少女の婚約
一話完結の話がそうはいかず、かといって切れ目がないのでとても長くなってしまいました。
読み辛いと感じたら申し訳ないです。
また、作中で「眼」と「目」を使い分けているのですが、作者の基準です。あまり気にせずお読みいただければと思います。
エアリアナ・アマンドはしがない子爵家の一人娘である。貴族になんとかぶら下がっているような、大して裕福でもないアマンド家のエアが、どうしてそんじょそこらの侯爵家をも凌ぐような財力を持ち、力あるバーデン伯爵家の嫡子であるルートヴィッヒと婚約を結んでいるのか。それには深い事情がある。
その日から10年が経つ。どれだけ歳月を重ねても、忘れられない。
出会いはエアが8歳の時だった。当時のエアは習い事をしていて、決まった日に馬車で教師の元まで通う習慣があった。教師は母の知り合いの男爵夫人で、エアは習い事そのものよりも男爵夫人とお話が出来ることと、レッスンが終わってから少し街を回って遊べることが好きで続けている節があった。
そしてその日、エアは護衛を一人連れて馬車に揺られていた。男爵夫人のところでお茶を頂いて、珍しく寄り道せずに帰っていたところ、途中の道すがらで立ち往生している馬車を見つけてしまった。
「どうしたのかしら?どこのおうちの馬車かな?」
エアが首を傾げると、同乗していた従者のマルコが様子を見てくるように馭者に伝えた。馭者は頷くと、前方の馬車に慎重に近づいていく。遭難者を装い馬車を襲う盗賊もいる。そのため、馭者も護身ができる者を選んでいた。そして従者は主人の傍を簡単に離れない。
やがて戻ってきた馭者が言うには、立ち往生は演技ではなく、本当に困っているようだという事だった。
「馬車の故障で困っているようです。馭者は約束に遅れてしまうとひどくうろたえていて」
どうやら老いた馭者と馬車の中の主人の二人しかおらず、進むも戻るもできず困っているようだった。
「馬車に家紋は入っていませんが……貴族だと思います」
「そうなのね」
貴族の馬車には家紋を入れるのが一般的だ。豪奢な馬車に家紋が入っていれば権威を象徴できるし、見ただけで身分を識別できるので第三者にもありがたい。無礼を働く心配が減る。もちろん身分をひけらかせば危険も増えるので、その為に大抵の貴族はお忍び用の、家紋を入れない馬車を持っている。おそらくはそれだろう。幼いエアでさえ、こっそり出かける時は家紋が入っていない馬車を使おうと考える。馭者が子爵家の者である以上、全て父に報告され成功したことは一度もないが。
「……じゃあ、この馬車を使ってもらったらどう?」
エアの提案に、馭者も護衛も反対した。貴族が皆、聖人君子というわけがない。馬車を貸したらそのまま戻ってこない可能性もある。ここに置いてけぼりにされて、そこを盗賊なんかに襲撃されたら、護衛一人では心もとない。
「でも待ち合わせに遅れそうで、相当困っているのでしょう? 向こうの方に、きちんと事情を聞けばいいんじゃない? 身元が確かな方なら問題ないでしょう?」
お願い、と子供ながらに正義感をあふれさせた我儘を言うエアに、大人二人は頭を抱えた。暫し悩み……最終的には小さなお嬢様に従った。
その時助けた馬車の主人こそバーデン伯爵だったと言うわけだ。どういうわけだ。
王宮へ登城するところトラブルに遭い、指定された時間に間に合わなくなると困り果てていたところを助けられたバーデン伯爵はエアの行いに大変感謝し、是非お礼がしたいとエアと両親を一緒に屋敷へ招待してくれたのだ。
そして出会ったのが、バーデン伯爵家嫡男にして一人息子のルートヴィッヒだった。
ルートヴィッヒは大変おとなしい子だった。エアと同い年だと言うのに頭も良く、マナーも完璧で非の打ち所がない。何より、大変に美しかった。
当時のエアは幼い故の怖いもの知らずで、自分より格上の伯爵家、おまけにものすごい美人のルートヴィッヒの隣に立つことを尻込みしたりすることなどなかった。
晩餐に招待されたことをきっかけに両家は家族ぐるみの付き合いをするようになり、エアもバーデン伯爵家をよく訪れた。
「二人で遊んで来なさい」
