3.彼女と僕と、神社参拝
百瀬正志は、雪が積もるなか、またまた神社参拝へと向かう。
そして、北高の少女に神社参拝の手順を教える事に。
しかし、そのせいで彼は大事な事を忘れてしまうのだった。
昨日の雨は、降ったり止んだりを繰り返し、夜には雪に変わった。朝起きると、薄っすらと雪が積もっていて、さすがに自転車に乗ろうとは思わなかった。
「今年は雪が少ないわね」と、僕がローファーを履いている時に、母はわざわざ玄関まで来てそう言った。
僕が「そうやな」と短く返事を返し、腰掛けていた上がり框から立ち上がると、母は僕の足元を見た。
「なんで?」
「何が?」
「今日、雪やぜ?」
「だから?」
「靴よ。ローファーは、あかんやろ。滲みてくるねか」
母は積雪があるのに、なぜブーツや長靴を履かないのか、指摘したかったのだろう。
確かにローファーでは、防水性が低く濡れてしまうか、高さが低いので雪が入り込んでしまうだろう。そんなことは僕にだって分かりきっていた。
だけど、見た目の事を考えると、長靴は履いていく気になれないし、ブーツはなんとなく嫌だった。
「大丈夫。そんな雪ないし、融雪の所ばっかり歩くから」
聞き分けの悪い息子に、母は諦めのため息を吐き、「なら、ちょっと待っとられ」と、家の奥に引っ込んで行った。別に急いでいる訳でもないが、待たされるとイライラした。しばらくして、母は戻ってくると、僕の首にマフラーを巻いた。
「せめて、これしてかれ」
マフラーは、深緑色のチェック柄だった。僕の好みの柄ではなかったが、洗いたての柔軟剤の良い匂いがしたので、文句は言わなかった。そして、何より温かかった。
家を出ると、西の空はまだ濃紺色をしていたが、東の果てに見える北アルプスからは、朝陽が顔を覗かせ始めていた。
神々しい連峰の間から漏れ出た陽の光は、白銀の町を照らし、薄っすらとだが積もった雪の表面を溶かして、眩く煌めかせた。
母が言っていたように、今年は暖冬の影響で、雪は少なかった。それでも最低気温が零度を下回る日はあったし、寒さを感じない日もなかった。
寒いところにいると、どうしても暖かさ恋しくなるが、一方で今日のような雪景色を見ると、なぜか安心する。
雪の降る地域で生まれ育ったからなのだろうか。寒い時期に雪を見ないと、物足りなさを感じてしまうのだ。
僕は、ローファーを履いてきた事を後悔しないよう、なるべく雪の少ないところを歩き、歩道がないところは、轍を歩いた。
例年より少ないとはいえ、雪が積もっていたせいで、古城跡地に着くには、普段の倍以上の時間を要したが、寒くはなかった。きっと母の用意してくれたマフラーのおかげだろう、と分かっていたが、母に感謝する事が癪で、ポケットに手を入れていたおかげだと思う事にした。
南側の赤い橋は、通行止めになっていた。当然トラックは、もう引き上げられていたが、昨日の光景が脳裏に蘇り、とんでもない場面を見たなと改めて思った。しかし、僕は、そんな事よりも、別の心配をしていた。
通行止めを示す黄色と黒色の縞模様の鉄パイプの前に立つと、僕は周囲を見渡した。
「いるわけないよな……」
そこにいるはずはないと思いながらも、目当ての人物がいない事に気落ちした。しばらく、そこで待とうかと思ったが、遅くなると、また巫女の佳代さんに茶化されたり、幼馴染の立花に叱られたりするので、仕方なく回り道をして、東側の新しい橋へと向かった。
東側の橋は、車が余裕ですれ違えるほどの道幅があり、更にその両側に一段高くなった歩道も備えている。歩道の外側には、胸丈ほどの鉄格子のような手すりがあって、そこから濠を覗き見る事も出来た。
南側の赤い橋とは趣が異なり、近代的で、いかにも重機を用いて造られた感じがあった。
そんな橋の中央には融雪装置が設けられており、車道は溢れ出すように流れている水によって積雪はない。一方、歩道には新雪が残っており、誰かの通った足跡が続いていた。
僕はなるべくローファーを濡らさないようにするために、その足跡を辿るように歩いたが、僕の足より一回り小さく、歩幅も狭かったので、結局、つま先の方から滲みてきた。
