20.桜坂立花と狂い始めた歯車と、私
葉月奏は、彼を生かすため、櫻坂立花の処分を計画していた。
桜坂立花という存在は、本当に厄介だった。
私と彼の仲に割って入るのであれば、まだ許せる——いや、許せないけど、対処はできる。それよりも問題なのは、彼が桜坂立花に酷く依存しているという事だ。
ふたりは恋人ではないが、幼馴染という殻に閉じこもり、他を寄せ付けようとしない。
もちろん、それを彼自身が望んでいるのだと理解できるが、桜坂立花の言動次第では、彼を殺しかねない。彼女自身にその意思はなくとも、「運命」がそうさせるのだ。彼の周りが歯車の役を担っているように、彼自身も誰かの歯車なのだ。
仮に、彼が桜坂立花の歯車だとしよう。
その場合、彼女を生かし続けるには、彼の命を差し出す必要がある。それは幾度となく、繰り返してきた世界がそうだったから、私には分かるのだ。
彼女を助けるために、彼が死ぬ——。
つまり、ふたりは共生していくことが出来ない悲運にあるのだ。では、どちらを生かすかと言えば、答えは簡単だった。
私が所属する北部高校合唱部の発表会当日の朝は、久しぶりに積雪があった。その日も私は、予定通り彼に会うために、神社へと向かった。
早朝の神社の空気は、冬の匂いを色濃く残しており、澄み渡っていた。春の訪れなど微塵も感じさせず、このまま永遠に冬が続くのではないかと不安になる。
普通の人であれば、あと1か月もすれば春は訪れるのだと、思い改めるだろうが、5年間も冬を繰り返している私にとっては、その不安は幻想ではなく、紛れもない現実だった。
終わりの見えない冬に私の心は凍り始めていた。
しかし、時間通りにやってきた彼を見ると、そんな心もひとときのぬくもりを感じ、氷を解かす。そして、私を見て信じられないと言わんばかりの彼の顔は、運命の流れは正常である事を認識させてくれた。
「おはようございます」と、私が鳥居の下で手を振ると、彼は唖然とした表情のまま「おはようございます……」と小さく返した。それから私たちはしばらく見詰め合い、互いの存在を確認し合った。
彼はいないと思っていた私に会えた事を嬉しく感じ、私は彼が生きてここに来てくれた事を嬉しく感じた。
それぞれの感じ方は少し違い、その重みも違うけれど、私たちは同じ感情に包まれていた。
凍てつく寒さなど私たちはもう感じなくなっていただろう。互いの存在が認識できれば、それだけで熱が生まれ、胸を温かくさせてくれる。それは、私たちが盲目的に歯車としてただ仕事を熟しているのではなく、人として互いに求め合い、寄り添い合いたいと思っているからだ。
しかし、私はその事を心で感じていながらも、鈍感になった感性と目的優位になっている理性がそれを認知する事を阻み、私はただ歯車としての役割を遂行する事だけを考えていた。
だから、「ここで何しているんですか?」という彼の質問には、決まり文句のような台詞を吐く。
「ここに来たら、会えると思って」
「え? 誰に?」
「君に」
「冗談でしょ」
「半分」
間の取り方、笑顔の作り方など私が彼に見せる全ては、彼のためにあった。幾度もやり直してきた莫大な時間は、私に彼の嗜好や癖、習慣を教え、それを自身の体に刷り込ませた。
だから、彼には私が女神か、天使のようにでも映っているだろう。いや、この場合、「運命の人」と感じているかもしれない。それほど私という人間は、彼にとって完璧な存在のはずだった。
「僕に何か用でも?」
彼はそう言うと、私に近づいてきた。始めは、恐る恐る。でも次第に大胆に、私を求めるように歩みを進めた。
しかし、私たちはまだ出逢って間もない——という事になっている。だから、私も彼に歩み寄りたい気持ちを抑え、心配そうな表情を向けて、彼の足を止めた。
「ううん。用っていうほどの事はないんですけど……。えっと、迷惑ですか?」
「いや、そういうつもりじゃ……」