と言われたら、元気に返事をしてその通りにした。
ルートヴィッヒはいつも本を読んでいた。エアが遊びに行っても見向きもしないくらい。なのでエアも一緒に本を読むことにした。ルートヴィッヒと同じレベルの本はとてもじゃないけど読めなかったので、自分で本を持参するようになった。ルートヴィッヒに賢く見られたいとかそういった欲目は全くなかったので、お気に入りの童話や、挿絵が綺麗な本などである。読書する二人は特に何を話すことはなかったが(彼は本当に何も話さなかった)、嫌な沈黙ではなかった。静かに二人で並んで本を読む時間も、エアは好きだった。
ある時、ルートヴィッヒがエアに外で遊ぼうと声をかけてくれた。どういう心境の変化かは不明だが、エアは喜んでルートヴィッヒを外に引っ張って行った。ルートヴィッヒとたくさん遊べたエアは大変に満足したが、彼の方は疲れているようにみえたので、それからはルートヴィッヒのしたいこととエアがしたいこと、交互に行うようになった。大抵は読書と外遊びが交互になっていた。その過程で、エアは「ルーイ」と呼ぶことを許された。ちなみにエアは初めて顔を合わせた日に「エア」と呼んでほしいと伝えていたが、その日まで「エアリアナ」で呼ばれていた。本当にどういう心境の変化があったのか。
兎にも角にも、この頃がエアにとって最も楽しい時間だった。ルーイは何でも知っていて、エアに色々なことを教えてくれた。ルーイが教えてくれた知識はエアの世界を広げ、外遊びだけでもこれまでの数倍楽しくなった。本を読むことも、ルーイの興味のあるジャンルというものが分かったときは嬉しかった。難解すぎて一緒に読めはしなかったが。いつか一緒に読めたらな、と淡い希望を抱いては挿絵や装飾が綺麗な絵本を読んでいた。
何をしていても、楽しい時間だった。兄弟がいたらこんな感じなのか――あるいは、親友とはこういうものなのか。関係性に名前がないまま、エアは幸せな時間を享受していた。
しかしその楽しい時間も、エアが十歳になる頃には翳りが差していった。
その頃になると、エアも他家が主催するお茶会やホームパーティーにお呼ばれするようになっていた。大抵はルーイが同伴してくれたのだが、その度に視線と陰口を集めてしまったのだ。
「あの方が、バーデン伯爵家のルートヴィッヒ様……?」
「なんてお美しいんでしょう」
「素敵な方ね……」
「ところで」
「あの隣の令嬢はどちら様? アマンド子爵? 聞いたことありませんけど」
「ルートヴィッヒ様の幼馴染だそうよ。頼まれて、パートナーを務めているとか」
「まぁ、ルートヴィッヒ様はお優しくていらっしゃるのね。それにくらべて、あの方……」
「図々しいにも程がありますわ。なんて不釣り合いなの」
「あの程度の顔と装いであの方に並んで、恥ずかしくないのかしら」
最初こそ気にしないでおこうと思ったエアだが、どこに行っても同じことを言われて――そして全て正論であると気付いて――すっかり気持ちが塞いでしまった。せっかくのお茶会でも、お茶もお菓子も味を覚えていない。誰に見られているか、何を囁かれているのかばかり気にして耳を澄ましている。
そんな自分が嫌で、エアはルーイの同伴を断るようになった。そもそも、パートナーの申し出を受けていたのはエアの方である。ルーイの方から是非一緒に来てほしい、もしくは連れて行ってくれと言われて、断る理由がないから了承していたが、世間はエアがルーイにわがままを言って、幼馴染の特権でパートナーに収まっていると決めつけた。聞かれれば正直に答えているが、噂好きに限って、直接問いただすことはせず話だけを大きくする。何度訂正してもいたちごっこで、エアは疲れてしまった。こうなっては一緒にいられない。
「エア。最近、どうしたの?」
ある日、久しぶりにルーイがアマンド子爵家を訪ねてきて開口一番、エアに詰め寄った。
無表情のまま小首を傾げて訪ねてきたルーイは、相も変わらず美しい。無表情でも、声が少しだけ不満そうだった。そういう些細な変化が分かるくらい一緒にいた。それが嬉しかったのに。
エアは取り繕うのが面倒だったので、大げさなくらい大きく首を傾げた。
