4.幼馴染と僕と、アイス
幼馴染である桜坂立花との約束をすっぽかしてしまった百瀬正志は、彼女の機嫌をとるため、「献上品」を持って、カラオケ喫茶「みちずれ」へと向かった。
夕方、僕は朝の謝罪の意味を込めて、立花の怒りを鎮めるための献上品を買いにコンビニに立ち寄った。「しゃーせぇー」というアルバイト店員の気だるい声が癇に障ったが、まだ朝の爽快な気分の余韻が残っていたので、大目に見てやる事にした。
僕はコンビニで迷うことなく、「あたりめ」と「ハーゲンダッツ」を手に取り、レジへと運んだ。
「しゃーせー」
目の前で聞く店員の気だるい挨拶は、予想以上に不快だった。殴ってやりたいと思う程だったが、愛想の悪さで言えば、僕も人の事をとやかく言える分際ではない事は自覚している。だから、怒りは呑み込み、なるべく素早く会計を済ませた。
「あざーましたー」
もはやただ滑舌が悪いだけなのではないかと思えて、最終的には、怒りではなく、気の毒に感じた。
コンビニを出ると、黒味が強い灰色の空からは、牡丹雪がしんしんと降っていた。駅前の時計台は、16時50分を指していたが、西の空を振り仰いでも、橙色の空は残っていなかった。加えて、昼過ぎから降り続いている雪のせいで、金曜日の夕方にも関わらず人気が少なく、もう夜なのかと勘違いしそうになった。
「こりゃ、積もるな」
僕は小言を漏らし、傘を開いて、雪空の下を歩き始めた。
駅前のコンビニからカラオケ喫茶「みちづれ」までは、路面電車が走る大通りを通るよりも、路地裏の歓楽街を抜けた方が近い。歓楽街といっても、随分と静かなもので、煌びやかな電飾などはほとんどない。人通りも疎らで、時々、アジア系の外国人が客を求めているが、まだ時間が浅い事もあり、今日はそういう人もいなかった。それでも、どこからか漏れ出た香水の臭いが、アスファルトの濡れた臭いと融合して、僕の鼻を刺激した。
僕は足早に歓楽街を抜け、アーケード街に着くと、雪で白くなった傘を払って閉じた。
アーケード街は、駅前や歓楽街に比べると、人通りがあった。恐らく屋根のおかげだろう。まだ仕事帰りのサラリーマンは少ないようだったが、もう開いている店が数件あった。
路地を一本入った所にあるカラオケ喫茶「みちづれ」は、すでに開店しており、中からは優艶な歌謡曲が漏れ出てきていた。しかし、その曲調とは裏腹に、歌声はかなり貧相なものだった。
鐘の音を響かせて「みちずれ」のドアを開けると、店内の煙草の臭いを含んだ暖かな空気が溢れ出てきて、僕の冷えた体に沁みた。そのあと、威勢のよい熟年女性の声が出迎えてくれた。
「いらっしゃい!」
立花の祖母は70歳を超えているが、張りのある声は、もっと若く聞こえた。見た目も、派手目で還暦前と言われても疑わないだろう。仕事中の動きも実に機敏だった。
僕は、立花の祖母と目が合うと、「こんちは」と言って会釈をした。
「あら、正志君。久しぶりやね。元気しとったけ?」
カラオケ喫茶「みちづれ」には、ほぼ毎日来るが、開店中に顔を出すのは、冬休み以来だった。そのため、必然的に立花の祖母に会うのも1か月ぶりになる。そんな祖母の元気そうな顔を見ると、怒られる覚悟を決め兼ねている僕の心を少し穏やかにしてくれた。
「あの、立花は?」
「ごめん、何か、全然聞こえんわ」
立花の祖母は耳が遠い訳ではない。店内には、大音量の歌謡曲と貧弱な歌声が依然として鳴り続いているのだ。視線を移せば、硬めのソファーに腰掛けたお年寄りたちが、身を寄せ合っていた。そのなかの爺さんが、気持ちよさそうに貧相な声を発していた。
しかし、聞いている人は誰もいない。隣の人同士でお喋りをしているか、自分の好みの曲を探していた。それでも、それぞれが思い思いの時間を過ごし、過度に干渉し合わず、楽しそうではあった。
立花の祖母は、爺さんがまだ熱唱中だったにも関わらず、勝手に音量を小さくした。これには、歌っていた爺さんも驚いた様子だったが、歌う事はやめなかった。
「鈴木さん、ちょっこ静かにしてもらえるけ」
