13.彼女と僕と、相合傘
佐藤奏の知らない一面を見た百瀬正志。
次の日もいつも通り神社へ行くと、そこには彼女もいた。
意外だったのは、心挫けた僕が神社参拝に赴いた事ではない。隣町で通り魔事件が起こった事でもない。鳥居の前で、いつものように奏が待っていたことだ。
昨日から降り続いていた雨はまだ止んでおらず、僕は久しぶりに雨に打たれながら神社へとやってきた。
鳥居の下には、ビニール傘を差した少女が立っていた。溜まった雨粒がビニール傘を不透明にしていたが、僕にはすぐにそれが奏だと分かった。
彼女は一体どういうつもりで、今日も参拝にやってきたのだろうか。
驚きのあまり、不本意にも自転車のブレーキ音が鳴り、奏が傘を上げ、顔を覗かせた。
「おはよう。正志君」
焦る僕の心情とは逆に、奏の声は穏やかだった。
もしブレーキ音が鳴らなかったら、奏に気付かれる事無く、僕は神社参拝から逃れられただろうか。
溢れ出す焦燥感を奏の穏やかな声で宥められた僕は、そんな事を考えてみた。そして、すぐにそれを否定した。
たぶん、僕はこの神社参拝から逃れられない。なぜなら、これは僕に科せられた病なのだから。
「おはよう……」
僕は自転車を降り、震えた声を返した。すぐに彼女のもとへ歩み寄らなかったのは、まだ心の整理がついていなかったからだ。
しかし、奏は僕の濡れた様子を見ると、すぐに駆け寄ってきた。
「どうして自転車で来たの? びしょ濡れだよ。大丈夫?」
奏はそう言って、僕を傘のなかに収めると、ブレザーのポケットからハンカチを取り出し、勝手に頭を拭いてきた。
どうやら彼女も「雨が不安を流してくれる」という僕の変態的な思想を理解できないらしい。昨日、大人びて見えた奏は、近くで見るとやはり幼かった。
奏は一通り僕の頭や肩を拭き終えると、満足そうに微笑んだ。
「よし。とりあえずは、これでいいかな」
彼女の肩は、僕を傘に収めていたせいで濡れていた。僕はそんな彼女の雨粒を払う事も拭う事も出来なかったが、恩義だけは返そうと思った。
「洗って返すよ」
「ううん。いいの。私が勝手にした事だし、気にしないで」
奏は相変わらず僕に優しくて、甘かった。僕もついそんな彼女に甘えてしまう。
「そうか。悪いな」
ただ、間近で奏の顔は直視できなかった。不自然に僕は目線を反らせ、鳥居を見上げた。鳥居は赤いはずなのに、黒っぽく見えた。
再び、僕の世界の色は抜け始めていた。
正直言うと、昨日、奏が会っていたあの男が何者なのか、気になって仕方がなかった。
ふたりの親密そうな様子は、ただの友人には到底見えなかったし、顔も似ていなかったので、兄妹でもないと思った。
となれば、選択肢は狭まり、考えたくもない答えに辿り着きそうになる。
だから、僕は思考を停止させ、考えないふりをした。しかし、僕には見せない顔が、奏にもあるのだと知り、息が苦しくなった。
考えてみれば、それは至極当然の事であり、まだ出会って間もない僕らはお互いの事を知らな過ぎるし、24時間ともに過ごしている訳ではないので、僕の知らない顔があってもなんら不思議ではなかった。
「ねぇねぇ」
手水舎で、手口を清め終わった所で、奏が僕の服の裾を引いてきた。
「何?」
僕が振り返ると、奏は潤んだ瞳で僕を見上げていた。
「次の休みもどこか行かない?」
どういうつもりなのだろうか。
これは女性特有の気まぐれな言葉なのか、彼女の悪意のある言葉なのか、僕には判断がつけられたなかった。ただ、ひとつ確かな事は、僕は彼女の潤んだ瞳に弱いという事だ。
「ああ。いいよ。たぶん、暇だし」
またあの男の物を買いに付き合わせられると思うと、うんざりした。しかし、それ以上に僕は奏に依存していた。
彼女が僕の方を向いていないとしても、僕の心は彼女へと向いている。
どんなに顔を背けても、運命の悪戯が僕たちを引き寄せようとしてくる。
神様って奴は、本当に残酷過ぎる。
「やった! ありがとう。今度は、正志君の行きたい所に行こうよ」
そう言う奏の顔には、悪意など一切含まれていなかった。純粋に喜んでいるようにしか見えなかった。
それが大女優顔負けの彼女の演技だとしても、阿保で腑抜けの僕はそれを信じたくなってしまう。