「どうって、何が?」
「うちにもあまり来ないし、先日、パートナーを断っただろう」
「ああ……」
ルーイと距離を置こうと決めてから、しょっちゅう遊びに行っていたバーデンの屋敷からは、当然足が遠のいていた。先日、ルーイからある伯爵家で開かれるお茶会のパートナーをお願いされていたが、それも断ったのだ。自分の代わりにどんなご令嬢を連れて行くのかな、なんて思いながら。
「それはごめんね。用事があって……でも代わりの人、すぐ見つかったでしょ?」
むしろ引く手数多だったはず。エアはわざと明るく尋ねたが、ルーイは全く表情を動かさない。
「行かなかったよ」
「え、どうして?」
「行きたくなかったから」
「……行きたくないのに、私にパートナーを頼んでいたの?」
それはちょっとひどくないか、とエアがややムッとして返すとルーイはふるりと首を振った。
「違う。エアがいないから、行きたくなかった」
一瞬、エアは呼吸を止めた。これは、嬉しいことなのか。
混乱するエアをじっと見つめて、ルーイはエアの髪に手を伸ばした。珍しくもない茶色の髪、自分の髪がエアの視界に入る。ルーイの綺麗な金髪とは比べるべくもない。
「エア。僕と結婚してほしい」
「…………え?」
「……まだ、違うか。僕と婚約してほしい」
「え?」
どっちにしろ「え?」だった。内容、ほとんど一緒だよ。
「急にどうしたの?」
「急かな。待っていただけなんだけど」
何もかもが唐突だ。エアはそう思ったが、ルーイは違うらしい。いくら無表情でほとんど笑わない彼でも、冗談くらいは言う。でも、今は。エアを見るその目は。
「まだ、婚約は決まっていないだろう?僕と結婚しよう」
「――無理」
気がついたら、拒絶の言葉が口をついていた。自分で驚いて目を見開く。目の前のルーイも、目を見開いていた。彼のこんな表情は珍しい。頭の片隅でそう思いながら、咄嗟に目を逸らす。
「だ、だって、私とルーイじゃ、見た目も家格も釣り合わないし。無理だよ。それに、私もルーイも嫡子に当たるじゃない。私はお婿さんを迎えなきゃで、ルーイはお嫁さんを迎えなきゃでしょ?」
言い訳めいた言葉が次々と溢れてくる。自分で言いながら傷ついた。貴族の結婚は家と家を繋ぐ重要なもの。よりよい条件の相手を探すのは当然だ。エアとルーイの結婚では、バーデン伯爵家に旨みがない。バーデン伯爵家なら、侯爵家と縁を結ぶことだって可能だろう。それが力のない子爵家と結ばれてしまっては、あまりに落差がありすぎる。ルーイがよくても、両親が納得しないはずだ。エアには、この申し出がルーイの独断であるという確信があった。
「……ルーイ?」
無反応のルーイを窺うように視線を上げると、彼は無表情に戻っていた。だがその青い瞳は、表情以上に何かを雄弁に語っている。それの名前をエアはまだ知らない。知らないから、怒っているのだと解釈した。
「……僕の誕生日パーティーには来てくれるよね」
「え……うん、もちろん」
突然の話題変換に戸惑いながら頷く。もうすぐ、ルーイの十三歳の誕生日パーティーが催される。当然のようにエアも招待されていた。
「なら、いい。急にすまなかった」
素っ気なくいうと、ルーイはくるりと踵を返し、去っていった。いつもなら見送りをするのに、この時のエアは一歩も動けなかった。呆然と、その後ろ姿を見つめることしかできなかった。
それから二日後、深夜。
あのプロポーズのようなやりとりは夢だったのでは、と何度も考えて、夢だということにしてしまおうという結論に行き着いたエアは、二日ぶりに安眠していた。まだ幼いので、思考が単純な傾向にある。
ベッドの中でぐっすりと眠っていたエアは、激しいノックの音で起こされた。何事かと飛び起きて扉を開けると、父と母が立っていた。扉を叩いていたのは父らしい。二人とも青い顔をしている。
「バーデン家から使者が来て……ルートヴィッヒ君が発狂したと言うんだ」
「発狂……?」
「私にも何が何だか……突然暴れ出してご自分の眼を突いた、と」
「え!?」
眼? 眼を突いた? ルーイの美しい青い眼を思い出す。エアをまっすぐに見つめる青い眼。あれが、なくなった?