「よかった」と私は表情を明るくさせ、彼になぜ私がここに来たのか考えさせないようにした。しかし、また彼が歩き始めたので、私は自らで設けたパーソナルスペースを侵されないようにするため、首を傾げ、質問を投げかける。
「君は、毎朝、ここで何をしているの?」
案の定、彼は足を止めた。
「見ての通り、神社の参拝。習慣でね、止めたくても止められないんだ」
「へー。なんだか、お爺さんみたいね」
「半分正解。死んだ祖父さんの習慣でね。いつの間にか、引き継いじゃったんだ」
「そっか」
不安そうになる私を見て、優しい彼は慌てて「もう大丈夫だから」と付け加えた。私はそれを見越し、用意していた表情と言葉を彼に向ける。
「ねえ、私も一緒にいいですか?」
当然、彼は答えあぐねた。
それもそうだろう。彼はずっとひとりでこの終わりの見えない神社参拝を続けているのだ。それこそ、目的などどうでも良くて、ただ仕事のように熟しているだけなのだ。
いつだったか、別の世界軸の彼が言っていた。これは僕に科せられた病なのだと。もし、それが本当であれば、私もその病を共に背負いたい。彼は色々と背負い過ぎなのだ。
私は彼が弱いと知っている潤んだ瞳を向け、畳み掛けた。
「やってみたいんです」
「面白くないよ」
「いいの」
「じゃあ……」
しかし、ここから先は、私も予期せぬ出来事が起こった。
幾度となく、私は未来と過去を見てきたはずなのに、時折、彼は私の予想を上回る優しさを見せるのだ。
それは彼が不器用過ぎるから何度も同じ人生を歩めないせいだろう。世間的には、上手く生きていない、或いは生きるのが下手くそだ、と言うかもしれないが、私はそんな彼の生き方が好きだった。
彼は私のパーソナルスペースへ躊躇なく入り込むと、私が対処する間もなく、自分の首に巻いていたマフラーを私の首にふわっと巻いた。
「寒いし、これ巻いて。じゃないと、参拝のやり方教えないよ」
そう言って意地悪くはにかむ彼の表情を私は初めて見た。
そんな彼の表情に呆気に取られていると、マフラーから柔軟剤の良い匂いが漂ってきて、私の思考を鈍らせた。
そのせいか、マフラーが赤チェック柄だった事も、運命の歯車が狂い始めている事も私は気付かなかった。
その日の神社参拝で、私たちの距離は随分と近くなった。しかし、私たちはまだ近づき過ぎてはいけない。桜坂立花という存在がある限り、彼は私に振り向かない。どれだけ情熱を注いでも、彼の願いを叶えても、彼は桜坂立花を選ぶ。
それは私にとって耐えがたい屈辱ではあるが、一時的な感情に流され、目的を失ってはいけない。彼女——桜坂立花は、彼を死なせてしまうのだ。いや、殺してしまうといっても過言ではない。
だから、それを回避させるためには、桜坂立花を排除する必要があった。
早朝の晴れ間が嘘のように昼前には暗い雲が広がり始め、昼過ぎには雪になった。その日の雪は、しんしんと大粒の雪が降ってみたり、小振りの雪がちらちらと降ってみたり、時々、止んでみたりと、表情が落ち着かなかった。そのせいだろうか。私の胸もざわついていた。
すっかり陽が暮れた発表会開演の1時間前には、北部高校合唱部の部員たちが、市民文化会館の控え室に集まっていた。
部員たちは、発声練習をしたり、仲良しグループで雑談したり、リハーサルが始まるまでの時間を思い思いに過ごしていた。
そんな騒がしいなか、私がパイプ椅子に腰かけ、項垂れていると、同級生の恵美が声をかけてきた。
「奏、どうしたん? 緊張しとるん?」
そんなはずはないが、私は顔を上げ、一応、愛想笑いを浮かべた。
「うーん、そうなのかなぁ。でも、私は歌わないのに、変だよね」
「奏も緊張することあるんやね。でもなんか嬉しい。確かに奏は歌わんけど、裏方も、照明も、音響も、皆で発表会を作り上げてるわけやから、奏も合唱に参加しているようなもんやよ。だからさ、一緒に頑張ろっ!」
恵美は恥ずかしげもなく平然とそんな事を言った。