その足跡は、神社まで続いていたが、鳥居前には、ホースに穴をあけた簡易的な融雪装置が置いてあって、足跡と雪はそこで途絶えた。雪がなくなると、僕は足元の注意から解放され、自然と顔が上がった。
鳥居の前には誰か立っていた。
始めは、毎朝神社参拝にきている常連の爺さんかと思ったが、すぐに違う人物である事に気付き、僕は無意識に目を見開いた。
紺色のスカートとダブルのブレザー、えんじ色のスカーフ。この寒さを甘く見ているのか、或いは、風邪をひきたいのか、防寒具は身につけていない。
その人物は、吐息で手を温めると、視界の隅で僕の存在を捉え、顔を上げた。そして、温めたばかりの手を控えめに振ってくれた。
「おはようございます」
冬の乾いた空気にのって、春の旋律のような声が届いた。僕も反射的に「おはようございます」と返し、しばらく彼女の微笑みに見惚れた。
近くの広葉樹から湿った雪が落ち、熟れ過ぎた果実が潰れるような音がして、ようやく僕の意識は目の前の少女から離れた。僕は、少し冷静になった頭を捻り、質問を絞り出す。
「こんなところで、何してるんですか?」
少女は、少し間を空けてからはにかんで答えた。
「ここに来たら、会えると思って」
「え? 誰に?」
少女は、また少し間を空け、今度は上目遣いで僕を見た。
「君に」
僕は一瞬言葉を失った。
足先からは融けた雪が滲み込んできて、乾燥した冬の冷気は寒いはずなのに、身体は熱かった。綺麗と言うには幼過ぎて、可愛いと言うには大人びている。そんな彼女の笑みは、僕の心を乱し、熱を与えた。
それでも僕は、どうにか平常心を保とうと心掛け、動じていないふりをして「冗談でしょ」と聞き返した。すると、少女は、また間を空け、今度はいたずらっぽく笑った。
「半分」
女性という生物は本当に不思議だ。昨日は、連絡先も教えてくれなかったのに、今日は、突然現れ、会いに来たと言う。
その心理は、北陸の冬の気候のように変わりやすくて、猫のように気まぐれだ。だけど、嫌気はなく、それを許してしまう。だから、男は単純と言われてしまうのだろう。
「僕に何か用でも?」
今日は会えないと思っていた北高の少女に会えて、僕は浮かれていた。そのせいで、融けた雪が作る水溜まりに注意を払うことも出来ずに、歩み始めた。ローファーが滲みてももう気にもしなかった。
「ううん。用っていうほどの事はないんですけど……。えっと、迷惑ですか?」
少女は両手を胸の前で組み、心配そうな顔を向けるので僕は思わず足を止めた。
「いや、そういうつもりじゃ……」
僕がそう言うと、少女は表情を明るくさせ、「よかった」と呟き、ここに来た理由をはぐらかせた。僕は、もう彼女がなぜここに来たのか、どうでも良くなった。
僕が再び歩き出して近づいてくると、少女は手が届きそうだけど、届かない位置で、首を傾げ、言葉を発した。
「君は、毎朝、ここで何をしているの?」
それがこれ以上近づくな、という合図なのかと思い、僕は足を止めた。そして、鳥居を見上げて答える。
「見ての通り、神社の参拝。習慣でね、止めたくても止められないんだ」
「へー。なんだか、お爺さんみたいね」
「半分正解。死んだ爺さんの習慣でね。いつの間にか、引き継いじゃったんだ」
「そっか」
少女は、亡くなった祖父を話題にあげると、少し表情を曇らせた。僕は彼女に気を遣わせるのが嫌で「もう大丈夫だから」と声をかけた。すると、彼女の表情は明るさを取り戻し、唐突に「ねえ、私も一緒にいいですか?」と聞いてきた。
僕は嫌ではなかったが、祖父以外の人と参拝をしたことがなかったし、これは自分に科せられた病で、ひとりでやるものだと思っていたから答えに困った。僕が答えに困っていると、少女は瞳を潤ませてきた。
「やってみたいんです」
震える子犬のような眼で見詰められると、僕は断れなくなってしまった。
「面白くないよ」
「いいの」
「じゃあ……」
僕は、首に巻いていたマフラーを外し、少女に差し出した。
「その恰好じゃ寒いし、これ巻いて」
