29.桜坂立花と百瀬正志と、ひとりの人間
葉月奏は、跪き、彼の死を嘆いていた。
幾許かして、泣き喚いている私の背中を落ち着いた声が撫でた。
始めは、悲痛な私を見兼ねて、朝陽が語り掛けてくれたのかと思った。そうでもなければ、死神が私を迎えに来たのかと思った。
だけど、その声は朝陽のような神々しさはなく、死神のような残忍さもなかった。その声は、幼かった。
「大丈夫やよ」
振り返ると、私の背後に少女が立っていた。まだ眼が濡れているせいで、視界が霞んでいて良く見えない。それに澄んだ空気に広がる朝陽が、少女に影を作っていたので、顔もよく分からなかった。ただ、彼女の輪郭だけは分かった。まあるいショートヘアがなんとも愛らしい。
「奏ちゃん。大丈夫やよ」
少女の幼い声が凛としていて、なぜか胸にすんなりと入り込んできた。錆びついた歯車の私を優しく愛でているような気がした。
少女が私に近づき、しゃがみ込んだ。そのおかげで、私たちの目線は一致する。朝陽が作っていた影も薄れ、彼女の表情が明らかになった。
「あなたは……」
私の軋み音のような声が鳴った。
私の目の前には、ショートヘアがよく似合う少女——桜坂立花がいた。
「桜坂立花……。なんで?」
私の記憶では、彼女は私が殺したはずだった。彼を生かすためだと銘打って、排除したはずだった。だけど、私の目の前には、紛れもなく桜坂立花がいた。
「……幽霊?」
私のわななく口がそう言うと、彼女は可愛く笑った。
「あははっ。まさか。うちがオバケの訳ないやん。だって、ほら、足あるよ」
彼女はそう言ってふっくらとした脚を私に見せた。
私の思考は追いつかなかった。自分の記憶が信じられなくなった。だけど、なぜだろう。桜坂立花が生きていると知って、安心してしまう。私は彼女の事が憎く、許せないと思っていたはずなのに、生きていて良かったと思ってしまう。
そして、状況を呑み込めない私に追い打ちをかけるように、桜坂立花とは別の声が聞こえてきた。
「い、いってぇ……」
私は自分の耳を疑った。もう聞く事の出来ないはずの、彼の声が確かに私の耳に届いてきたのだ。目を向けると、うつ伏せで倒れていた彼が体を縮こまらせていた。
傷が浅かったのかと思ったが、それは私のせいではなかった。
彼はうつ伏せからゆっくりと寝返って、仰向けになると、大きく息を吐いた。そして、学生服を捲ると、私が刺したはずの腹部を見せた。しかし、そこには、彼の血に塗れた色白の腹ではなく、様々な文字が表紙を飛び交っている雑誌が収まっていた。雑誌の中央は、抉られ、彼の血がついていた。
「……これのおかげで助かったぜ」
私の覚悟は十分だった。彼を殺す事に迷いはなかった。だが、私の殺意は、彼が病院で広げていた雑誌に阻まれ、浅い傷を負わせただけだった。
「立花に言われたときは、意味不明だったぜ。まさか、奏が俺の事刺すなんて、考えもしなかったからな。いや、今でも意味不明だけどな」
彼は血の付いた雑誌を自分の横に置き、私に微笑みかけた。その表情はとても人間らしかった。彼が生きている事が、とても嬉しかった。
彼と桜坂立花の生存が、少しだけ私の絶望感を溶かし、膨張し続ける不安を萎ませた。しかし、状況の理解には至らず、私はふたりを交互に見た。
「私は一体……」
何をしてきたのだろうか。
100回以上も2月を繰り返しているせいだろう。あらゆる記憶が重なり合って、混在しており、どれが正しい記憶なのか分からない。
そんな私の記憶を整理してくれるように、桜坂立花が言った。
「奏ちゃん。本当に覚えてないが? 踏切で、電車に引かれそうになったうちを、あなたが助けてくれたがやよ」
「私が……助けた?」
「そうやよ。正志と喧嘩して、進路の事で悩んどったうちが、踏切で自殺しようとしたら、奏ちゃんが、そんなことしちゃダメや、って引き留めてくれたんやよ。あのとき、ホントに救われたわ。それから頑張って生きようって思ったもん。おかげで、正志とも仲直り出来たしね」
「そんなこと……」
あり得ない。
私は桜坂立花を憎んでいたはず。そんな私が彼女を助けるはずがない。
しかし、事実、桜坂立花は生きている。幽霊ではなく、実在する人間として、私の前でしゃがみ込み、無垢な笑みを向けている。これは一体どういうことなのだろうか。
もしかして、本当に桜坂立花の言う通り、私は彼女を助けたというのか。もしそうだとしたら、私のどこかに残っていた人間であり続けたいという想いが、冷酷な歯車になることを留まらせてくれていたという事なのだろうか。
中途半端な自分が不甲斐ないと思う反面、人としての感情が存在していたことに安心する。
では、なぜ私は彼を——百瀬正志を殺そうとしたのか。愛に溺れ過ぎた結果という事なのだろうか。いや、それだけではない。桜坂立花という存在がありながらも、なぜ彼は私と親しくし続けたのか。私と彼の関係は、もう友人という領域を超えていた。いずれ恋人関係になり得たかもしれない。
もしかしたら、それの記憶すらも私の思い違いだと言うのか。本当は、もっとあっさりとした健全な関係を保ち続けていたのかもしれない。