彼女はいつもどうでもいい優しさを周囲に振りまいている。それを人懐っこいと感じる人もいれば、鬱陶しいと感じる人もいるだろう。私は彼女の事は嫌いではないが、どちらかというと後者の感じ方をしていた。だが、あえて波風を立てようとも思わず、私も愛敬を振りまく。
「ふふっ。恵美はいつもポジティブだね。なんか元気出たよ。ありがとう」
「ううん。こっちこそ」
恵美は私に感謝されると、丸い顔を赤らめた。
彼女は、淑やかに笑う私に憧れているのだ。その事は、何度も人生をやり直さなくてもなんとなく分かっていた。
始めは、そんな風に思われている事を私も嬉しく感じていたが、感情が平坦化してきているのか、それともマンネリ化している人生に嫌気が差しているのか、今はなんとも思わない。
ただ、彼女自身にも歯車として円滑に世界を回してもらうため、私の手駒として働いてもらう必要がある。桜坂立花の友人である彼女は、貴重な情報源なのだ。
「よし! 頑張るぞ」
私は意気揚々とパイプ椅子から立ち上がった。それを見て、何を勘違いしたのか、恵美は「おー!」と拳を掲げ、調子のいい掛け声を発した。そして、面倒な事に、その盛り上がりは他の部員たちも伝染し、「私も頑張ろう!」「何か元気湧いてきた」「緊張なんか吹き飛ばそう!」と自分達の決意を口にし出した。
団結力が高まる部員たちを見て、私は彼女らを軽蔑し、孤独感を感じた。
私の「頑張る」と、彼女たちの「幼稚な頑張る」は、重みがまるで違うのだ。
今日の発表会が成功しようが、失敗しようが、誰かが死ぬわけでもなく、人生が終わるわけでもない。長い人生の内のほんの僅かな時間を無駄にしたと嘆くだけで、かすり傷を負うようなものだ。
それは知らぬ間に癒え、「あんなときもあったよね」と思い出話になる。大人になれば、それを肴にお酒を呑むようになるかもしれない。
しかし、私が今、課せられている責務は、人命がかかっているのだ。
今宵、桜坂立花を排除できるかどうかで、彼が死ぬか生きるかが決まる。その重みを燥ぐ彼女たちが知る由もないし、知らなくてもいい。これは私だけに与えられた宿命なのだから。
部員たちの努力が実ったのか、北部高校合唱部の発表会には、積雪が増したにも関わらず、大勢の客が来てくれた。その多くは、部員の家族や友人だが、誰も彼もが部員たちの精一杯の合唱を聴き入り、感動しているように見えた。
私もその様子を舞台袖から見て、素直に良かった、と人間らしい感情を抱いた。その感情に自身で気付くと、まだ自分にも人間らしい部分が残っているのだと安心できた。
しかし、来場客のなかに彼と桜坂立花を見つけた時には、自身の宿命を思い出し、その感情は封印する。
そして、代わりに、運命を滞らせず、正常に時を回していくのだと決意し、拳を強く握りしめた。
閉演後、会場となった大ホールから大勢の人が流れ出し、ロビーは退場客で溢れかえっていた。ロビーにはエアコンが利いていたが、人々の吐く息や濡れた足元のせいで、空気はじっとりと重く、煩わしく感じた。
皆さっさと帰ればいいのにと思うが、私の思いとは裏腹に、迎えを待つ者もいれば、身内や知り合いの合唱部員のもとへ駆け寄って、「よかったよ」などと感想を垂れている者もいた。
私は何度もこの光景を見てきたが、つくづくどうでも良く思え、五月蠅い視界を少しでも晴らすため、漆黒と化した大きなガラス窓を見上げた。
はっきりと外の様子は窺い知ることは出来なかったが、雪は小粒になっているようだった。
そんな雪降りの夜を見上げると、五月蠅い視界からは開放されたが、気分は晴れる事はなく、私は、ああ、早く皆帰ればいいのに、と心の中でもう一度嘆いた。
そんなとき、恵美の喧しい声と訛りの強い少女の声が、ロビーの雑音に混じって聞こえてきた。そういえば、ここで「彼ら」に会う運命になっているのだと、私は思い出し、視線を下げた。
すると、ロビーの隅の方の控え室へと続く通路の前で、立ち話をしている恵美と桜坂立花が見えた。そして、その脇には、居心地が悪そうな様子で人々の足元をぼんやりと眺めている彼が居た。
