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100回死んだ彼と彼女と、私  作者: 翼 くるみ
【 I.彼 】
16/33

16.消毒液の臭いと「葉月」という名前と、僕

病院に来た百瀬正志。そこで、意外な人物に会う。

 消毒液の臭いが鼻につく。そのせいで、深夜を回っても眠くはならなかった。


 救急外来の待合室は、常に明かりが点っており、引っ切り無しに来る患者のせいで、時間の感覚が曖昧になった。


 いつまでも、いつまでも、「今」が続くような気がして、僕にいろんなことを考えさせた。


 立花の事、奏の事、あの男の事、これからの事、自分の事……。



 しかし、それらは東の空が明るくなり始めると共に、まるで夢から覚めたように、跡形もなく消え去り、自分は一体ここで何をしているのだろうかと思った。


 そんなとき、看護師から男の家族と連絡がついたと報告があった。そして、もう帰ってもいい、と言われたが、自宅に帰る気にもなれず、僕は男の容態が安定するまで、待合室で待機していることにした。


 僕は、どこかであの男が助かって良かったと思った。


 憎たらしいと思いながらも、どこかで憎め切れず、それは僕の人の良さではなく、あの囁き声のおかげなのだろう。


 ――憎しみだけやったら、生きていけんよ。




 待合室の長椅子で項垂れていると、不意に冷たい空気が、待合室に流れ込んできた。僕はまた具合の悪い誰かが外来にやってきたのだろうと思い、顔を上げなかった。


 しかし、懸命に呼吸を整えようとする息遣いの合間に、聞き覚えのある声が響いた。


 「はあ、はあ……。正志君?」


 まるで旋律のように美しいその声を僕は聞きたくて、聞きたくて、求めていた。立花の友人らから罵倒と叱責を受けた可哀想な僕をその声で慰めて欲しかった。



 しかし、場が悪い。


 彼女がここに来たという事は、あの男を心配して駆け付けたという事なのだろう。


 僕は重々しくなった頭を上げた。


 「……奏」


 息を切らした奏は驚いた表情で僕を見詰めていた。


 当然ながら制服は来ておらず、ジーンズにパーカーを合わせ、髪は後頭部で束ねられている。見慣れない装いに新鮮味を感じた。


 「何でいるの?」


 奏は呼吸を整えながらも震えた声で尋ねた。僕は少し間を空け、曖昧に答える。


 「うーん。付き添いみたいな感じかな。道端で人が倒れていてさ。奏は? 具合でも悪いのか?」


 自分でも意地悪な質問だと思った。どう見ても奏は病人には見えなかったし、あの男の見舞いに来たことは明白だった。


 「私は、ちょっと……ね」


 奏は口籠くちごもると、目線を外した。


 僕に聞かれたくないのか、あの男の存在を隠しているつもりなのか、どちらにせよ、彼女は僕には言えない(やま)しい感情を抱いているように見えた。


 そんな彼女を見ると、やはり見殺しにすれば良かっただろうかと、罪深い考えを抱きそうになった。



 僕が奏への包囲網を狭めるような意地の悪い質問を重ねる前に、待合室に看護師の声が響いた。


 「葉月剛はづき つよしさんのお付きの方いらっしゃいますか?」


 処置室の入口から顔を出した看護師は、待合室を見渡し、それらしい人物を探した。そして、その声に奏が反応する。


 「は、はい」


 奏は自分の存在を主張するように手を上げた。


 葉月剛とは、死にかけていた例の茶髪の男の名前だ。僕は自分で助けておきながら、その名を聞いただけで苛々した。


 奏から遅れる事数秒、僕も奏に倣い、手を上げた。


 「……はい」


 僕なりの悪意だった。奏を驚かせて、自分に気を引こうという幼稚な考えだった。そして、その行為は僕の思惑通り、彼女を驚かせた。


 「え?」


 奏は、彼氏なのか何なのか分からないが、たぶん好意を抱いている男の名前に僕が反応した様子を見て、目を丸くした。


 「どういう事なの?」


 状況が理解できない奏は、一歩、二歩と後退り、一旦僕から距離をとった。


 しかし、僕は長椅子から立ち上がると、その数歩を詰め寄った。彼女を離さない——逃がさないためだ。


 彼女がどれほどの想いをあの男に抱いているのか知らないが、きっと僕はそれを上回る想いを抱いている。そして、それを知らしめてやろうと思った。


 「さっきさ、道端で倒れていた人がいたって言ったけど、あれさ……」


 僕は両手でしっかりと奏の小さな両肩を掴んだ。奏の顔が怯えた。それでも僕は止めようとは思わなかった。


 もはや彼女の想いなど、僕はどうでもいいのかもしれない。自分の想いさえ叶えばそれでいいのだろう。