「な、何それ! ルーイは? 無事なんですか!?」
「分からん。使者もかなり動揺していて……そのルートヴィッヒ君がずっとエアの名前を呼んでいるから、来てもらえないか、と」
「行きます。行きます!」
迷うことなく頷き、着替えるために慌てて部屋に戻る。
「あなた、私も行くわ」
「君は待っていてくれ。一刻を争うんだ、馬車ではなく馬で行く。君一人では乗れないだろう?」
「でも……」
食い下がる母の声が聞こえたが、父の言う通り母は一人で馬に乗れない。そして、それはエアも同様だ。父に乗せてもらうしかないが、一頭の馬に3人も乗っては馬が可哀想だし、肝心の速度が失われる。父とエアの二人乗りの強行軍になるだろう。エアは一人でも着られる動きやすいワンピースに着替えると、すぐさま父の元に戻った。
父は出かける支度が整っていて、母は見送る姿勢だった。説得されてくれたらしい。
「あなた、エア。くれぐれも気をつけて」
「ああ」
「はい」
「それから……ルートヴィッヒ君のこと、よろしくね」
「ああ、何ができるか分からないが、できる限りのことはしてくるよ」
「お母様、行ってきます」
父が手綱を握り、馬を走らせる。その腕に抱かれながら、生まれて初めて乗馬を経験しているのに、エアの思考は全く別のことに囚われていた。
――ルーイは、いつから発狂していたんだろう。
突然だった、とバーデン家の使いの者は言っていたが、本当はもっと前から、彼は狂ってしまっていたのでは。
例えば、エアに求婚紛いのことを言った時――とか。そうでなければ、おかしい。
勢いに任せて父と一緒に来てしまったが、ルーイと会うのは気まずい別れ方をしたあの日以来だ。
ルーイに無事ていてほしいという思いと、会うのが怖いという思いがないまぜになる。何と声をかければいいのだろう? 何事もなかったように接してよいのか。
気持ちを整理できないまま、エアはバーデン伯爵家に到着していた。
バーデン伯爵夫妻はエア達の到着にいたく感謝し、ルーイの寝室へと案内した。
「こんな時間に呼び立ててすまない……」
「気にしないでください。それより、ルートヴィッヒくんは」
「ずっとエアリアナさんを呼んでいるの……」
ルーイの母――ペトラは泣きながらそう言った。
「どうか、ルーイと話してやってくれないか」
ルーイの父であるバーデン伯爵は憔悴しきった様子でエアに頼んだ。
「私でよければ……」
その頼みに対して、エアに迷いはなかった。
会うのが怖いのは確かにそうだったが、このままルーイを失うかもしれないことの方が、ずっと怖かった。
エアはルーイの部屋に入って、言葉を失った。彼の部屋に入るのは初めてではない。天井まで届くほどの大きな本棚も、彼専用の脚立も見慣れたものだ。だが、部屋の主であるルーイがベッドに入っているところは見たことがなかった。ベッドの中でエアを迎えた彼は苦しんでいた。顔の右半分には包帯が巻かれていて、血が滲んでいる。
(自分の眼を突いた、って……)
この包帯の下がどうなっているのか。
怖くて聞くことはできなかったが、医者が非常に危険な状態です、と言っていることだけは耳に入った。
「ルーイ、エアリアナさんが来てくれたわよ」
すっかり泣き腫らしたペトラが呼びかけると、ルーイの――包帯を巻かれていない左眼がうっすらと開かれた。
「え、あ……」
「! ルーイ!」
「来て、くれて……」
「来たよ! 私、来た! しっかりして!」
ルーイが震えながら伸ばす手を、エアは夢中で掴んだ。温かい。むしろ熱い。熱が出ているのだろう。このまま燃え尽きてしまうのではないかと不安になって、思わず握る手に力がこもってしまう。ここに来るまでの迷いや想いは、全て吹っ飛んでしまっていた。ただ、ルーイの無事を祈る気持ちが溢れてくる。
「……とう、さ……」
「ああ、ここにいるよ」
バーデン伯爵も涙を滲ませて応える。
「エアと……ふたり、に」