彼は大勢の足元を見回した後、私の黒いスニーカーで目を留めた。
私も彼の視線を感じ、足先を向けると、彼も徐々に視線を上げていった。
そして、私たちの目が合った時、時間が止まり、周囲の雑音は全て消え去った。
湿っていた空気もそのときは潤っているとすら感じた。
あれだけ時を回す事を考えていたのに、皮肉にもこのまま時が止まり、私と彼だけの世界が続いて行けばいいのにと思った。
しかし、彼が「あっ」と声を発したので、私も「あっ」と合わせて声を発し、時が進み始めてしまう。
初めに、私たちが見つめ合っている事に気付いのは、お節介な恵美だった。彼女は、わざとらしく私と彼を交互に見た後、近くにいた彼に「えっ、何? 知り合い?」という質問を投げかけた。
彼は、「ああ。まあ……」と歯切れの悪い返事をした。すると、ふたりの会話を聞いていた桜坂立花が振り返って私を見た。
桜坂立花のまあるいショートヘアはよく似合っていた。そこらへんにいる媚びた女たちにはない、清潔さと愛らしさを彼女は持っている。色気はないが、可憐さが魅力的だ。
しかし、それ故に腹が立つ。
彼の隣は私ではなければいけないはずなのに、未だ恋人にもなれない彼女が独占している。それを何の罪とも思っていないあの惚けた可愛さが癇に障る。
何度も人生をやり直しているが、桜坂立花だけは許せなかった。
しかし、私はそんな苛立ちを堪え、彼女には優しい微笑みを向けてやる。彼女も私に微笑みを返そうとするが、私と彼の関係を心配し、ぎこちない。私はそんな彼女を横目で流すと、彼のもとへと歩み寄った。そして、誰よりも近い距離で彼を見上げる。
「来てたんだ」
「ああ。まあ」
彼は予想外の場所で私と出会った事に動揺しているのか、或いは、桜坂立花に私との関係をどう説明しょうかと思考を巡らせているのか、反応は薄かった。
「彼女さん?」
「ああ。まあ」
「そうなんだ……えっ?」
私は自分の耳を疑った。
彼と桜坂立花が恋人のはずがない。
そもそもここは、私と彼の言葉が重なってしまい、互いに照れ、笑い合い、淡い雰囲気になるはずだ。
私は聞き間違えか、彼が無意識のうちに誤った返事をしてしまっただけではないかと思い、念のためもう一度質問をぶつけてみた。
「可愛い彼女さんだね。いつから付き合ってるの?」
「うーん。昨日かな?」
それは歯車が狂い始めている事を決定的なものとする答えだった。
桜坂立花の方へと視線を移せば、照れくさそうに私に微笑みを向けていた。その顔がなんとも腹立たしく、普段は温厚な私でさえ、殴ってやりたいと思った。
一体どこで歯車が狂ってしまったのだろうか。
私は予想外の出来事に動揺していた。そして、自分の記憶を辿ろうとしてみるが、同じ場面を幾度も繰り返してきたせいか、私の頭の中に詰まっている記憶は、どれも似たような場面だった。
結局、頭に浮かんできた場面が、一体いつの世界軸の記憶なのか、判別がつかず、歯車が狂い始めた要因を突き止められなかった。
とにかく、狂い始めた歯車を修正、場合によっては排除し、変わり始めた運命の流れを正常に戻さなければいけない。
しかし一方で、別の考えも湧き上がってくる。
もしかしたら、彼と桜坂立花が恋人になる事で彼が生き永らえる事ができるのかも……。
そんな考えが頭を過った途端、恵美の高い声に呼ばれた。
「奏、そろそろ戻らんとやばいよ」
「え? あ、うん……」
頭が一杯になっている私は曖昧な返事をしたが、すぐに身体は動かなかった。そうしているうちに恵美は、桜坂立花と別れの言葉を交わし、手を振り合うと、私の手を引いた。
私は不意に引かれる力に抵抗する事はなく、足を進ませながら、最後に遠ざかっていく彼を見た。彼はぎこちなく笑っていた。それがどういう意味なのか、私には理解できなかった。
ありがとうございます( ˙-˙ )