 立花がいなくなり、周囲に責め立てられ、奏に慰めて欲しかった。優しくて、僕に甘い彼女なら全て受け止めてくれると信じていた。


 しかし、彼女は僕だけを見ていなかった。むしろ、僕よりも彼女はあの男に惚れこんでいるように見えた。


 それは僕の妄想なのかもしれないが、もしそうだとしても、僕を苦しめるあの男も、奏も、許せなかった。


 僕は相反する想いが混じり合い、混乱していた。未だになぜ僕はあの男を助けてしまったのか分からない。


 たぶん、昔の大事な人が言っていた言葉が僕の心のなかに残っていたからなのだろう。


 もし昔の大事な人が、今の僕を見たら、何て言うだろうか。だらな人、と笑ってくれるだろうか。



 僕は奏の肩を掴む手に力を込めた。指が食い込み、たぶん痛かっただろう。しかし、僕は手を緩める事もせず、大きく息を吸った。


 「奏ちゃん!」



 僕じゃない声が響いた。


 僕は声を発しようと開けた口をそのままに、視線を待合室の入口へ向けた。


 そこには、だらしないジャージー姿に大きな黒ぶち眼鏡をかけた女性が肩で息をしながら立っていた。始めはその人物が誰なのか分からなかったが、二言目を聞いて、その人物の正体が分かった。


 「つ、つ、剛は、どこけ!?」


 黒ぶち眼鏡の女性は、僕に責め寄られている奏ではなく、葉月剛の事を心配した。僕はそんな薄情な人物の名前を呼んだ。


 「佳代さん?」


 それは紛れもなく、神社で巫女をしている佳代さんだった。巫女の姿とはかなりかけ離れていて、分かり辛かったが、非番の時にかけていた黒ぶち眼鏡と独特の訛りで分かった。


 「あら、少年やんけ。どうしたん? こんなところで」


 今度は僕が驚かされ、状況が読めなくなった。そのせいで、奏の肩を掴んでいた手の力も抜けた。


 「どうしたんじゃないッスよ。佳代さんこそ、何しに来たんスか?」


 「私? 私は剛が倒れたっていうから、飛んできたんよ」


 ますます意味が分からなくなってきた。僕は今更ながら、奏に視線を移し、事情の説明を求めた。


 「どういう事?」


 「えーっと……剛——葉月剛って言うのは、私のお兄ちゃんなの。それで、佳代さんはお兄ちゃんの彼女さん」


 僕は衝撃のあまり腰が砕けそうだった。


 「で、でもさ、お兄さんと全然顔似てないけど? 苗字もさ、奏は『佐藤』だろ?」


 「あっ」と奏は何かを思い出したかのように口許に手を当てた。それから申し訳なさそうな顔を僕に向ける。


 「ごめん。佐藤って言うのは、前の苗字なの。時々、間違えちゃうんだ。今はね、葉月奏はづき かなで。両親がね、再婚で、私たちは連れ子だったから顔が全然似てないんだよ」


 お茶目な奏の表情を見ると怒りは湧かなかった。それよりも、今までの僕の想いは一体何だったのだろうかと、馬鹿らしくなった。



 奏が他の男に好意を抱き、僕の事を弄んでいる、と思っていたのは、全て僕の勘違い。あの男——奏の兄に対し、勝手に嫌悪感を抱き、僕は自分の妄想にひとりで翻弄されていたのだ。


 疲れがどっと押し寄せてきて、心底、見殺しにしなくて良かったと思った。


 すると、安堵やら、気疲れやら、何かよく分からない感情が押し寄せてきて、立っている事もままならなくなった。


 僕は奏から離れ、よろけながら後退さると、元座っていた長椅子に崩れるように腰を下ろした。そして、重くなった頭を何とか保ちながら、佳代さんを見上げた。


 「でも、佳代さん、彼氏いないって言ってませんでしたっけ?」


 「少年、失礼やね! それ何時の話けよ!」と、怒りを向ける佳代さんに、僕は「ごめんなさい」と素直に謝った。それを見て、奏は「ふふっ」と小さく笑った。


 「ふたりは、なんか姉弟みたいですね」




 あれほどまでに憎しみやら怒りを抱いていた男——奏の兄の剛さんは、話してみると、なかなかに熱い人だった。


 そして、幸いな事に、倒れていた時の記憶は曖昧になっているようで、僕が冷たい眼で見下ろしていた事は覚えていなかった。


 「正志君か! ありがとうな! おかげで助かったわ。ガハハハッ!」


 意識を取り戻した剛さんは、寝台の上で上体を起こし、豪快に笑った。


 その様子を佳代さんは心配そうに見詰め、「あんま、無理せんといてよ」と言い、妹の奏は、「やれやれ」と口許を緩ませながら、呆れていた。


 そんな温かな一場面を見て、僕は改めて見殺しにしなくて良かったと思った。そして、一人芝居を演じていた自分が馬鹿らしく感じ、とても恥ずかしかった。

ここしばらくは、なんか重々しい雰囲気になってましたが、実は勘違いという具合でこの部は終わり(。-∀-)

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