古典物理学の基本であるニュートンの運動方程式について考察しよう
公歴796年7月14日 天気 晴れ 気温・湿度 測定不可
どうやら四条満として生きていた私は今世では伯爵家の令嬢であるシルビア・マーガレット・ジュールに生まれ変わったようなのですが、一つ問題があります。
何の運命か、前世は男だったのが今世では女性として生を受けたことです。正直それだけでもびっくりなのですが、それ以上に驚いたことがあります。
いまだ4歳でありますが、軒並みの家の中にある本をひっくり返しても物理学の書物が一切ないのに驚きいたのです。数学に関してはある程度進んでいるようで、数学的帰納法が用いられて証明された二項定理、積分立法数合計の証明が既になされ、1次関数、2次関数の解法方法と、3次関数の幾何学的解法が提唱されている本もありました。
物理学の骨子を支える微分積分は基本こそそろっていたため、地球でいうなれば紀元1200年代の数学水準を持っているといえるのかもしれません。ですが、かつて卒業研究にて取り扱った材料力学の研究を行えるのかどうかが怪しいのです。
これは古典物理学ともいえる運動方程式の提唱から始めないといけないのかもしれません。正直気が進みませんがやるしかないようです。
パタンと日記を閉じ、万年筆の形をしたペンをペン置きに静かにおくと、思わず桜色の瑞々しい口からため息をつく。
シルビアは父親から翠目を受け継ぎ、母親からは美しいプラチナブロンドヘアを受け継いだ彼女は、遠目から見れば数え年で4歳となるかわいらしい幼女だった。
父、母双方とも整った容姿をしているため将来は約束されているだろう。
なお余談だがプラチナブロンドはかつての飢饉における食糧難による遺伝子変異が原因という説がある。
しかしそんな幼女は今。
「リンゴの質量は一般的に300gであるといわれている。これはおおよそ3Nである。そして実験で重力加速度が0でないことは余裕で証明できるはず。また第1、第3法則についても実験で証明できるはずだが、実験を行うにしても実験手法はどうするべきだろうか?」
きわめてわけのわからんことをつぶやいている。が、一つ一つのことを紐解いていけば何のことは無い。シルビアはニュートンの運動に関する3つの基本法則を実験によって証明しようとしているだけだった。だが4歳の女児が行えることは限られるため、大人の手助けを借りるしかなかった。が、手助けを借りる前に実験手法を設定しようと思いいろいろと考えている段階だった。
実験目的として重力加速度をなんとか求めようとしているのだが、実験において求めようとしても正確な時間を測定する手法がないに等しかった。決まった距離を物体を落下させることにより平均速度を求める。即ち、移動距離xを時間で微分すれば良いためdx/dtとし、それが速度vとなる。そして加速度を求めるにはさらに時間微分を行うとdv/dtとなる。速度vを時間で微分することによって加速度aがもとまる。
だが、単純に物を高い場所から落として終わりというわけでは無い。空気抵抗と言う外乱が加わるため重力加速度を単純な落下運動で求めるには難しい。重力加速度を落下運動で求めるならば、厳密な真空の状態で落下運動を行い計測を行う必要がある。
「そもそも時間を図る手法が砂時計、火時計、日時計、水時計って……正確にどうやって時間を計れと⁉︎古典的なものしか無いじゃないですか!機械式時計すら無い、さらには真空ポンプとか真空容器が無いから真空状態を作る事が出来ない!」
さきほど閉じた日記帳の隣には、山のように積み上がった計算用紙と論文の書きかけの原稿、そしてまっさらな新しい紙が100枚単位で置いてあった。
「万有引力が存在する事を証明するには様々な事件手法が考えられるけど、地面を巨大な物質であると考える時、物干し竿を上から落ちていくというのは、地面とその物体が互いに引き合っていると言う事が考えられる。そして引き合っているのにも関わらず地面が動かないのは、十分に地面が落ちてくる物に対して多大な質量を保有している。その為に地面の位置が変位したとしても我々が知覚できない程の量だと思われる」
「だけどひとまずは、慣性の法則と運動方程式、そして作用・反作用の法則を導出するための実験ですね。幸い私が生まれたこのジュール伯爵家は貴族のどの派閥にも属せずに数学の研究を長年の間行なっている研究者の家系。物理学がどのような影響を齎すか分からずとも研究の反対等は起きないでしょう。」
そう結論付けた彼女は改めて実験の計画を考える。
「やはり最初に定静的な主張を行ってから経験則としてまとめた方がいいでしょうか……ですが理論を補強するための実験を行いたいところではありますね」