鈴木と呼ばれた爺さんは、店主である立花の祖母を一瞥したが、文句を言う事はなく、大人しく口を閉ざした。その間に鈴木の爺さんを置き去りに、伴奏は控えめに流れていく。
「んで、正志君、どうしたが? 立花け?」
僕はお預けをされている鈴木の爺さんを申し訳なく思いつつ、用件を伝えた。
「はい。立花に呼び出されてて……」
立花の祖母は、僕が手にしているコンビニ袋を見て、何か悟ったように少し笑った。大概、僕と立花が喧嘩——と言っても、立花が一方的に不機嫌になるだけだが——したときは、僕が献上品を持って、謝罪に来るのだ。
「ふうん、そういう事け。ホント、あんたら、相変わらず仲良いね。これからも、立花の事よろしく頼んちゃ」
「あ、いや……はあ……」
僕の曖昧な返事に、立花の祖母は含み笑いを浮かべると、カウンターを離れ、暖簾を潜って奥の自宅へと引っ込んで行った。
しばらくして、暖簾の向こうから「立花、あんたの旦那はんが来たよ」と恥ずかしい言葉が聞こえてきた。直後、怒りを含んだ慌ただしい足音が響いてきて、「もう、何言っとるがけ!」という立花の怒鳴り声が聞こえてきた。
暖簾が開くと、「嫁はん、今来るから」と立花の祖母が笑いながら顔を出した。ほどなくして、ふんわりとしたショートヘアを両手で撫でつけながら、制服姿の立花が飛び出してきた。
「お祖母ちゃん! だらな事言わんといてよ!」
立花の登場に店内が笑いで湧いた。お預け中の鈴木の爺さんもマイクを握ったまま笑い、他のお年寄りたちもお喋りを止めて笑っていた。立花は赤面し、僕も恥ずかしさが込み上げてきたが、腹は立たなかった。
恐らく、僕らを馬鹿にしているというよりも、「あんなときもあったな」「若さは良いのぉ」などと言葉を漏らし、自分たちの若い頃と重ねて、懐かしんでいたからだろう。
僕と立花が店を出ると、また貧弱な歌声が聞こえてきた。でも、とても楽しそうな声だった。
「あのさ、立花。これ」
僕はアーケードを抜ける前に、横に並んで歩いている不機嫌な少女にコンビニ袋を差し出した。
「だら。こんもので許すと思ったん?」と、立花は言ったが、コンビニ袋は受け取った。僕だって、物を渡して許しを請うなど、都合が良過ぎると思っているが、他に謝罪の気持ちを表現する術を知らない。
「なんで、抹茶じゃないんけよ」
コンビニ袋を覗き込んでいる立花は、まだ不機嫌だった。
「抹茶、売り切れやったから。チョコも好きやろ?」
「好きやけど、他のコンビニ行けばよかったやん」
「時間がなかったから」
「ふうん。誰かと会ってたん?」
やはり女性という生物は、妙な感性を持っているのだろうか。中らずと雖も遠からず、直近では誰とも会ってはいなかったが、朝、迎えに行かなかったのは、奏と神社参拝をして、浮かれていたせいだ。
「そんなんじゃねぇよ」
「ふうん」
立花が腑に落ちない返事をしたところで、アーケードの屋根は終わった。
僕らは傘を開き、古城跡地の方角へと進む。
すっかり暗くなってしまった雪空からは、相変わらず大粒の雪が降っていて、歩道の積雪は少し増していた。
「最強寒波が来とるらしいよ」
立花は積もった雪に新しい足跡とつけると、僕を見上げた。僕の頭の中には、奏の存在があって、これ以上立花が話を掘り下げない事を願った。そのせいか、気のない返事をしてしまう。
「ああ、そうなん? へー」
「明後日くらいまで、雪やってさ」
「ああ、そう。土日はどこも行けねぇな」
「どっか行く予定やったん?」
僕は赤信号に足を止め、立花を見ずに答えを返した。
「神社くらいだろう」
「ふうん」
立花はまた曖昧な返事をした。
信号が青になった。僕は、すぐに歩き始めたが、数歩進んで、立花が立ち止まったままでいることに気付き、引き返した。そうしているうちに、信号はまた赤になった。
「どうしたんよ?」と僕が聞いても、立花は「別に」としか答えなかった。立花は何か言いたそうだったが、言い出せない様子だった。こういう時の立花は面倒くさい。
信号待ちをしている間、僕らは何も話さなかった。
