6.幼馴染と僕と、一本の電話
発表会の帰り道。
小振りの雪のなか、百瀬正志と桜坂立花は、微妙な距離を保って歩いていた。
雪は小振りになっていた。そのおかげか、積雪は変わりなく、むしろ、人が通った足跡が重なり、歩道の雪は減っていた。ただ、冷え込みは増したようで、雪解け水に薄い氷の膜が張り始めている。
僕らは、市民文化会館を出た後、来た道を戻るように踏切を越え、駅方面へと足を進めた。19時を回ると、古城跡地の東側を通る県道は、交通量が減り始め、ざらついたタイルで加飾された幅広の歩道にも、ほとんど人がいなかった。
僕と立花は等間隔で灯っている街灯を頼りに、横並びに歩き、微妙な距離を保った。
少し手を伸ばせば、すぐそこに立花の手があったが、決して触れ合う事はなかった。互いに赤く悴んだ手をしているが、温め合おうなどとは思わない。
立花はまた不機嫌だった。
古城跡地を通り過ぎ、歩道が途切れる手前で、急に僕の視界の隅で捉え続けていた立花が消えた。僕は慌てて、足を止め、顔を横に向けると、立花は凍り始めた地面に足を滑らせて、尻餅をついていた。普段なら、盛大に笑ってやるのに、今はそれをしてはいけない気がして、代わりに、珍しく優しさをみせた。
「立花。大丈夫か?」
僕が身体を屈め、立花に手を差し伸べたが、立花は僕の手を見る事もせず、不平を吐いた。
「大丈夫の訳ないやろ」
「そんなに尻、痛いんか?」
「だら」
僕には、立花が尻餅の事を言っているようには思えなかったが、代わりの言葉が思いつかなかった。
立花が不機嫌になっている事に関して、心当たりがないわけでもなかった。しかし、それを言ってしまうと、ふたりの関係性に歪みが生じてしまうような気がして怖かった。
「立てるか?」
「立てんわ」
立花は冷たい地面に座ったまま、顔を下げた。ふわりとしたショートヘアがしぼんで見え、小振りの雪が彼女の頭や肩に落ち、白く染めていく。
僕はどうしたらいいのか分からず、もう一度だけ声をかけた。
「手、貸そうか?」
「いらんわ」
立花がかぶりを振ると、頭の雪が舞い、四方へと散った。そこでようやく立花は大きなため息を吐き、立ち上がった。僕は彼女の肩の雪を払おうと思ったが、手が凍り付いて動かなかった。今の僕が彼女に触れてはいけない、そんな気がした。
立花は再び歩き出し、僕は数歩下がった距離を保ち、後に続いた。
歩道が途切れた所で、僕らは古城跡地に沿うように角を曲がり、細い道へと入った。この道は、まだ通行止めになっている南側の赤い橋へと続いている。カラオケ喫茶「みちづれ」へ行くときは、その手前を再び曲がり、アーケード街へと進めばいい。
県道から離れて、数メートル進んだ所で立花は立ち止まった。頭上で頼りなく灯る街灯が彼女を照らしている。
「ねえ、どうしたの、とか聞かんが?」
立花は僕に背を向けたままそう言った。僕も立花から数歩離れた位置で立ち止まり、言う通りに訊いた。
「何かあったんか?」
「何もない」
何もない訳ないが、彼女はそう言った。僕は面倒くさいとは思わなかった。彼女を不機嫌にさせたのは、自分自身であると自覚していたからだ。しかし、その原因を自ら口にするほどの勇気はなく、気のない言葉を返した。
「なら、言わせんなよ」
「何もないけど、何かある」
「意味わからんし」
「うちだって、分からんわ。胸の辺りがモヤモヤして、気持ち悪いが」
立花の痛々しい言葉が、僕の胸を突いた。
僕らは近づき過ぎてはいけない。だけど、誰よりも近くにいなくてはいけない。その矛盾が僕らを混乱させた。
幼馴染である以上、誰よりも共に過ごした時間は長い。友達よりも親身だけど、恋人のように甘い関係になってはいけない。家族のように寄り添ってはいけない。それは誰が決めたわけでもない。僕ら自身が勝手に決めた暗黙のルール。
しかし、成長した僕らが、そのルールを順守する事は難しくなっていた。ふたりの関係性が限界に近づいていたのだ。
それでも、僕はこの関係を守りたいと思ってしまう。それは立花も同じはずだと思っていた。
「あの子のこと、好きなん?」
