26.不眠と頭痛と、守るものを見失った私
葉月奏は、眠れなかった。
全てが、【悪】なのだと思えた。
彼の事を考えていると、一睡もできなかった。心臓が不安定に脈打ち、私を眠らせてくれなかった。雨音を子守唄代わりにしようとしたが、逆に耳障りに感じた。それでもどうにかベッドで横になり、眼を閉じ続ける。
まだ日の出前だったが、1階のリビングの方から物音がした。たぶん、夜勤明けの父が帰ってきたのだろう。私は物音が静まるのを待って、身体を起こした。
白を基調にした私の部屋は、まだ暗闇に包まれている。重たい身体を引き摺るように窓際まで行き、カーテンを開けるが、昨日から断続的に降り続いている雨のせいで、空は暗かった。
仕方なくベッドに戻り腰を下ろす。ふと枕元のスマホを見ると、不在着信の通知が表示されている事に気付いた。ロック画面を開いてみると、「正志君」という表示があった。どうやら、昨夜、彼から電話があったらしい。
履歴を見てみると、私が何度か彼に電話をかけていたらしいく、18時、19時、20時、21時の1時間おきに発信履歴が残っていた。そのうちの18時だけ通話したようだが、記憶にない。思い出そうとすれば、例によって頭痛がした。
私は、そのまま、空が明るくなり始めるのを待って、リビングへと降りた。
毎度の事だが、薄暗いリビングのソファーでは、父がくたばっていた。もしかしたら本当に過労で死んでいるのではないかと思ったが、時々、いびきが聞こえてきたので、息はしているようだった。
以前はそんな父の寝息を聞いて、ほっとしたが、今は何も感じなくなった。たぶん、本当に死んでいても何も感じないかもしれない。
私は、ソファーに沈んでいる父を横目で見ながら、キッチンへ行くとコップに野菜ジュースを注ぎ、それを頼りに頭痛薬を呑んだ。既定の2錠だけでは効かないだろうと思い、追加でもう2錠呑む。お腹はそれでもう膨れた。
野菜ジュースを冷蔵庫に戻すと、階段の方からパタパタというスリッパの音が聞こえてきた。どうやら母も目を覚ましたらしい。
リビングに入ってきた母は、ひとつ欠伸をしてから私に「おはよう」と声をかけた。私が「お母さん。おはよう」と礼儀正しい子供のように挨拶を返すと、母はリビングの灯りをつけた。
照明の真下で眠っていた父は、暴力的な明かりに晒され、顔をしかめた。そして、本能的に照明から逃れようと寝返りをうち、ソファーから落ちた。
物々しい音を立てた後、少し間が空き、私と母の存在に気付いた父は、白々しく「あいたたた……」という声を発した。それからソファーの陰から剽軽な顔を出し、「また寝ちゃってたよ」と舌を出した。
案の定、母は「もう、お父さんったら」と頬緩ませて呆れてみせる。そんな両親を見て、私も「ふふっ」と小さく笑った。
傍から見れば、微笑ましい家族の一場面に映るだろう。だが、私にはこれも歯車を回すためだけの見せかけの家族に過ぎない。
母は母として、父は父として、私は娘として、それぞれの役を演じる。それは仕事と言ってもいい。表面に薄っぺらい感情を張り付けて、勤めを果たすのだ。その勤めが終われば、もう要らない。
私は自室に戻るために、両親に背を向けた。その瞬間、娘としての仮面は外し、冷酷な歯車の表情に戻る。しかし、ドアノブに手をかけた時、父がつけたテレビの音が耳に入り、足を止めた。
『昨夜、県内で通り魔殺人事件が起こりました。被害者は近所に住む50代の男性と偶然通りかかった女子中学生です——』
振り返ると、父はソファーに座り直し、「隣町か。怖いなぁ」と独り言を漏らしていた。
テレビを観ると、現場となったどこにでもありそうな住宅街が映っていた。そのまま単調なアナウンサーの声が続き、画面は事件の残忍さを表現するために、アスファルトに残っていた血痕に変わる。
私には、すぐに被害者が昨日彼を殺すはずだった「ストーカーおじさん」だと分かった。そして、脅威を一つ排除できたことをひとり喜ぶ。
一方、悲運にも事件に巻き込まれた女子中学生には、同情の念も湧かない。ただ役目を果たした、そういう事なのだろう。
画面はスタジオへと戻り、アナウンサーの深刻な顔が映った。