してほしい、という言葉は音にならなかったが、バーデン伯爵は意図を汲んで頷いた。
「分かった」
「あなた……」
ペトラが何か言いたげに声をあげたが、首を振って黙らせる。そしてエアの方を見た。エアが頷くと、バーデン伯爵は目礼し、今度はエアの父を見る。彼も頷き、エアの頭を撫でて夫妻や医者と共に退室した。
エアとルーイ、二人だけになる。
「エア……」
ルーイの声は弱々しい。荒い息の合間に、息継ぎのように細く聞こえる。エアは少しでもルーイとの距離を縮めようと、ベッドに身を乗り出した。
「うん、いるよ」
「そばに」
「うん」
「ずっと、いて」
「うん……」
「――本当に?」
「う……」
そこでエアは固まってしまった。ルーイの、エアを見る目は狂気になど染まっていない。いや――狂気なのか。今までに見たことがないほど、力の篭った目だった。死にかけているとは思えない。
思わず彼の手を握った手から力が抜け、引っ込めようとしたところで力強く握り返された。先程までエアが握っていた時より、遥かに力が強い。
「ルーイ……」
「約束、して」
「……」
「して」
「う……ん」
「ずっと一緒だよ。これからもずっと」
「……うん」
それ以外の返事ができなかった。彼の隻眼から、目を逸らすこともできない。
しかしルーイはエアの返事を聞くと、安心したように目を細めて笑った。二人の時にだけ見せてくれる、エアの好きな柔らかい笑顔だ。――そしてそのまま意識を失った。
ルーイが意識を失って、エアは慌てて大人を呼んだ。掴まれた手がそのままだったので動けず、大声で騒ぐ形になってしまったが、ルーイが目を覚ます様子はなかった。エアの声を聞きつけてすぐに彼の両親や医者がやってきて、ルーイを診てくれた。エアの掴まれたままの手はルーイの父とエアの父、大の男二人がかりでどうにか外してくれた。
結局ルーイの状態が落ち着くまで留まることになり、エアと父が家に帰ったのは翌日の昼頃になった。ルーイは無事に一命を取り留めた。このお礼は後日必ず、と何度も頭を下げられてバーデン伯爵家を後にしたエアたちだったが、よかったを繰り返す父に対し、エアはうまく言葉が出てこなかった。
――ルーイは少しも弱っていなかった。
怪我は本当だし、熱が出ていたのも本当だ。生死の境を彷徨ったことも。でも、彼の気持ちは全くいつも通りだった。気が弱くなったり、死を怖がったりすることはしていなかった。本を読んでいる時と変わらない。彼は冷静だった。
あれが発狂する、ということなのだろうか。エアは、彼に気圧されていた。ただ怖かった。
いや、逆にルーイも正気ではなかったのかもしれない。あれだけ熱に浮かされていたのだから、彼も自分が何を言っているのか分からなかったのだろう。あの時の約束も、きっと覚えていない。
そう思い込むことで安心しようとしていたことは否めない。しかし、それがエアの希望でしかないことはすぐに分かった。
数日後、バーデン伯爵家から手紙が届いた。
――エアリアナとルートヴィッヒの婚約を結びたい、という申し出だった。
当然、アマンド家は混乱した。
エアとルーイの仲の良さは周知の事実だったが、これまで婚約の話が持ち上がったことはなかった。野心のないアマンド家はそういった期待をしていなかったし、むしろお互いがいつまでもいい友達でいられたらいいと思っていた。エアがルーイを友達として慕っていることはよく分かっている。婚約に結び付きそうな関係ではなかったはずだ。それがここにきて急に婚約の話が出てきたのだ。戸惑うのも無理はない。
「なぜこんなことになったのか……エア、心当たりは?」
一瞬、エアの脳裏をよぎったのは、熱に魘されていたルーイが、エアに迫った約束。
『ずっと一緒だよ。これからもずっと』
確かに約束したけど、結婚とかそういったことを考えての約束じゃない。結婚なんて一言も言っていなかった。しかしそこまで考えて、ふと思い出した。
『エア。僕と結婚してほしい』