立花の小さな背中が震え、唐突にそんな言葉が聞こえてきた。それは僕らのルールから逸脱した問い掛けだった。彼女は関係性が崩れる事を恐れる一方で、自分の気持ちを押し殺し続ける辛さも感じていたのだろう。
しかし、僕はそんな彼女の気持ちを分かっていながらも、真摯には向き合えず、曖昧な言葉を返すことしかできなかった。
「別に」
「じゃあ、嫌い?」
もう一度立花の肩が震えた。寒さではない。自らの気持ちと僕の答えを恐れるあまり震えたのだろう。僕にはない勇気を彼女は持っていた。それなのに、それに応える事は僕には出来ない。
「だから、そういうのじゃねぇって」
「やっぱり、好きなんだ?」
「なんでそうなるんだよ。俺とあの子は——」
何なのだろうか。
友達と呼ぶには、お互いの事を何も知らな過ぎる。知人というには、親し過ぎる。知人以上、友達未満なのだろうが、僕の心は友達以上を求めていた。
もしかしたら、あの子もそう感じているのではないかという、自惚れのような思考が僕を満たしていた。
僕が言葉に詰まり、黙り込むと、立花は大きく息を吐いた。白い吐息が街灯に照らされ、空へと上がっていく様子が良く見えた。冷え込みが一段と強くなっている。
立花はしばらく何も言わず、漆黒の空を見上げた。小振りの雪が彼女の頬を濡らし、小さな背中が震えた。感情を堪えるために強く握られた拳は、赤くなっている。僕はそんな彼女の後ろ姿を見るのが辛くて、俯いて濡れたアスファルトを見た。
僕らは見詰める先が違ってきた。それがいつからなのか具体的には思い出せないが、徐々に変化してきたのだろう。いずれ、其々の道を進む。そのために立花はふたりの関係がどこに行き着くのか知りたいのだろう。そうしないと、彼女は前に進めないのだ。
僕自身も立花に幼馴染以上の感情を抱いている事は気付づいている。それなのに、その責任と重圧に耐えきれない。僕の脆弱な精神は、運命に流される事を恐れ、未だこの場所に留まろうとする。そのせいで、未来が淀んでも、彼女は許してくれるだろうと甘んじているのだ。
遠くで車が走る音が聞こえてきた。沈黙が痛く、早く立花が僕を許す言葉を発してくれるのを願った。その願いが通じたのか、立花は鼻を啜り、袖で目を擦ると、振り返った。
「あのさ——」
薄暗い街灯に照らされ、雪が舞う中で立花は笑っていた。全ての感情を押し殺し、ふたりの仲をはぐらかせて、先に進もうとする自分の足を引っ張る僕を許した。
やはり彼女は優しい。そして、僕は残酷な人間だ。
「バレンタインなんやけど」
立花が話題を換え、僕は思わず、安堵の声を返した。
「ああ、来週やな」
僕らにとってバレンタインとは、それほど重大なイベントではなかった。本来は女性が自分の想いをチョコレートに託すのだろうが、幼い頃からやり取りをしている僕らは、単に菓子を交換する日でしかない。
「正志は、何が良い?」
「バレンタインっていったら、チョコやろ?」
立花の問いに、僕が当然の答えを返すと、彼女は少し頬を膨らませた。
「正志、チョコ食べんやろ。代わりに何が良いか、聞いとるんやぜ」
僕はチョコレートが苦手だった。というより、甘い物全般が苦手だ。
「いつもと同じで良いわ」
「いつもと同じって、クッキーでいいが?」
「ああ。クッキーでいい。クマの形のヤツな」
「分かった。じゃあ、作ってあげっちゃ」
僕は立花の作る菓子ならなんでも良かった。彼女がチョコレートを作るならば、喜んでそれを食べるだろう。立花の菓子は何でも甘かった。
僕が再び歩き始めようとすると、立花はそれを制止して、最後に念を押すように言った。
「言っとくけど、義理やからね。義理! 勘違いすんなよ」
そう言って頬を赤らめる立花はもういつもの彼女だった。誰にでも愛想が良くて、いつも笑っている普通の女の子。
その笑顔の陰に辛い想いが隠れているなんて、誰が思うだろうか。「百瀬正志」という足枷を引き摺り、幼馴染という呪縛に囚われている。それから解放してあげられるのは、他でもない僕だ。たった一言、彼女に言葉をかければ、それで済むのに、そうしないのは僕が不甲斐いせいだ。いや、彼女の事を蔑ろにしている自己中心的な考えのせいだろう。
僕もそんな考えを直隠し、いつものように言葉を返した。
