彼女は婚約解消を望む
エアの視点その2です。
いじめ描写は詳しく入れていませんが、気になさる方はお戻りください。
十六歳の年、エアはルーイと共に貴族の子息子女が通う二年制の寮付き学校へ通う事になった。
将来の人脈づくりや、家を継がない子息が就職のためのアピールの場にしたり……勉学は二の次となっている印象である。もちろん礼儀作法や国の歴史なども教えてはくれるが、大抵の貴族は家庭教師を招いて既に学習済みの事が多いので、授業は多少疎かでも困ることはないらしい。この学校に入学して、卒業したというだけで、今後のステータスの一つになる。
エアとて貴族の端くれ、家庭教師を招いた勉強はしっかり行っていたが、せっかく学校へ行っているのだからときちんと授業を受けていた。友人もできて、それなりに充実した学校生活を送っていた。
学校を卒業したら結婚するという約束だったので、学校生活はある意味では最後の自由時間ともいえる。それなのに、それどころではない状況に陥り、彼女はとても疲れていた。
かつてのように、学校生活にもやはり翳りが生じたのである。
ルーイとエアが婚約者同士であることは、入学から半年も経てば周知の事実となっていた。隠しているわけでも、宣伝して歩いたわけでもない。美しく優秀な隻眼の伯爵令息に誰もが見惚れ、詳しく調べたら婚約者がいることが判明した、という事のようである。
当然のように陰口を叩かれた。友達は気にしなくていいと言ってくれたし、ルーイも何かあったらすぐに言うようにとそばにいてくれた。エアは頷き、恵まれた人間関係に感謝し、自身も気にしないようにふるまっていた。
しかし、そうも言っていられなくなってしまった。悪い噂に留まらず、身の回りで嫌がらせとしか思えないことが起こるようになったのだ。
教科書が破られたり、私物を隠されたり、ごみ箱で見つけたり……。地味な嫌がらせに思うが、繰り返されると心がしんどくなる。友人達には目撃されてしまったので正直に打ち明け、一緒に探してもらったり、片づけをしてもらったりしたのだが、ルーイには言えずにいた。
あなたのせいで嫌がらせを受けている、とは言えなかった。聡いルーイはエアが何も言わずとも気付いているかもしれないが、直接言う事は憚られた。
ルーイに直接言ってしまうと嫌がらせが過熱しかねないと思ったからである。エアから事情を聞いたルーイが直接注意することで、嫌がらせが陰湿に、苛烈になるかもしれない。それが怖かったし……彼に頼らずとも平気であると虚勢を張りたい自分も、どこかにいた。
美しいルーイの隣に立つ為に、せめて彼に寄りかからず、自分の足でたっていたかったのだ。
――たったの二年。我慢すればいいだけ。
エアは何度も自分にそう言い聞かせた。
それでもたった一度、エアの心は折れかけ、衝動に駆られるままルーイの家へと向かった事があった。約束もなく押しかけるのは非礼でしかない。分かっている事だが、当時のエアはそれを気にする余裕もなかった。
約束もなしに押しかけたものだから、ルーイは不在で、在宅であったペトラが、エアをもてなしてくれた。温かいお茶と甘いお菓子でもてなされて漸くエアの心は落ち着きを取り戻し、今更ながらに自身の非礼を恥じて詫びると、ペトラは笑って許してくれた。
『未来の娘になるかもしれないのだもの。そんなことは気にしなくていいのよ』
ペトラの優しい言葉に、エアの涙腺はうっかり緩んでしまった。ペトラが慌てる。
『どうしたの、エアちゃん。私、何か悪い事を言ってしまった? ……もしかして、ルーイとの婚約を負担に思っていたりする?』
ペトラは心配そうに、エアの顔を覗き込む。
『あのね、皆乗り気のようだから、言えなかったけど……エアちゃん、無理してルーイと結婚しなくてもいいのよ? ずっとお友達として一緒にいたのに、急に結婚なんて……難しいでしょう?』
一瞬の沈黙。
――私は無理をしているの? ずっと大切な友達だったルーイと、今更結婚なんてできないと思っている?