目の前の道路を車達が忙しなく通り過ぎ、雪解け水を大袈裟にばら撒いていた。僕は一歩引いたが、立花は動こうとしなかった。さすがに僕は彼女の腕を引き、無理にでも下がらせた。立花は抵抗しなかったが、依然として不機嫌だった。
また信号が青になった。しかし、立花は動かない。このままでは、寒いし、北部高校合唱部の発表会に間に合わなくなってしまう。仕方なく、僕は思い付く節を挙げてみる事にした。
「朝の事、まだ怒ってるんか?」
「違わないけど……違う」
「なんやそれ。じゃあ、抹茶じゃなかった事か?」
「だら」
「じゃあ、婆ちゃん達に『夫婦』やって、冷やかされたからか?」
「だ、だら。そんなんじゃないわ」
立花は少し頬を赤らめたが、僕の事を許しているようには見えなかった。
再び信号が青になって、今度は立花が先に歩き始めた。不意をつけれた僕は、遅れて渡り始める。そのとき、横断歩道から「道」という言葉が連想され、ふと昨日、立花が言っていた言葉を思い出した。
「あ、そういえば、昨日、話があるって言ってたな。進路の事だっけ?」
僕の前を歩いていた赤い傘が、横断歩道を渡り切ったところで止まった。背を向けたまま、何も言葉を返さないが、恐らくは正解なのだろう。
立花は、朝迎えに来なかった事よりも、話があるという事を忘れていた事を怒っていたらしい。
本当に悪いことをしたという思いはあったが、それをどう体現すれば良いのか、不器用な僕には分からなかった。
「アイス、もう一個いるか?」
目的地である市民文化会館の近くに、コンビニがある事を思い出し、咄嗟に出た言葉だった。自分自身でももう少し気の利いた言葉があるだろうと思ったが、物を買う事でしか、償えないとも思った。
赤い傘が揺れて、ようやく立花が僕の方を向いた。泣いていた訳ではないだろうが、眼が赤くなっているように見えた。
「ねえ、正志」
降り頻る大粒の雪が僕らの間を阻み、その奥で立花のまあるいショートヘアが揺れた。
「うちが東京の大学に行くって言ったら、どうする?」
その質問には、何と答えるのが正解なのだろう。
機械科である僕は、高校卒業後は、当然のように地元企業に就職する。それは僕だけではなく、クラスメイトのほとんどがそうだ。
一方、立花が属する建築科は、就職の道もあるが、推薦枠で進学という選択肢もある。立花は、僕と違い成績は優秀で、なぜ工業高校に通っているのか、分からない程だ。彼女ならすぐに就職するよりも、進学して知識を深める方が自然だろう。
ただ、その自然な流れを僕は、そう簡単に受け入れられない。
立花がいなくなる——。
考えた事がない訳でもなかった。
幼い頃から共に過ごし、共に成長してきた。楽しいときもあれば、辛いときだってあった。僕がどうしようもなく不器用なせいで、立花を傷つける事だってあっただろう。それでも、そういう記憶の集まりである「思い出」が、僕らという人間を作り、幼馴染という関係性を保っている。
僕もこの平穏な毎日がいつまでも続くとは思っていない。これから未だ続くだろう茫漠とした時間が僕らを待ち受けている。そのなかで彼女の目指す先に、僕はまだ存在していられるのだろうか。
その問いの答えを導き出すには、僕は未熟過ぎた。未来が霞んでいて、捉えようのない雲のようだ。いや、もしかしたら、漆黒と化した空から降る白い雪のようなものかもしれない。掴んだつもりでも、開いてみると掌には何も残っていない。そして、焦る。僕はやはり運命に流されているだけだと。
結局、僕は何も答えられなかった。
信号が点滅し始めると、立花は寒さで赤くなった頬を緩めて、「なぁんてね」と笑みを作ってみせた。それが心意と一致していない事は僕にだってわかった。
ただ、もう少し運命の流れを滞らせ、この関係を保ちたくて、僕は全てを有耶無耶にした。僕は、立花の優しさに甘えているのだ。
ホント、狡い奴。
「あたりめ」はどうしたんよ、って感じッスね。
立花はあたりめが好き、って設定にしようと思っていましたが、忘れてましたわ(´_ゝ`)ハハッ