分からない。
思い出せない。
やはり脳が一度溶けてしまったせいなのか、それとも記憶の情報量が多すぎるせいなのか、正しい記憶を辿る事が出来なかった。
そんな私の混乱を優しく往なすように、桜坂立花が肩に手を載せてきた。
「奏ちゃん。もういいよ。もう何も考えなくても大丈夫。何も心配せんでもいいからね」
それは何を指しているのか、分からなかった。だけど、私の精神に蔓延っていた絶望と不安は、浄化され、代わりに理由のない安心感が湧いてきた。
彼女の言う通り、もう全てが終わったのだと思った。
彼が生きている。
その事実があれば、それで十分だ。
これまでの努力や苦労、孤独が全て報われたのだと思った。
私はようやくたどり着いたのだ。彼を生かす未来に。
ああ。良かった。本当に良かった。
得も言われぬ達成感が湧き上がり、温かい感情が私を包んだ。
頭上で見下ろしてくる鳥居が優しく見守り、手水舎の水盤から溢れ出る水音が心地よく、悠然たる拝殿が参道の奥で微笑んでいるように感じた。
振り仰ぐと朝陽が眩しい。思わず、目を細めてしまうが、両手を広げ、全身でその光を浴びたい気分だ。
だけど、私の潤んだ瞳からは涙が溢れ出し、両手は、それの処理に回されてしまう。涙は何度も何度も不器用に拭うが、止まらなかった。
信じ続ければ、いつかは叶う。
夢は夢では終わらない。
それを教えてくれたのは、彼と彼女。
「……ありがとう」
私には泣きながらその言葉をふたりに贈る事しかできなかった。だけど、その言葉は、とても温かみがあって、ふたりの胸にも私の熱が伝わるだろう。感受性豊かなふたりならば、私の心意を感じてくれるはずだ。
そして、期待通り、私の心意を感じとった彼女は、私を引き寄せ、抱きしめてくれた。
「ううん。こっちこそ、ありがとうね。奏ちゃん」
彼女の——立花ちゃんの温もりが、冬の心身に沁みた。
これが人の温かさ。
私は久しぶりに感じる温かさと柔らかさを愛おしく思った。そして、その愛情深い優しさに触れると、もう一つ彼と彼女に贈りたい言葉があった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
何度言っても謝り切れない。
この世界軸では、彼も彼女も私は殺さずに済んだ。ふたりを失わずに済んだ。しかし、別の、私の胸に刻まれた記憶では、何度も、何度もふたりを殺してきた。それは私が直接手を下さなくとも、間接的に死なせてしまう事もあった。
それらを許して欲しい、というのは、都合が良過ぎるだろう。だけど、せめてこの申し訳ないという気持ちだけでも伝われば幸いだ。
立花ちゃんが、私を抱く腕に力を込めた。
「ううん。謝らんでもいいよ。もう、全部終わったんやから。辛かったやろう」
「うん。辛かった……。ホントに辛かった」
「もう私らがおるから。なんも心配せんでいいからね。これからは、ずっと一緒やからね」
立花ちゃんの言葉が罪深い私を許しているように聞こえた。
なぜ彼女が、私の辛さを知っているのか、考えもしなかった。ただ、労いの言葉が嬉しくて嬉しくて、救われた。
そんな抱き合う私らに、痛みを堪え続けている人物の声が届いた。
「あの……あのさ。いい感じのところ悪いんやけど、そろそろ俺を病院に連れて行ってくれない? 死にはしないだろうけど、地味に痛いんやけど」
そんな彼に立花ちゃんが鋭いが、どこか愛情の籠った言葉を返した。
「うるさいな。もう少し黙っとってよ。やから、モテんがやぜ!」
「うるさいって、酷くないか? 仮にも腹、刺されとるんやけど」
「ちょっと血が出たくらいで喚かんといて。男の癖に」
「な、なんやと——!」
彼はそこで立ち上がろうとしたが、痛みに顔を歪め、すぐに仰向けに戻った。
「やっぱり、いてぇわ」
それにはさすがの立花ちゃんも心配そうな顔をしたので、私から抱擁を解いた。
「正志君の所、行ってあげて。私はもう大丈夫だから」
「そう? ありがとうね」
私から離れた立花ちゃんは、すぐに立ち上がり、正志君のもとへと駆け寄った。
「大丈夫?」と再びしゃがみ、本当に心配そうな顔を向けている彼女と「大丈夫じゃねぇわ」と言いながらも強がった笑顔を浮かべている彼を見ると、やはり二人の間に私が入り込む隙間はないと思った。
私がどれだけ駆けずり回ろうが、最終的にふたりは、永遠に時を共にする「運命」だったのだ。
彼は彼女を、彼女は彼を、生かし、幸せにするという「宿命」を背負っているのだ。
いや、彼らの世界に背負うものなどない。抱きしめるものばかりなのだ。
恋も、愛も、未来も、命も、全てを優しく抱きしめ、ふたりは進んで行くのだろう。
私はそのなかで、彼らの支えになれればそれでいい。歯車としてではなく、生命として、感情を与えられたひとりの人間として、彼らに寄り添いたい。
こんなことを言ったら、彼らは怒るかもしれないけれど、それが私に出来るせめてもの償いだ。
しばらく鬱々していたので、なんだかホッとしてます\( 'ω')/




