8.彼女と僕と、橙色
桜坂立花の死から1週間後……。
百瀬正志は世界の色を失っていた。
僕が玄関でスニーカーを履いていると、母がわざわざうちの奥からやってきた。
「どこ行くが?」
僕は答えるのも煩わしく、無視をして靴紐を結んだ。何も答えようとしない息子に、母はもう一度質問を重ねた。
「神社け?」
僕は立ち上がると、言葉の代わりに一度だけ頷いた。それを見た母は、安堵か、諦めか、ため息をひとつ吐き、「気を付けていかれよ」と言って、自宅の奥へと戻って行った。
2月も半ばを過ぎ、寒さは峠を越え、南風が吹く日には、春を予感させる日もあった。一週間ぶりに外に出ると、不運にも空が高く澄んでいて、いつ着替えたのか分からないジャージーのズボンと伸びたスエットだけでも寒さは感じなかった。
澄んだ空の下に出ると、気が滅入った。
今が何時なのか分からないが、陽は随分と高くなっていて、影が出来る程僕を照らしていた。
自転車でさっと行ってしまえばいいのだが、なぜか乗る気にはなれず、徒歩で神社へと向かうことにした。きっと神社参拝を怠った自分への戒めのつもりなのだろう。我ながら愚かな考えだと思った。
僕は色をなくした世界をひたすらに歩いた。神社へ行く道とは敢えて反対に進んでみたりもした。広い世界の狭い町は、どこまで行っても色はなかった。光と影だけがあって、陰影によって町は形作られていた。
どれくらい歩いただろうか。どこを歩いてきたのかも分からない。距離感と時間の感覚が完全に狂っていて、気付いた時には神社の鳥居の前にいた。赤いはずの鳥居も色がなかった。
僕は体に沁みついた作法で、鳥居の前に立つと頭を下げた。これには何の意味があったのだろうか。
手水舎に行くと、水盤から溢れ出る水を眺めた。無色透明な水の動きがよく分かる。上から下へと流れ落ちていき、せせらぎのような音が聞こえてくる。
その音に聞き入っていると、徐々に音が籠ってきた。もわん、もわん、と意味不明な音になっていく。僕はなぜここに来たのだろうか。
当然、神社参拝は僕の本意ではなかった。
行きたいと思わないし、行きたくないとも思わない。亡き祖父が幼い僕を連れて行った事がきっかけだ。
その時の祖父は、僕が囚われたように毎日参拝するようになるとは思わなかっただろう。そう。これは病気なのだ。幼馴染が死んでも止められない病気なのだ。
僕の幼馴染——桜坂立花は死んだ。
いつもより時間をかけて参拝をしたせいか、帰りに鳥居を潜ると、陽が傾いている事に気付いた。
西の空には神々しい光源があり、鋭い角度で町を照らし、影を伸ばしている。いっそのこと早く沈んで欲しいと願うが、願いが強くなればなる程日没は遠くなり、未練がましく僕を照らし続けた。西日は僕を憂鬱にさせた。
いつもの癖なのか、僕は東側の橋へと向かわず、神社の前の坂を下り、半分崩落したままになっている南側の古い橋へと向かった。
橋の前には、通行止めを示す縞模様の鉄パイプが道を塞いでおり、危険を知らせている。その光景は、「踏切」によく似ている気がした。
どこからか高い電子音が聞こえてきた。それはまるで、電車の通過を知らせる遮断音のようだと思った。
誰もいないはずなのに、人の気配がして、横を見ると、僕の肩程くらいにふわりとしたまあるいショートヘアが見えた。
髪が揺れ、少女は僕を見上げた。
彼女に表情はなかった。一切の感情を含まず、少女は前を向きなすと、歩き出した。
遮断音が激しく鳴り響き、どこからか轟音のような走行音が聞こえてきた。
少女は足を止めず、頼りない肩を揺らし、踏切へと吸い込まれていく。僕は何とか引き留めようと手を伸ばした。
しかし、彼女の手に触れるどころか、僕の身体は冷えて凍り付き、身動きが取れなくなった。そうしているうちに、少女は縞模様の遮断棒を潜り、踏切内へ入った。
電車が近づいてきた。眩いヘッドライトが少女を照らし、割れるような警笛を鳴らす。
しかし、少女は動かなかった。じっと僕を見詰め、最期の瞬間を待っている。
僕は何か言わなければと思い、口を開くが、空気を吸い込む事は出来なかった。ここが深海なのかと思う程、胸が苦しく、腹部が圧迫されていた。
息を吸おうとすれば、むせる事も出来ず、海水が気道の中に入り込み、冷たい水で肺を満たした。そのまま、命が絶てれば楽なのに、彼女の最期をその眼で焼き付けろと言わんばかりに、僕の命を間延びさせた。
電車は巨大過ぎる身体を猛進させ、速度を緩める事もせず、少女に迫りくる。
そして、電車が少女の華奢な身体を攫う瞬間、少女の口が僅かに動いた。音は聞こえなかったが、僕には何を言ったのか分かった気がした。
百瀬君——!