少女は、素直に僕のマフラーを受け取ると、ふわっと自分の首に巻いた。マフラーは男性用のものらしく、彼女には大きすぎて顔の半分が埋まってしまった。
「なんか、いい匂い……」
鼻元まで覆ったマフラーからは柔軟剤の匂いが漂ってきたのだろう。少女は、思わず眼を閉じ、匂いを嗅いだ。
なんだか自分のにおいを嗅がれているような気がして恥ずかしかったが、今回ばかりは洗濯をしてくれた母に感謝しようと思えた。
僕らは改めて、鳥居の前に並んで立ち、僕が先にお辞儀をした。北高の少女はそれに倣い、遅れてお辞儀をした。
それから、参道の端を歩き、手水舎で手と口を清める。柄杓には、直接口をつけないように、左手に水をあけてから清めるのだと教えた。
彼女は僕の言う通りにやろうとしたが、慣れている僕は温く感じていた水が、彼女には予想外に冷く感じたようで、「ひゃっ」と短く驚きの声あげた。
僕はそれが面白くて、思わず笑ってしまった。笑われた少女は、少しむくれた顔をしたが、口許は笑っていた。
拝殿に来ると、いつも通り二礼二拍手一礼で参った。北高の少女は、鈴が上手くならず、苦戦していたが、僕が鳴らしてみせると、心地よい響きに「わあ」と感嘆の声をあげた。
最後に自分を名乗る時は、「これは爺さんが勝手にしていた作法だから」と、一言断った。
「百瀬正志です。本日も参拝させて頂き、ありがとうございました」
僕は最後にもう一度深々と頭を下げると、横の少女は「百瀬君って言うんだ……」と呟いた。そういえば、僕も彼女の名前を知らない事を思い出し、顔を上げた後、さりげなく聞き耳を立てた。
少女が頭を下げると、長い髪が垂れ、顔を隠した。そのせいで口の動きは見えなかったが、繊細な声は聞こえてきた。
「えっと……さ……さ、佐藤奏です。ありがとうございました」
なぜか言葉を詰まらせながら、佐藤奏はそう言った。それほど珍しくもない名前だったが、なんとなく良い響きに聞こえた。そして、ふたりの距離がもっと縮まったような気がした。
帰り道は、普段は社務所の前を通るのだが、今日はなるべく社務所から離れたまだ雪が残る砂利道を歩いた。
巫女の佳代さんに見つかって茶化されるのが嫌だったからだ。しかし、そんな事をしなくても、社務所の窓は内側からカーテンが閉まっており、まだ誰も来ていないようだった。
奏には「帰りはなるべく建物から離れて、遠くを歩くんだ」といい加減な事を教えて誤魔化した。彼女は、「なるほど」と素直に頷いたので、少し後ろめたさを感じた。
普段、ひとりでやっている事をふたりでやるということは、意外にも時間がかかるものだった。だからと言って、嫌な気分にはならなかった。むしろ、今まで感じた事のない「楽しい」という感情を抱いた。
これまで、何百、何千と繰り返してきた神社参拝だが、楽しいと思えたのは、これが初めてだった。
別れ際、奏は「またね」と言って小さく手を振ってくれた。僕は、その微笑みを見て、もう連絡先を聞こうとは思わなかった。彼女のその微笑みが、また会えるから、と僕に囁いているような気がしたからだ。
半ば幻聴のような曖昧で不確実なその言葉は、ふたりは運命の糸で引き寄せられているという錯覚を与えた。
そのせいで、日頃感じている、濁流のような運命に騒然と流されているという不安は感じなかった。もはや「運命」とは、何もしない不安を人のせいにする都合の良い言い訳なのかもしれない。
学校へと向かう途中、信号待ちをしていると、向かい側で待っている他校の女子高生たちが、ヒソヒソと耳打ちをし合っているのを見て、自分の顔がだらしなく緩んでいる事に気付いた。僕は自分の両頬を強めに叩いたが、それでも筋肉は弛緩し、引き締まる事はなかった。
僕は女の子と神社参拝しただけで、浮足立っていたのだ。いや、奏だったから、気分が舞い上がっていたのかもしれない。
そのせいで、僕はもう一つの日課であるカラオケ喫茶「みちづれ」に寄る事を忘れてしまった。そして、その事は学校に着いて、自席に座った時に立花から届いていたメッセージを見て、ようやく気付いた。
当然、立花は怒っていた。
正志君よ。幼馴染の約束すっぽかしちゃ、アカンぜよ(゜д゜)