雪花を妹としか見てないつもりなんですかね」
「さァな。関係の名が何だろうが、アイツらはアイツらだろ」
少女と精霊の微笑ましい恋愛模様を肴に、ふたりは酒盛りを続けるのだった。
言い争う声を頼りに雪花がたどり着いた先では、先ほどの少女たちと二人組の男が揉めていた。男たちの顔は真っ赤で、かなり酔っ払っているらしい。
「だから、タバコは止めてくださいって言ってるでしょ!」
「ここ禁煙じゃねーだろ。お前らに何の権利がある訳?」
「権利なんてないから頼んでるんじゃん!」
男たちと対峙する少女の後ろに庇われるように、うずくまる少女と彼女の背をさするもう一人。気管支が弱いのか、煙草の煙のせいで苦しげに咳き込んでいた。
動けない彼女を支えながら立ち去るには、男たちに背を向けることになる。そうするにはあまりに不穏なため、抵抗せざるをえないようだ。だが子猫の威嚇のようなそれでは、たやすく押し負けてしまうだろう。
気に入らない。雪花は得物を握る手に力を込めた。
「だったら、どこでタバコ吸おうが俺らの勝手だろ?」
「ここは主様の御前。あんたたちごときの勝手など許されない」
鋭く空を切る音と共に、男の手から吸いかけの煙草が飛ぶ。草の上に落ちた火種を、雪花はブーツで念入りに踏みにじった。
「な、なんだお前、どこから……っ!」
「その子を連れて、下がっていて」
男を無視し、背後の少女たちに声をかける。それに逆上した男が殴りかかってくるのを躱せば、夜桜の羽織が優雅に翻った。勢い余ったところに足払いをかけ、まずは一人を地面に転がす。次いでもう一人に柄で突きを喰らわせ、素早く回転させた薙刀の切先を首筋にひたりと突きつける。
「次に主様の領域で揉め事を起こせば、容赦しない。今すぐこの場を去りなさい」
「ひいぃっ!」
情けない悲鳴を上げて、よろめきながら去っていく男たちが充分離れたのを確認してから、雪花は少女たちの方へ振り返った。
「怪我は?」
「だ、大丈夫。助けてくれてありがとう。あの、あなたは……」
「龍神に仕えているの。だからこれは仕事のうちだし、ああいう立場の弱い人を虐げる奴らは、昔から嫌いなのよ」
逸らした雪花の視線がふと、ある一ヶ所で止まる。そこでは、彼女が駆けつけるより前に投げ捨てられていたのだろう煙草が、辺りの草花を焦がしながらくすぶっていた。
「あ、あ……っ」
雪花が薙刀を取り落とし、膝から崩れ落ちた。身体がかたかたと小さく震え、言うことを聞かない。焦りで呼吸が乱れる。
たったさっきまで勇ましく武器を振るっていた雪花の突然の変貌に、少女たちもただ戸惑うことしかできなかった。
「雪花! お嬢さん方、ここで何があったのですか?」
「ちょっと揉めてたのを、その子が助けてくれて。それで……そう、 そのタバコを見て、なんか様子がおかしくなって……」
「……なるほど。この子は少し、火が苦手なのです。すみませんが、消火のために人を呼んできて頂けますか」
「はいっ!」
彼女たちには視えていないが、雪花を中心に瘴気の霧が発生していた。人間が長時間触れれば害になる。消火を口実に少女たちを遠ざけた今のうちに、対処しなければならない。
「雪花。雪花、僕の声が聴こえますか?」
紅華は煙を上げる火を雪花の視界から隠し、できるだけ穏やかに声をかける。
発火を伴う揉め事が引き金になったのだろう。こうした暴走を、昔は頻繁に起こしたものだ。対応は心得ている。
「はっ、はぁ……。く、紅華さ……っ」
「大丈夫ですから、落ち着いて」
「でも、火が……っふ、は……。はひゅ……うぅ」
不意に川から龍の気配がしたかと思えば、水音がして小さな火を消し去り、瘴気の霧を散らした。同時に、そこには龍が立っている。
「久々に暴走しちまったか。紅華、狭間に帰るぞ。ソイツしっかり抱えておけ」
「はい、主様」
雪花を横抱きに抱え上げれば、震える手がすがるようにぎゅっと紅華の着物を握る。
一瞬の景色が揺らぐ感覚の後、龍たちは狭間にある社の前に戻っていた。荒かった雪花の呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻す。
「雪花……」
「ごめ……、紅華さん。ちゃんと抑える、から……っ。もう少し、このまま……」
雪花が握ったままの紅華の着物の胸元が、ぐしゃりと歪む。しばしの間そうしていると、ゆっくりだが着実に瘴気は薄れていった。
しかし彼女は、瘴気を抑え込むことに力を使い果たしてしまったらしい。薄紅色の瞳は閉ざされ、意識を失った身体がぐったりと紅華にもたれかかる。
こんな時の彼女は痛々しく、見ていられない。眦に滲んだ水晶のような涙を、紅華のたおやかな指がそっと拭う。
先ほどの少女たちが語っていた、かつて龍神の社を守るために命を落とした少女というのが雪花だ。その際に怨霊と化したことで、こちら側の存在になった。
怨霊は本来、強い怨みによって呪いと瘴気を撒き散らすものだ。きちんと祀られているとはいえ、まだ信仰心の足りていない雪花ではそれを抑え込むのは負担が大きいらしい。
それにここは龍神の縄張りであり、神域だ。瘴気は穢れになる。そのため雪花は常に眠ることで、怨みを薄れさせているのだった。
「幸いにして、明日は鎮魂の儀だ。だいぶマシにはなるはずだ」
雪花の顔を隠す真白の髪を払い、龍は血の気の引いた彼女の額に触れる。浄化の力を持つ龍神はまとわりついていた瘴気を散らし、神気を分け与えた。これで少しは回復も早まり、信仰心も受け取りやすくなるだろう。
「やはり、まだあの日の怨みは、雪花を縛っているのですね」
「怨霊である以上、完全には忘れられないだろ。だからこそ、今も共にいられる訳だが……」
あの日も桜が咲いていた。儚くも美しい花は季節の移ろいではなく、たった一人の少女のために散った。龍神の社を打ち壊さんとする村人全てを敵に回して戦った彼女の死を、悼むかのように。