「分かっとるわい」
僕らが歩き始めて、すぐの事だった。幾つか街灯を通り過ぎた所で、依然と降り続いていた雪が再び大粒になってきたので、僕らが傘を差そうとバンドを緩めた時、立花のスマホが鳴った。
立花は慌てた様子で、傘を開くのを止め、スカートのポケットからスマホを取り出す。
「誰やろ?」
首を傾げた立花が見つめる画面には見慣れない番号が並んでいた。「090」から始まってる事から、相手が携帯の番号である事は分かった。
僕が立花の代わりに傘を差し、ひとつの傘にふたりを収めると、立花は安心して電話に出た。
「はい。もしもし」
なぜか僕の胸がざわついた。もしかしたら、相手が男かもしれないという、浅はかな考えではない。何か不吉な予感がしたのだ。もっと言えば、過去に同じような事があって、その結果不運な事が起こったという記憶が蘇ってきた。当然、過去にそんな事があった覚えはない。だから、きっと僕の勘違いだろう。
「……はい……そうですけど……え? どこですか?」
しかし、胸のざわつきは治まる気配はなかった。立花の表情が曇り、むしろざわつきは増していく。
「あ、はい……分かりました。すぐ行きます」
立花が電話を切ると、僕はすぐに「誰や?」と訊いた。
「病院から」
立花は画面から目線を外さずにそう答え、僕は質問を重ねた。
「なんや、具合悪いんか?」
立花はかぶりを振って答えた。
「お祖母ちゃんが倒れたんやって」
信じられなかった。夕方に立花の祖母に会った時は、元気そのものだった。しかし、立花の深刻な表情を見ると、彼女が嘘を吐いているとは思えないし、こんな笑えない冗談を言うとは到底思えない。
「婆ちゃん大丈夫なんか?」
「命には別状ないみたい。過労じゃないかって」
「そうか。婆ちゃん働き者やからな」
「うん……」
立花の祖母は本当に働き者だった。昼前に起きて、深夜遅くになるまで、止まっている姿を見た事がない。常に何かの仕事をしていて、手が空けば、すぐに客の相手をして店内を明るくしていた。休みなどなかった。「あたしはね、マグロなんよ。回遊魚ちゅうやつかな? だから、動かずにはいられない。止まったら死んでしまうんやよ」と、いつだったか、立花の祖母が笑いながら言っていた。もしかしたら、そんな立花の祖母が倒れるのは、時間の問題だったのかもしれない。
僕は暗くなりかけた表情を無理に明るくし、すぐ傍の立花を見た。
「どこの病院なんや?」
「市民病院やって」
「近いな。行って来いよ」
立花を送り出す事が、僕に出来るせめてもの優しさであり、恩返しだと思えた。しかし、立花は歯切れの悪い答えを返した。
「うん、そうしたいんやけど……一旦うち帰らんと。お祖母ちゃんの入院セット持って行かんなんし」
そういえば「70歳過ぎたら、何時入院するか分からんし、準備だけはしとかんなんね」とも立花の祖母は言っていた。まさか、本当に必要になるとは、想像もしなかった。
「そんなん俺がとりに行ってやるわ。階段の下にあるバッグやろ?」
僕はいつになく気丈に振舞った。当然、立花の事を想っての言動だったが、もしかしたら、足枷になっている自分が時には役に立てるのだと思いたかったのかもしれない。それこそ立花の事を考えていない独善だろう。しかし、立花はそんな事には気付かず、心配そうに僕を見た。
「いいが?」
「当たり前やろ。早く行ってやれよ」
僕の不自然に力強い言葉を受けて、立花は戸惑っていたが、少し考えてから小さく感謝を述べた。
「……ありがとう」
僕はその感謝の言葉が、自分を救ってくれる気がした。散々、立花に迷惑をかけている償いが、ようやく叶ったと思った。
しかし、僕が彼女に与えている苦痛は、こんな程度で清算出来る程軽くはない。それは重々承知しているが、少し心が軽くなった。
「礼なんかいい。当たり前やからな」
「うん……。じゃあ、行ってくるね」
「おう」
僕の心は軽くなったはずなのに、雪の中へと消えていく立花の後姿を見送った後も、妙な胸騒ぎは治まっていなかった。
私の知人で、「自分は回遊魚なんです」って言っている人がいました。
いつも忙しそうで、私にはとてもマネできません(*_*)