9.彼女と僕と、優しさ
神社参拝を再開した百瀬正志。
未だに癒えぬ傷を抱えながらも、佐藤奏の優しさに惹かれていっていた。
あの良く晴れた日から僕は神社参拝を再開した。
奏は毎朝、神社の鳥居の前で待っていてくれた。雨の日も、晴れの日も、名残り雪がちらつくの日も。
そして、少しずつだが、僕の世界は色を取り戻していった。
始めは、神社の鳥居。こんなに赤が濃かったかと思う程鮮やかに見えた。次に、参殿の鈴。鈴は、金色と言うには、くすんでおり、銅色に近かった。
きっと僕は奏に会える事が嬉しかったのだと思う。
依然として、僕は背負いきれない負の感情を封じているが、僅かにその質量は軽くなってきたのではないかと思う。
奏の優しさと笑顔が少しずつ僕の心を癒してくれている。
いつか、彼女に僕の想いを曝ける日が来るのだろうか。もし来るのであれば、僕は苦しみの渦から解放されるのだろうか。
しかし、そんな期待感とは裏腹に、立花がいなくなったという現実は、やはり受け入れ難いものがあった。
いつか立花はいなくなる。
その覚悟は出来ていなかったにしても、それは近い未来にやってくるだろうと理解はしていた。ただ、僕はその事を恐れ、運命を間延びさせていたのだ。
何も変わらない日々を願い、立花の気持ちを、自分の気持ちを封じてきた。その報いがこれなのだろう。
当然、その報いを僕は受けるべきだと思う。
しかし一方で、その報いに反抗するように、「もしもあのとき——」という思考も湧いていた。
もしもあのとき、立花を病院へ行かせなかったら。
もしもあのとき、自分もついて行っていれば。
もしも立花の話をちゃんと聞いていれば……。
過去が変われば、「今」も変わっていただろうか。
僕の頭の中には負の感情とそれを受け入れたくないという思い、そして、現実味がない「もしも——」が渦巻いていた。
「おーい。正志君。聞いているの?」
奏に呼ばれ、僕は「もしも」の世界から意識を取り戻した。振り返ると、神社の鳥居の前で、彼女は立ち止まっていた。
「あ、ごめん。奏。っで、なんだっけ?」
僕らはいつの間にか、互いの事を名前で呼び合うようになっていた。それはとても自然な事で、僕らはとにかく気が合った。波長が合うと言っていい。
奏といると、心が和むのはもちろん、彼女は僕のくだらない冗談で良く笑ったし、僕も釣られて笑った。調和のとれた僕たちの会話は、間の取り方も丁度良く、考え方もよく似ていた。彼女の口癖は、「それ、私も今思ってた」だった。
ただ、時々、僕が思考の世界に浸ってしまう時があり、そのときは彼女が引き戻してくれた。
「もしも未来と過去、行けるならどっちがいいかって話だよ」
そういえば、参殿で鈴を鳴らしている時、「毎日、何を願っているの?」と奏に訊かれた。僕は「未来が続く事」と答えた。
それは僕の本当の願いなのか分からないが、祖父にそのように念じるのだと言われた。そして、それは「願い」ではなく「誓い」だとも言われた。自分が未来を紡いでいく事を誓う。
そこから、僕らは未来か、過去か、どちらへタイムトラベルをしてみたいかという話になった。僕は、少し考えた振りをしてから答えた。
「そうだったな。えっと……俺は、か——未来かな? どんな大人になったか見てみたい」
一瞬、「過去」と答えそうになり、焦った。別に「過去」と答えても良かっただろうが、また立花の事を思い出してしまいそうで辛かった。
「ふうん。大人ねぇ……」
奏は感慨深げに遠い眼をした。だけど、口許は緩んでおり、僕は勝手に、彼女がふたりの明るい未来を想像しているのだろうと思う事にした。
「奏はどっちがいいんだ?」
「私は、過去に戻りたい」
即答だった。
未来を想像していた割に答えが、「過去」だった事に驚いた。しかし、僕の「なんで?」という問いに対し、奏は少し恥ずかしそうに答えた。
「やり直したい事が幾つもあるんだもん。二学期の期末テストもやばかったし、この前のクッキーしょっぱかったでしょ? 分量間違えてたんだよね。もう最悪」
そう言って、頭を抱える奏は微笑ましかった。つい、僕も頬が緩んでしまう。
「確かにちょっとしょっぱかったけど、ほんのり甘さもあって、おいしかったぞ」
「それ、慰めてくれてるの?」
奏は心配そうに僕を見上げた。僕は彼女の潤んだ瞳に弱い。
「褒めてるって。ホントおいしかったから。また食べたいくらいだし」
「そう? なら、良かったけど」
奏は安心した様子で、顔を上げると、数歩離れた僕に駆け寄ってきた。そして、上目遣いで僕を見つめる。
「ところでさ。今度の日曜日なんだけど、時間ある……かな?」
なぜか頬を赤らめる奏を見て、僕の胸が高鳴り始めた。顔が熱くなり、思考が上手く回らなくなる。
僕には日曜の予定など思い出せなかったが、彼女の誘いよりも大切な用事はないと思った。
「たぶん暇。いや、絶対暇。つーか、俺、神社くらいしか行くところねぇし」
「それはそれで、寂しくない?」
「いいの。俺はね、お爺ちゃん高校生だから」という僕のくだらない冗談に、奏は「なにそれっ」と楽しそうに笑った。
笑いが落ち着くと、愛くるしい表情を向けて「ちょっと付き合って欲しいところがあるんだよね」と彼女は言った。当然、僕の返事は決まっていた。
「あ、ああ。い、いいぜ」
僕は、格好付けようとして気障っぽく答えたが、逆に引き攣ってしまい、何とも滑稽だった。そんな僕を彼女は嘲笑する事もなく、素直な心で感謝を述べた。
「やった! 正志君、ありがと」
とても嬉しそうに飛び跳ねる奏を僕は愛おしく思った。
立花がいなくなり、僕は心の隙間を奏で補おうとしているのかもしれない。もしそうだとしたら、僕はなんて薄情な奴なんだろう。幼馴染を亡くし、その癒しを他の女の子に求めている。
しかし、立花と、奏は別の人であり、一度開いた穴は塞がらないという想いもある。
きっと奏もそれを感じていて、彼女は僕の穴を塞ごうとしているのではなく、穴から「何か」が漏れ出ていくのであれば、それを上回る優しさを注ぎ続けようとしてくれているのかもしれない。
それは終わりの見えない作業を永遠に続けているようなものだ。最後には徒労感しか残らないかもしれない。自分の優しさが報われる事はないかもしれない。
それでも奏は、僕に優しかった。
神社では、つい願ってしまいますね。
『幸せになれますよーに』って。
別に不幸せな訳でもないんですけど(゜ω゜)