いや、違う。少女はそんな言葉を言ったんじゃない。
そう思ったが、僕の名前を呼ぶ声は、再び聞こえてきた。
「百瀬君——!」
とても澄んだ声だった。まるで今日の空のように高く澄み渡っていて美しい。いつまでも耳を傾けていたくなるような声だった。
そして、同時に僕の右手に熱が伝わってきた。ほんのり温かく、柔らかい。いつまでも触れていて欲しいと願った。そうすれば、僕の凍り付いた精神を溶かしてくれるだろう。
「百瀬君!!」
今度ははっきりと聞こえた。
僕のすぐ傍で誰かが呼んでいるのだと分かると、目の前の踏切は消え、代わりに一歩先には、崩落した橋があり、数メートル下の淀んだ濠が見えた。
僕の足先に当たった小石が転げ落ち、数秒後に小さな波紋を広げた。右手に意識を移せば、一回り小さく柔らかな手が僕を引いていた。
「百瀬君ってば!」
僕はその声と柔らかな手に誘われるように振り返った。
そこには彼女がいた。
さらりとした髪は長く、ダブルのブレザーを着ていて、上着は相変わらず羽織っていないが、今日はなくてもいいだろう。
彼女の制服は、僕が通う工業高校ではなく、北部高校という進学校のものだ。そして、何より、首に巻かれた大き過ぎるマフラーは見覚えがあった。
北高の少女——奏は、僕の手を懸命に引っ張っていた。僕がその手に従い、崩落した橋から離れると、奏はようやく安堵の表情を浮かべた。
「ふう……。びっくりした」
どうやら僕は幻覚を見ていたようだ。その幻覚に誘われるまま、崩落した橋へと歩みを進め、濠に転落しそうになった所を彼女が救ってくれたのだろう。
しかし、そんな事を冷静に考えられるほど、僕の心は穏やかではなかった。いや、逆に静か過ぎるのかもしれない。僕の心は何も感じなくなっていたのだ。だから、感謝の言葉も述べられず、生気のない声を返した。
「ああ。なんや?」
「なんや、じゃないよ。もう……」
奏は呆れた様子だったが、何かを悟ったのか、それ以上この件に関しては何も言わなかった。代わりに、少し笑ってから、背伸びをして僕の頭に手を載せた。
「ここ、寝癖なってるよ」
「ああ」
奏は僕の頭を優しく撫でつけ、髪を整えると、首を傾げて僕の顔を覗き込んだ。
「なんか、眠そうだね」
「ああ」
僕は、まるで機械のような血の通っていない返事を返した。いや、もしかしたら、機械や人工知能の方が、もっと感情的な言葉を返せるかもしれない。それでも奏は僕に話しかけ続けた。
「この橋、渡れないよ」
「ああ」
「今日はもう神社に行ってきたの?」
「ああ」
「そっか。じゃあ、東側の橋を渡って出よっか」
「ああ」
奏は再び僕の手を握った。彼女の手は小さいけれど、温かくて、柔らかかった。それでも僕の心を解すにはまだ時間が必要だった。
その時の僕は、なぜ奏がこの場にいたのか考える事も出来なかった。
後々になって、もしかしたら、奏は僕が神社参拝を休んでいた一週間の間、毎日、ここで待っていてくれたのだろうかと考えた。
しかし、それにしても今日は時間が大幅に異なっているから、たまたまここを通りかかっただけなのだろうか。いや、こんな時間に半分崩れた橋に来る用事など見当もつかない。
結局のところ、彼女が来た理由は分からなかった。
僕は子供のように手を引かれ、東側の橋までやってきた。僕の前では、黒い長い髪がずっと揺れていた。
たぶん、西日を浴びて煌びやかに輝いているのだろうが、色を失った僕には何色に輝いているのか、分からなかった。
橋の中間くらいに来ると、僕は立ち止まった。不意に手に抵抗を感じた奏も立ち止まり、振り返る。
「疲れたの?」
いつも奏の言葉は綺麗だった。彼女の訛りの少ない言葉遣いは、新鮮で、美しい。
「あのさ……」
