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100回死んだ彼と彼女と、私  作者: 翼 くるみ
【Ⅱ.彼女】
21/33

21.雪降る夜と散り行く花と、人間でいたい私①

北部高校合唱部の発表会の後、葉月奏は、憎悪に塗れ、身を雪に晒していた。

 私の背中を市民文化会館から溢れ出している灯りが照らし、白い雪に影を作っていた。頭上の暗黒の夜空からはしんしんと牡丹雪が舞い降りてきており、傘を差していない私の頭や肩を白く染めた。


 今なら彼の言っていた言葉の意味が分かるかもしれない。


 ――雨が不安や心配を洗い流してくれる。


 私もそんな気がした。


 しかし、今降っているのは、雨ではなく雪で、雪は雨と違って、私の不安も心配も洗い流してくれなかった。代わりに精神を凍らせ、私を冷酷な歯車へと変えた。



 「桜坂立花を殺す」



 残忍な言葉だけは、口にしないでおこうと思っていたはずなのに、冷酷な歯車になった私にはその自制心すら働いていなかった。





 市民文化会館から程近い踏切までやってくると、私はスマホを開き、登録されていない番号を流れるように入力して、耳に当てた。


 相手は随分と警戒心が薄いのか、すぐに電話に出た。


 『はい、もしもし?』


 やや声が強ばっているのは、知らない番号からかかってきたせいだろう。私はこのために、誰とも連絡先を交換していない。そう、桜坂立花を電話でおびき寄せるためだけに。


 「あの、桜坂さんの携帯でしょうか?」


 『はい、そうですけど……』


 「私、市民病院の救急外来で看護師をしております、田中と申します。実は、あなたのお祖母さんが倒れて、こちらに救急搬送されました」


 『えっ? そうなんですか?』


 「お体の事でお伝えしたい事もありますので、こちらに来てもらえませんか?」


 『は、はい……わかりました』


 「では、お待ちしております」


 私はスマホを耳から離し、通話終了の画面をタップした。


 桜坂立花の声は終始震えていた。祖母の事が心配なのだろう。彼女の祖母には、実際に会った事はないが、別の世界軸で彼から聞いた話では、とても若々しくて、働き者らしい。そして、彼女の唯一の家族だとか。


 私は自分自身でも酷い女だと思った。


 唯一の家族である祖母を餌に、彼女をここへ誘き出そうとしているのだ。これはある種の詐欺にも近いが、私は詐欺師ではない。私は今から殺人犯になろうとしているのだ。


 しかし、誰が私を罰せられるだろうか。誰が私の罪を問えるだろうか。


 私は誰も出来ない事を、たった一人で成し遂げようとしているのだ。百瀬正志という人間を生かすため、多少の犠牲はいとわない。


 人は誰かの犠牲の上に立って生きているのだ。それは無意識的に行われているので、人に罪の意識はないだけ。


 人は皆、殺人犯なのだ。






 雪が強くなってきた。視界が益々霞む。このままでは、電車が止まってしまうのも時間の問題だろう。


 私は少し焦りながらも、誰もいない踏切の前に立ち、桜坂立花が来るのを待った。


 傘は手にしていたが、広げようとは思わなかった。


 もしかしたら、私にも少なからず罪の意識があって、雪で覆い隠そうとしているのかもしれない。そうでなければ、凍える寒さに身を晒す事が罰だと思っているのかもしれない。誰も私の罪を問わず、誰も罰せないのであれば、自分で罪を請け負い、罰を科そうとしているのかもしれない。いずれにせよ、そんなもので罪が軽くなる訳でも、寒さが償いになる訳でもない。


 そんな寒さのせいか、私の視線はいつの間にか自分の足元に向けられていた。震える手を見てみると、指先が赤くかじかんでいる。感覚も乏しい。


 ふと、雫が手に落ちた。


 始めは融けた雪なのかと思ったが、冷酷な歯車になった私に雪を溶かすだけの体温はない。


 では何なのか。


 その答えが導き出される前に、耳鳴りのような遮断音が鳴り始めて、私は顔を上げた。



 同時に人の気配を感じ、振り返ると、降り頻る雪の向こうから走ってくる少女が見えた。


 少女も雪のなか、傘を差していなかった。彼女のふんわりとしたショートヘアの上には、重く白い雪が積もっている。


 視線を前に戻すと、遮断音が激しさを増し、黒と黄色の縞模様をした遮断棒が降りてきた。私の行く手を阻む遮断棒はこれ以上、人の道を踏み外し、邪道へと進むなと警告しているように感じた。しかし、私にはもう戻る道がない。私はその警告を無視し、一歩足を踏み出した。


 一歩、二歩、と歩みを進める度、ギシギシと錆びついた音が鳴って、止まりそうになっていた歯車が再び噛み合い、回り始めていくような気がした。それが正しい道なのか、誤った道なのか、分からない。ただ、時を進め、運命を流していくしか私には道がない。


 今思えば、私は追い詰められていたのかもしれない。


 彼の死に何度も直面し、感情を殺し、自我を見失い、向かうべき先が暗闇だけで、私は希望を失っていた。どうにかもがいて、光の見える場所に行きたかった。だけど、それも叶わない。


 足は勝手に動いていたらしく、私は遮断棒に腹部が接して足止めを食らった。そのまま遮断棒を越えようとすると、不意に腕を掴まれた。


 濡れた制服を介しても、その手が温かく、柔らかくて、力強いと分かった。なぜか安心感をくれるその手は桜坂立花の手であるとも分かっていた。だから、私は敢えて振り返る事はせず、電車を待った。


 私の頭の中に木霊する遮断音が意識を奪っていく。そのせいで、桜坂立花が何かを必死に訴えかけていたが、何を言っているのかは分からなかった。


 音が遠ざかっていく。


 しかし、視覚はまだ生きており、右側から近づいてくる灯りが見えた。それはどこへ連れて行ってくれる光なのだろうか。


 未来? 過去?



 灯りが徐々に強くなってきた。電車が近づいてきている。私は再び下肢に力を込めた。しかし、それ以上に私の腕を引く力が強い。


 地面が揺れた。電車がすぐ傍まで来ている。記憶の中で蘇る電車の走行音は、猛々しいが、同時に無慈悲に全てをさらって行く。


 冷たい空気も、大粒の雪も、記憶も、感情も、未来も、彼女も——。




 「……ごめんね」


 それは誰に対する謝罪なのか。


 私は身を翻し、自分の腕を掴んでいる手を掴み返した。そして、その人物を私の前へと引き摺り出し、遮断棒の向こう側へと追いやった。彼女は咄嗟とっさの事に対応する事ができず、無様に踏切の中で倒れ込んでしまう。


 電車が来た。


 空気が震えている。


 たぶん、警笛を鳴らしているのだろう。しかし、その音が彼女に聞こえていたとしてももう遅い。


 「……ごめんなさい」


 私の視界が揺らいだ時、灯りを点した巨大な鉄塊が通り過ぎた。




うーん(ーー;)

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