からの、即答。
『いいえ。そんなことはありません。ないんです』
ルーイと婚約してから三年以上。これまでの幼馴染の延長とは違い、正式に婚約者として隣に並ぶ機会もあったし、ただ一緒に遊んでいた時間は婚約者と過ごす時間に変わっていた。
元々、互いの仲が悪かったわけではない。エアはルーイと何度も話をした。ルーイを怖いと思ったことも正直に話したし、恋愛の意味で好きなのかはよく分からないことも伝えた。ルーイはエアの話を黙って最後まで聞いてくれた。
『僕もよく分からない。エアに恋をしているのか、愛しているのか。でも一つだけ確実なのは、僕がこの世で一番大切なのはエアだってこと。エア以外、どうでもいい』
ルーイが初めて打ち明けてくれた本心に、エアはどう反応すればよいのか分からなかった。でも、それを嬉しいと思っている自分もいた。
『ルーイが思っている事、初めてちゃんと聞けた気がする』
『そう? エアもいつも遠慮してるよね。そんなこと、する必要ないよ。エアの事なら何でも知りたい』
『僕はエアの為なら何だってする。エアを守る為にも何でもできるよ』
本当に何でもするだろうな、と思ったから、エアは「自分の事は自分で何とかするよ」と笑って見せた。そうしたらルーイが「じゃあ、こっそり助ける」なんて言うから笑ってしまった。それほど昔の事ではないのに、もう懐かしく感じるやりとりだ。
二人はそれから、これまで通りに楽しく過ごすことも、これまで触れないようにしていたことも話したりした。
そうして時間を過ごすうちに、エアはルーイのことを一番大切な存在だと改めて感じることが出来た。この想いが、ルーイがエアに向ける「この世で一番大切」と感じてくれるものと同じなのかは分からない。想いの形も、想いの大きさも。それでもエアは、ルーイと結婚する未来を描けるようになっていた。「結婚しよう」と囁かれれば、「うん」と答えられる。大切な友達は、唯一無二の大切な人になっていた。
――そうやって時間をかけて築いたものが、名前も知らないような人達の悪意によって崩されようとしている。
これまでどんなことがあって、二人がどんな風に時間を使って分かりあったかなんて知りもしないような人達に。
ペトラにも、エアの本心は分からなかったのだ。もっと遠い位置にいる彼女達が分かるはずもない。そもそも分かろうともしていないのだから。
――でも、それが何だと言うの。あの人達は私が何を言ったって聞く耳持たない。そんな人達に屈するなんて絶対に嫌。
自分のどこに、こんな負けん気があったのか。エアにも分からないが、折れかけていた心は接ぎ木してでも奮い立たせることが、この時はまだできた。
『ありがとうございます、おばさま。おかげで私、まだ頑張れます』
ペトラはエアの置かれた立場など分からないはずだから、彼女が突然現れたことも、泣きそうになった理由も、何も知らない。でも何も知らない彼女からの言葉だったから、エアは自身の気持ちを思い出し、もう一度立ち上がることが出来た。そう思っている。
ペトラは分からないなりに、何かを察してくれたらしい。気遣うように微笑んだ。
『あなたが元気でいてくれるなら、それでいいのよ。くれぐれも、無理はしないでね』
見送ってくれたペトラに、今日の事はくれぐれもルーイには秘密にしてほしいとお願いし、エアはバーデン伯爵家を後にした。
それから卒業まで残り半年を切るまで、エアは負けなかった。
不思議なことに、エアに嫌がらせをする人数は次第に減っていった。しかしその分とでもいうのか、残った生徒による嫌がらせは内容が大胆なものになっていく。それでもエアは頑張った。友達もいてくれるし、何よりルーイがそばにいてくれる。彼は何も言わずとも、エアの心中を察したかのように現れて、寄り添ってくれた。
卒業まであと少し。耐えた時間の方がはるかに長い。
でも。
「ルーイ。……婚約を解消してほしい」
彼女の心は、再び折れてしまったのだった。
お読みいただきありがとうございました。
エアはルーイに甘えたくない、ただでさえ自分はルーイと並べるほど立派なところがないんだから、自分の事は自分で解決して、自分の足で立つくらいはしないと、と強く思い込んでいます。ルーイはその意図を汲み、表立って手助けしないできましたが…仇になりました。
また、エアの友達はエアの事を見放さず一緒にいてくれましたが、それ故に巻き込まれることもありました。そのことも、エアの心に傷を作っていました。