あの騒ぎで忘れていたが、エアは彼に求婚されていたのだ。その場で断ったし、例の騒ぎがあってすっかり忘れていた。しかし考えてみれば、あの騒ぎで駆けつける時は、そのことで悩んでいたはずだったのだ……。
「……」
黙り込むエアを両親は不審がることなく話し合いを続けていた。
「この前、深夜に駆け付けた事へのお詫びのつもりなのかしら」
「そんな! お礼されることじゃないし、逆に困る」
「そうよね……本人たちの気持ちの方が大事よ。ルートヴィッヒさんはどう思っているのかしら」
「うぅん……」
二人はあれこれ悩み、ふとエアに水を向けた。
「エア。お前はどう思っている?」
「え?」
「まだお前の結婚について、私達も婿をとるくらいのことしか考えていなかったが、ルーイ君と結婚することになったらどうする?」
「ど、どうするって……身分違いだなって……」
「そうではなく。結婚してもいいと思う位好きだったりするのか?」
「……」
「ちょっとあなた、急に何言い出すのよ。エアが困っているじゃない。というか、父親にそんなこと聞かれて素直に答えられるわけないでしょう」
「えっ、母さんになら答えてくれるのか?」
「う、うーん……」
エアは少し戸惑った。父や母に隠し事をしたいわけじゃないが、自分が抱えているこの気持ちを、うまく言葉で説明できる自信がなかった。
「その、ルーイの事は好きだけど……結婚したいのかと言われると分からない……みたいな感じ」
嘘ではないが、全てでもない。エアはルーイのことが大好きだし、一番の友達だと思っている。しかし恋人になりたいとか、結婚したいとかそういったことは考えたことがなかった。
――考えないようにしていたというのが本当かもしれない。エアとルーイは初めから身分違いで、今仲良くできていることが奇跡のような人なのだ。分不相応を望んではいけない。
そう思っていた。ずっと仲良くしていきたいとは思っていたが、結婚のように将来を共にすることを考えたことはない。それなのに。
『エア。僕と結婚してほしい』
ルーイの方は違っていたのか。冗談だと思うようにしていたが、先日の、ルーイが発狂したという夜。
『ずっと一緒だよ。これからもずっと』
あの時、エアは初めてルーイに対して「怖い」と思った。どうしてなのか、今でも分からない。でも直後に彼が見せた笑顔は、確かにエアが好きなそれだった。
ルーイに会って確かめたい。でもルーイに会うのが怖い。
エアは、自分のルーイへの気持ちがぐちゃぐちゃになってしまっていることに気付かざるを得なかった。
「そうだよな。私達から見ても、お前とルートヴィッヒ君は仲が良くても恋仲、とかそういう風に見えなかったし……」
うーんと悩んだ結果、両親は直接問い合わせることにした。手紙を出すと、両家で話し合いをすることを提案され、後日、エアは両親とともにバーデン伯爵家へ向かう事になった。
(行きたくない)
エアの正直な感想だったが、自分の事だから行かないわけにいかない。任せていたら、間違いなく婚約は成立してしまうだろう。こんな気持ちのまま、自分が知らないところで婚約を結ばれることをよしと思えず、エアは両親と一緒にバーデン家へ行く事を了承したのだった。
バーデン伯爵家へ向かう当日、エアはこれまでよりもおめかしした姿で訪問することになった。場合によっては婚約初日の顔合わせにもなり得るからだ。エアはかなり渋ったが、両親も改まった格好をしているため、自分が浮かないように了承するしかなかった。そしていざバーデン家へ向かうと、伯爵夫妻、そしてルーイもきちんとした格好をしていたので、エアは意地を張らなくてよかったと密かに安堵した。
(ルーイ……)
ルーイは右眼に眼帯を着けていた。彼の美しい顔の半分が隠されてしまい、その下に痛々しい傷跡があると思うと、他人事のはずなのに胸が締め付けられる。
「先日は本当にありがとう。真夜中の急なお願いにも関わらず駆けつけてくれて。息子は右眼を失ったが、それでも一命を取り留めたのは君達のお陰だ」