うーん、うーんと彼女が頭を抱えるのも仕方がない。ガリレオ・ガリレイなど自然物理学者の先駆けのような人物がいまだ存在しない状態で自然物理学の提唱を行おうとしているのだ。先駆者は何時も苦労するというのはあながち間違ってないと考える。
ちなみにこの時代の普通の人から見たら、『なんか変なことを考えてる奇人』にしか見えないだろう。まぁ研究者は案外そんなもんである(研究室の教授を見ながら)
しばらくうーん、うーんと知恵熱を出しそうな勢いで思案している彼女だったが、何か思いついたか両手をポンと叩き何かを思いついた表情を表した。
「そうだ!ひとまず万有引力の存在を証明することから始めましょう!針金のような物はありますから、それにねじり天秤で大きいものと小さいものの間に力がかかっていることを証明できるはずです!」
彼女がやろうと思ったのは18世紀にイギリスで行われた質量間に働く万有引力の測定と地球の比重測定を目的として行われた実験であるキャヴェンディッシュの実験を簡易的に行おうという事である。これは大きな重い鉛と小さい鉛の球の間にどれ位の力がかかっているかを測定する実験であった。理論的にはいたって簡単で、大きい鉛球を円周上に固定して置きその同一円周上に小さな鉛の小球を設置し、その鉛の小球を接合したねじり天秤を配置する。
そして、あらかじめその鉛の小球付きねじり天秤に外力をわずかに加えてしばらく観察したときそのねじり天秤がどのくらいの周期で振動するかを観察する。そのねじり天秤の固有周期、そしてねじり天秤が支えるアームと小さい鉛小球の合計質量が判明すれば、ねじり天秤のワイヤーが小さい鉛小球がついているアームに及ばすトルクを計算することができる。
なおここで運動方程式を使用するが、本小説では説明は省かせていただく。が、周期とねじり天秤の重さが分かり、それによってねじり天秤の変位によってどれほどのトルクが働くかが判明するため、小さい小球に働いているであろう力を求められるということは自明の理と言えるだろう。
「うーん……この実験結果から万有引力が測定できたはいいとして、その先。この実験にあたって万有引力があるというのは証明できる。けどなぜその値になったのかという有力な仮説として運動の法則を盛り込むのがいいかもなぁ……うん、そうしよう!」
そういうと彼女は思い立ったが吉日とばかりにいつの間に寝っ転がってたベットから飛び降りてサイドテーブルに積んであった大量の紙のうちの一部を抱えドアを開けると軽い足音を立てて走り去っていった。
しばらくして。
「シルビア様、いらっしゃいますか?」
ジュール伯爵の館で働いている侍女の姿をした女性が入ってきた。彼女はちゃんとしたメイドで、学も相当な物である。というかシュール伯爵の付き人に関しては結構な学が要求されることもあるため生半可なものでは務まらないこともあるのだ。何せ当主や奥方が侍女などに唐突に意見を求めてくるからである。
そんな彼女はシルビアお付きのミリア・シェリーである。彼女は平民の出だが、比較的裕福な商家に生まれ教育を受け、紆余曲折あり数学者を目指した。が、思ったより良い結果を残せず苦しんでいたところを、王立数学会長を務めていたジュール伯爵当主フランク・H・ジュールに拾われ紆余曲折あって侍女を務めている。
ミリア・シェリーは今仕えているシルビア・マルガレータ・ジュールについて意識を馳せていた。仕事であるからもあるが、最近屋敷の中をふらふらと歩き回り少し危険ではないかとのことで侍女長に目を離さないように言われ、少し足早でシルビアの自室へ来た。そうしたらいつの間にかもぬけの殻になっていた。もう彼女は頭痛が痛いと言いそうな顔で花がしらを揉みこむ。
「シルビア様……探さなければ。階段から落ちたりなんかしたら……!あぁ怖い!急いで……ん?これは紙ですね。なぜこのように束に置いてあるのでしょう?シルビア様……が…………」
何気なく手に取った紙には様々な実験手法のメモ、そしてその実験手法の簡単な推測出来うる理論式が乱雑に書かれていた。がどれもこれも最後は行き詰ったのか式変形が途切れていたものばかりだった。
が、数学者を志していた彼女にとってはまさに宝の山も同然だった。かろうじて理解は出来るが、それに至った過程が分からない。もはや自分が手出しできる次元ではなかったともいえるだろう。
「もしやシルビア様はいわゆる天才では?御年4歳でしたはずでしたが……」
彼女は自身との差に打ちのめされかけ、つい。
シルビアが書いた式の微分を試行錯誤で計算している紙を一枚……ポケットにしまった。