『犯人は、以前逃走中で、その足取りも不明です——』
犯人は、十中八九、栗原君だろう。
栗原君の歪んだ感情は、強い独占欲に塗れ、自己中心的で、私の偽装された愛に飢えている。私を手に入れるためならば、何だってする。それこそ、人を殺めることも厭わない。
私は、そんな栗原君の感情を知っていながら、それを利用し、殺人犯に仕立て上げた。つまり、私がストーカーおじさんと女子中学生を殺したのも同然。
「これでいいんだ……」
私は誰にも聞こえないような声で呟いた。その言葉は誰に向けたものなのか、自分でも分からないが、壊れてしまった私の精神を正当化するための呪文のように感じた。
家を出ると、頭痛が激しくなった。
朝が早いせいと、雨が降っているせいで、町には色がなかった。雨雲から僅かに漏れ出る薄明りが、町を照らしていたが、全てがモノクロで空気が淀んでいる。そのせいか、息苦しく感じた。
自宅のある住宅街を抜けると、頭上をカラスの群れが通り過ぎていった。騒々しいカラスたちの鳴き声は、痛みを訴える頭に響き、脳が揺れた。
痛みに耐えられなくなった私は、肩にかけていたスクールバッグを下ろし、頭痛薬を取り出した。そして、追加でもう2錠口に含む。
しかし、流し込むための水は持ち合わせておらず、噛み砕いてどうにか呑み込んだ。口のなかに苦味が広がり、今度は吐き気がした。
不眠のせいか身体が重かった。視界も霞む。それでも私は、歯車の役を担うために、神社へと足を進めた。
鳥居の前に着いた頃に、雨空は少しだけ明るさを得ていた。しかし、まだ世界に色は戻らない。雨粒混じりの空気が湿っぽく気持ち悪い。傘が雨を受ける音が頭に響く。
私の視線はいつの間にか、足元に向けられていた。いや、自宅を出た時からずっと俯いていたかもしれない。
私の視界に映るすらりとした自分の脚は震えていた。理由は分からないが、寒さのせいではないことは確かで、薬を飲み過ぎたせいか、不眠のせいだろうと結論付けた。
そのとき、雨音の隙間から甲高い音が聞こえてきた。私はそれが自転車のブレーキ音だと思い、顔を上げる。すると、案の定、雨に濡れた彼が自転車に跨ったまま、私を見詰めていた。
「おはよう。正志君」
「おはよう。奏」
私は不調を訴える身体に鞭を打ち、笑顔を拵えた。何も知らない彼は自然な笑顔で応えてくれた。
私たちはしばし見詰め合った。
ふたりを遮るように降り続いている雨は、そのときだけは晴れた気がした。
彼を見ていると、暗い空が明るくなり、世界に色が戻っていく。気持ちの悪い空気も優しく頬を撫でるそよ風のように感じ、頭に響いていた雑音は、綺麗な旋律となってリズムをとり始める。
ふたりの世界は、希望に満ちている——根拠も、理由もなく、そう確信できた。
しかし同時に、私はそれが幻想である事も知っている。
私が必死になって、歯車を操り、運命を進ませても、彼は死んでしまう。私の努力も、策略も、思考も、孤独も、全てが無駄なのだ。
どれだけやり直したって、彼は死んでしまう。殺されてしまう。そういう「運命」なのだ。
色を取り戻しそうになった世界が真っ暗になった。砂嵐のような音が脳に直接響いてくる。私の視界には、依然として彼が映っているのだが、それすらも嘘なのではないかと思えてくる。
もしかしたら「百瀬正志」という人間ははなから存在しないのかもしれない。私が作り上げた架空の存在で、妄想。私は妄想の世界に囚われているのだ。
永遠に終わらない2月を繰り返し、何度も彼の死を突き付けられる。それで精神が崩壊しない訳がない。狂人とならない訳がない。
もし神様がいるとしたら、それは死神か、邪神の類だろう。人を救う神などいないのだ。運命は本当に残酷過ぎる。
この先、彼がまた死ぬのであれば、私はその死を受け入れない。
誰かが彼を殺すのであれば、私が彼を——。
そこで私の記憶は飛んだ。
私は、彼と何か会話をしたのだろうけど、何も思い出せなかった。気付けば、神社の参拝を終え、彼を私の傘に収めると、なぜか彼の学校へと歩いていた。
どうしてそうなったのか、私にも分からないが、彼を彼の通う学校へと送り届けた私は、自動的に自分も自らの学校へと向かった。
