27.水と流れていく時間と、幻
葉月奏は、気付けば、手を洗っていた。
水の流れる音がしている。
それがどこからしているのか、始めは分からなかったが、目の前に自分の顔があり、ここが公衆トイレである事に気付いた。
私は兄を刺した後、神社横の広場に設置されている公衆トイレで手を洗っていた。洗面台のなかに溜まっている水が赤黒くなっている。それが誰の血であるのかも考えられない。
鏡に映る自分の顔は、とても可憐だった。今しがた人を刺した人物には思えない。黒く長い髪は蛍光灯の下でも艶やかだし、小さな顔や潤んだ瞳は、誰もが羨むだろう。
だけど、感情はなかった。
まさに「無」。
全てのものに興味を示さず、感情を抱かず、何かの目的のためだけに突き進む。それが良いとか、悪いとか、そんな幼稚な発想はない。良かろうが悪かろうが、そんなことはどうでも良くて、人知が及ばない運命がそうさせているのだ。
これは私の意思ではない。運命の流れの一部なのだ。そして、その流れは留まる事はなく、蛇口から出た水が排水溝へ吸い込まれていくように、過ぎ去った時間も流され、捨てられていく。ほら、もう赤黒い水はなくなり、無色透明になった。
手を洗い終えると、制服のシャツにも黒い染みが幾つもついている事に気付いた。仕方なく、上だけは、鞄に押し込まれていた体操着に着替え、着ていたシャツは、丸めて備え付けのゴミ箱へ捨てた。
そのまま自宅には帰らなかった。あそこに行くと、兄だけでなく、母や父も殺してしまいそうだったからだ。いや、両親も彼を殺そうとしているのであれば、殺すべきなのだろうが、今はそんな体力を持ち合わせていなかった。
朝から続いていた頭痛は、いつの間にか感じなくなっていた。きっと痛覚が鈍感になっているのだろう。それでも脈動は感じ、自分が生きている事に腹が立つ。
私は、古城跡地から離れ、街をふらついた。途中、目についたファストファッション店に立ち寄り、制服と体操着からジーンズとパーカーに着替えた。ヘアゴムもついでに買って、鬱陶しい髪を留めた。着ていた服は、ショップの袋に詰め、コンビニのゴミ箱に捨てた。
そのまま当てもなく彷徨っていると、アーケード街についた。アーケード街には、酔っ払いが数人いて、愉快な声を発していた。
平日から呑んでいるところを見ると、余程の酒好きか、心の寂しい人なのだろう。だけど、好きとか、寂しいとか、そういう感情があるだけ、私よりはマシだ。
アーケード街を突き進み、気まぐれで路地を曲がった。車が一台通れる程度の幅しかない路地には、どこか懐かしい雰囲気が漂っていて、路地を進むと、どこからか下手くそな歌が聞こえてきた。
恥ずかしげもなく歌うその声は、とても楽しそうだった。私はなぜかその歌に誘われるように一軒の店の前で足を止めた。
カラオケ喫茶「みちづれ」——。
見覚えのある名前だった。しかし、思い出せない。考えようとしてももう頭痛はしなかったが、解けた私の脳にはもう考える力はなかった。
カラオケ喫茶「みちづれ」から下手くそな歌に紛れて、活きの良い熟年女性の声が聞こえてきた。
「鈴木さん! 今日も上手やねー!」
その掛け声で店内に笑いが湧いた。何が面白いのか私には理解できない。もうすぐ彼が死んでしまうのに、笑えるはずがない。皆、狂っている。
私は次なる凶器を買い求めるため、カラオケ喫茶「みちづれ」を離れた。そのせいで、店から飛び出してきたショートヘアの少女には気付かなかった。
21時を過ぎると、母から何度も電話があった。当然電話に出る気になれず、無視を通していると、メッセージが来た。私は初めて入った漫画喫茶の個室で、メッセージを開く。
『お兄ちゃんが大変です。市民病院に救急車で運ばれました。奏も心配です。どこにいるの?』
病院に運ばれたところを見ると、兄は死んでいないようだ。
——じゃあ、殺しに行かなきゃ。
漫画喫茶に漂う遠慮がちな物音に混じって、そんな声が聞こえて来た。当然振り返っても誰もおらず、個室の扉を開いて、通路に顔を出してみても、マウスのクリック音や本の擦れる音が聞こえてくるだけで、誰もいなかった。
恐らく幻聴なのだろう。だが、それが幻だとしても私はその声に従うべきだと思った。
理由は分からないが、たぶん、その声だけが私を認めてくれている気がしたから。
私は何かを守ろうとしていた。
それだけは覚えている。だが、何を守ろうとしていたのか分からない。どうしてこんな薄暗い空間に収まっているのかも分からない。どこを歩き、どこを彷徨ってきたのだろうか。私はどこに向かうべきなのだろうか。
——さあ、彼を殺しに行こう。
彼とは、誰の事なの?
——彼が運命を狂わせているんだよ。
運命が狂っているって、どういうこと?
——全て彼が悪いんだ。彼が死ぬからいけないんだ。だから、そうなる前に
「私が彼を殺す」
短くなってすいませんσ^_^;