バーデン伯爵が頭を下げ、ペトラも一緒に頭を下げる。
「何もしていないよ、ルートヴィッヒ君が無事で本当に良かった。……しかし、婚約というのは? 礼のつもりならやめてくれ」
先手を打つアマンド子爵に、バーデン伯爵は首を振った。
「礼ではない。こちらからの正式な申し込みだ。ルートヴィッヒたっての希望だし、私もアマンド家となら良好な親戚関係を築けると考えている。利益ではない、親戚として付き合っていく事に重きを置きたいんだ」
「……」
バーデン伯爵は真剣だった。息子の我儘に付き合っているというわけではないらしい。
エアは視線を逸らし続けていたルーイに、恐る恐る視線を向けて、それを後悔した。ルーイは真っすぐにエアを見つめていた。隻眼となっても、彼は変わらず美しかった。その視線の強さも相変わらずである。
「エアちゃん」
ペトラにそっと声をかけられて、エアはこれ幸いとルーイから視線を外し、ペトラを見る。
「正直に言ってくれて構わないわ。無理をしなくていいの。ルートヴィッヒと結婚したいと思う?」
「え」
エアは思わず、ルーイを見た。ルーイはいまだにエアを見つめている。エアに頷けと合図することもなければ、睨みつけることもしない。ただ静かにエアを見つめている。
何かを強制されているわけでもなく、場の雰囲気に気圧されたわけでもない。だからエアは、自分の気持ちに正直に答えた。
「結婚したいのかは正直よく分からないけど。この先、ルーイ以上に好きになる人と出会う事はないと思ってます」
ルーイの事を、怖いと思う。でもルーイを好きだと思う気持ちはずっとある。そしてそれは、彼に対する「怖い」という気持ちを遙かに勝る。
この気持ちが、愛や恋に相当するものなのかは、まだ分からない。それでも、ルーイを好きだという気持ちは、きっとこの先も揺るがない。それだけを誠実に伝えた。
「僕も」
ルーイが静かに口を開く。視線がルーイへと集中するが、彼は臆することなく続ける。
「僕も同じです。この先、エア以外に人を好きになることはない」
「ルーイ……!」
ペトラが窘めるように言うが、ルーイは意に介さない。そんな二人を横目に見て、バーデン伯爵は一つ頷く。
「二人の気持ちが同じ方向へ向いているのなら、試しに婚約してみるというのはどうだろうか。あくまで婚約だから、互いに結婚が難しいと感じたら率直に申し出てもらって構わない」
バーデン伯爵の提案に、アマンド子爵はエアを振り返る。
「エア、どうだ。お前が決めて構わないぞ」
エアはルーイをそっと見つめた。ルーイはやはり、静かにエアを見つめている。期待を押し付けるようなプレッシャーも、頷けと言いたげな威圧も感じない。
「……結婚するまでに、婚約を解消したいと思う事があったらしてもいいってことですか?」
「そういうことだね」
バーデン伯爵が頷く。都合のよすぎる条件に思える。何か考えがあるのか、それとも本当に当人同士の気持ちだけを考えてくれているのか。分からないが、エアは一瞬の間を置いて、頷いた。
「じゃあ……分かりました。婚約、します。よろしくお願いします」
エアが頭を下げると、両親も同様に頭を下げた。頭上に、バーデン伯爵のどこかホッとした声が降ってくる。
「そうか。ありがとう。――こちらこそよろしく頼む」
バーデン伯爵家の人々が、揃って頭を下げたことが分かった。
互いに頭を上げた時、エアはルーイと目が合った。
片方だけの目。それでも彼は、美しい。
その瞬間に思った。
――私はこのまま、ルーイと結婚する。
結婚のことなんて全然考えられない、そう思っていたはずなのに。
この時、エアはそう直感した。
こうして、エアは十三歳で婚約者を得ることになった。
お読みいただきありがとうございました。
色々とツッコミどころはあると思いますが、書きたい事をどうにか
形にしたものなので、粗はたくさんあると思います。
広い心で見守っていただけると幸いです。