対して、僕の声は小さく、掠れていて、頼りなかった。
「なあに?」
奏は手を握ったまま首を傾げた。色はなくても、彼女の優しい顔は眩しかった。そんな彼女に甘えるように、僕は質問を投げかけた。
「何も訊かないんか? 一週間も休んだし」
自分自身でも何が言いたいのか分からなかった。
これでは、自分に構って欲しいだけの幼児のようだと思ったが、奏はそんな子供のような僕に、優しい眼を向け続けた。女性的だが、母性はなく、愛おしむような眼だった。
「訊かないよ。だって、言いたくないんでしょ」
奏の手に力が入った。僕は心意を上手く体現できない人を良く見てきたから分かる。その言葉に、彼女の優しさは込められているが、心意は含まれていない。
「そういう訳でもないけど……」
僕は今の心境を誰かに言いたくない訳でもなかった。むしろ、吐露してしまった方が楽な気がした。ただ、きちんと言葉に出来るのか不安はあった。
再び奏の手に力が入った。そして、少し引かれた。
僕が一歩前に出ると、春というには寒すぎて、冬というには暖かすぎる乾いた風にのって甘い香りが漂ってきた。奏は顔を上げ、潤んだ眼で僕を見上げた。
「じゃあ、訊く。訊かせて。百瀬君の気持ち」
それは奏の本心だと思った。
自惚れかもしれないが、彼女は僕を心配してくれていると感じた。
いいや、自惚れでもいい。
彼女の優しい表情や潤んだ瞳を見ると、僕は全てを曝け出せるような気がした。彼女の優しさは、僕の荒んだ精神を受け止めてくれる。拙い言葉に耳を貸してくれる。根拠はないが、確信的にそう思った。
そんな事を思ったのは、僕が未熟だからだろうか。独りよがりの子供だからだろうか。心の拠り所を失い、次なる安楽地を求めているだけなのだろうか。
もしそうだとしたら、やはり僕は軽薄で、薄っぺらで、中身のない人間だ。女性に癒しを求めるだけの腑抜けだ。
しかし、凍り付いていた僕の心は少しずつ溶け出し、蓋を閉ざしていた感情が蘇りつつあった。だから、僕は感情に任せて、口を開いた。
「幼馴染が——」
僕を見る奏の眼は依然として優しかった。僕の話を懸命に聞こうとしている。
「立花が——」
しかし、僕はやはり腑抜けだった。
言葉を繋げようとすると、頭の中で機械的な遮断音が鳴り響き、僕の思考を乱した。
自分の想いを口にしてしまうと、本当に立花が居なくなったことを認めてしまうような気がして言葉が怖く感じた。
目の前の奏は僕の気持ちを受け止めてくれるという確証はあるのに、僕自身が受け止めきれていなかった。
そして、開いた口は固まり、ため息と共に別の言葉が出てきた。
「やっぱり、いい……」
「そっか」という奏の顔は悲しそうだった。握っていた手も力が抜け、今にも解けそうだった。
僕らはそのまま東側の橋を渡り切った所で分かれた。
手を解いた後、奏は数歩進んでから立ち止まり、振り返った。そして、「そういえば……」と言って、再び僕のもとへ駆け寄ってきた。
「忘れるところだったよ。一日遅れちゃったけど、これあげるね」
奏がそう言って、ブレザーのポケットから取り出したのは、小さな菓子袋だった。袋の口はドッド柄のマスキングテープで留められていた。
「手作りなの」と恥ずかしそうに言って笑った彼女の顔は、まだあどけなさがあった。そして、去り際の彼女の髪は、沈みゆく陽の光を浴びて、橙色に輝いて見えた。
それが久しぶりに見た色だった。
奏が見えなくなると、僕は手の内に収まる菓子袋を見た。封を開けてみると、中にはクマの形をしたクッキーが入っていた。
かじると、甘くなく、少ししょっぱかった。
所々に振ってあるフリガナは、もはや自分用ですな('ω')ノ
「あれ、これ何て読むんだっけ?」ということが多々ありまして。