学校では何をして過ごしたか思い出せない。
たぶん、何事もなく普通に、いつも通りを装っていたのだろう。部活にも行ったが、恵美の声が五月蠅かったという印象しか残っていない。
日没後、足が勝手に私を神社へと運んだ。雨は止んでいたが、まだ地面が濡れているせいで足元が危うく、何度か躓きそうになった。それでも私の足は勝手に動き続けた。
どうして神社に行かなければいけないのか、私にも分からなかった。理由を思い出そうとすると、頭が割れそうだった。首を捻ってみようものなら、そのままもげてしまう気がした。
神社に着くと、いつの間にか周囲が闇で覆われていた。境内にある手水舎の灯りが水盤や近くの参道をぼんやりと照らしている。
そのまま視線を上げていくと、拝殿に誰かいるのが分かった。暗くてよく分からないが、黒い髪に、黒い学生服、ひょろっとした体躯は、私のよく知っている人物だと思った。
彼は鈴を見上げ、突っ立っていた。何かを考えているのか、何も考えていないのか、分からない。彼の思考を想像してみるが、私の脳は焼け落ちてしまったか、頭は働かなかった。
そのまま鳥居の前で彼の後姿を見詰めていると、後ろから何かに明るく照らされた。迷惑な排気音をまき散らし、趣味の悪い音楽が聞こえてくる。
車のドアが開く音がして、人の気配がした。
「おお、奏じゃねぇか。どうしたん? こんな所で」
血のつながっていない兄だとすぐに分かった。
いつもならば、私は笑顔を偽造して振り返るが、今はそれも出来なかった。私は無表情のまま振り返り、兄を見上げた。
長い茶髪に、派手な服装、ジャラジャラと五月蠅い貴金属。私はその全てが嫌いだ。
そして、なぜか兄が彼を殺しにきたのだと思った。
ふたりには面識がないし、普通に考えれば、兄は最近付き合い始めたばかりの佳代さんという、神社の巫女に会いに来たのだろうけど、それを考えられる程、私の精神は穏やかではなかった。
自分の右手を見るといつの間にか刃物が収まっている事に気付いた。いつ、どこで買ったものなのか覚えていない。いつから握りしめていたのかも分からない。
もしかしたら、これは「運命」の導きなのかもしれない。兄の「宿命」はもう尽きたのだ。どこで、どう働いてくれたのか、私は知らないが、そんなことはどうだっていい。私の心が、兄を「コロセ」と言ってくる。兄に恨みはない。だが、要らない歯車を排除する事こそが、私の仕事であり、彼のために出来る事なのだ。
「お兄ちゃん……」
私は壊れた人形のように兄を呼んだ。私の只ならぬ雰囲気を感じた兄は、顔を引きつらせる。
「な、なんや。何か変やぞ。お前」
「ううん。変なのは、お兄ちゃんの方だよ。だって、お兄ちゃん、正志君を殺しに来たんでしょ?」
「だ、誰や、そいつ」
歩み始めた私を見て、兄は後退し始めた。そして、私の手に収まる刃物が暗がりで怪しく光り、兄は体を震わせる。
「お、おい。奏、それなんよ。なんで、ナイフなんか持っとるんよ」
「嫌だなぁ。彼を守るためじゃない」
「彼? 守る? どういうことや。お前、ホントおかしいぞ」
私は知っている。普段は偉ぶっている兄だが、実は腰抜けの臆病者であることを。
私がナイフと共に右手を上げると、兄は顔を青ざめさせ、足が縺れて尻餅をついた。
「か、奏! 何をする気や」
兄は、両手をかざし、私を遠ざけようとした。しかし、そんなもので私の「正義」を止める事などできない。
そうだ。私の行いは、正義なのだ。彼を守る事こそが、正義。それ以外は、全て悪だ。
「お兄ちゃん、さようなら」
私は右手を高く掲げ、それを躊躇なく振り下ろした。声も出せないくらいに恐怖で歪んだ兄の顔が、悪だと思え、無感情で無表情になっている私こそが正義だと確信した。
——全ては彼を守るため。
そう思っていた。
しかし、ナイフが肉体に刺さる瞬間、何とも言えない絶望感が湧いた。
守ろうとしていたものが崩れていくような喪失感がした。
私は、何を守ろうとしているか。
それすらも分からなくなった。
なんだか、ホラーぽくなってきちゃいましたね(^^;