奏は、いつも無垢で、純粋で、僕だけを見ていて、僕だけに優しくて、甘いのだと。
そんな事を考えていたせいだろうか。僕はとんでもない事を口走った。
「じゃあ、奏のうちに行きたい」
きっと奏の事をもっと知りたいと思った結果、出てきた言葉なのだろう。自身でも自分の口を疑ってしまった。
しかし、僕の予想に反して、奏は少し驚いた表情をしただけで、動揺はしていなかった。そして、彼女の返事を聞いて、今度は自分の耳も疑った。
「いいよ! うちにおいでよ」
奏はにこやかに、まるでいつも僕が彼女の家に行き来しているかの如くそう言った。
その心は全く読めない。
彼女にとって僕が有益な存在になるとは思えないし、ただ弄んでいるようにも思えない。
僕がそう思いたくないだけなのかもしれないが、彼女の表情からは嘘は感じなかった。本当に心から僕をもてなしたいと思っているように感じた。
僕の思考はますます混乱した。
そのせいで、「ごめん」と訂正する事も出来ず、僕は次回の休日に奏の自宅へ行く事になった。
「学校までどうやっていくの?」
参拝後、鳥居を潜ると、奏がそう尋ねてきた。
僕は境内の外で主人の帰りを待っている自転車を見た。
可哀想な事に、主人が雨に濡れる事を良しとしているせいで、その自転車は水が滴る程濡れていた。
サドルなんかは水分を含み、黒っぽく変色している。そして、もっと不幸な事にその主人はまだ雨の中、走らせるつもりだった。
「自転車かな」と僕が当然のように答えると、「雨だよ?」と奏は自転車か、僕を案じるように質問を投げかけてきた。だから、僕はまた当然のように答えた。
「知ってるよ。雨に濡れるのは、嫌いじゃないんだ」と言いつつも、雨に濡れる事が好きな訳でもない。
さすがに土砂降りの時や台風の時なんかは、合羽を着るか、傘を差す。ちなみに、参拝に行かないという選択肢は僕にはない。
僕の答えを聞いた奏は「ふうん、そうなんだ」と言って、口を尖らせた。そうかと思と、少し間を空けて、今度は笑顔を作ってから言葉を付け加えた。
「まあ、確かに雨に打たれると、不安な事とか心配な事とか、全部洗ってくれるような気がするよね」
傘に当たる雨音が彼女の言葉を邪魔した。しかし、それでも確かに僕の耳には届いた。
誰にも理解されていないと思っていた僕の独自の思想を、まるで読み取ったかのように、彼女は言った。
一瞬、彼女は超能力者なのではないかと思ったが、小さな傘に収まっているせいで触れ合っている肩からは異能の力は感じなかった。ただ女性特有の柔らかな感触だけが伝わってきた。
やっぱり僕らは気が合うんだ。
結局のところ、その考えに行きついた。
「奏も時々、雨に打たれるの?」
「さすがにないかな。風邪ひいちゃいそうだし、何より寒いし」
尤もな答えだった。苦笑いを浮かべる奏は、懸命に僕の思想を理解し、共感しようと努めている様子だった。その姿勢だけでも十分有難いと思えた。
依然として南側の門は通行止めになっており、僕らは東側の新しい橋を渡って、古城跡地の敷地外へ出た。
そこで、いつも僕らは別れ、其々の学校へ向かう。今日もその流れだと思ったので、僕は「じゃあ、そろそろ行くよ」と別れを告げた。
しかし、奏の返事はすぐには返ってこなかった。足を止め、しばし俯き、何かを考えているようだった。
僕が「どうした?」と訊こうとした時、奏は顔を上げた。
「ねえ。送って行こうか?」
それはつまり相合傘で登校するということなのだろうか。
奏の厚意は非常に有り難かったが、さすがに学校の奴らに奏と居る所を見られるのは、抵抗があった。
日頃、立花と共に登校していたところは見られていたし、隠してもいなかったが、周囲には幼馴染、腐れ縁、という事で通っていたので、とやかく言う奴もいなかった。
しかし、奏は違う。彼女の存在を学校の奴らは何も知らないし、立花が死んだ事は当然周知されている。
幼馴染を亡くした僕は、悲愴のなかに溺れている事になっているのだ。
そんな中、新しい女、しかも他校の生徒を連れて行けば、人格を疑うだろう。冴えない男くせにと、妬む奴だっているかもしれない。
僕自身、友人は少なく、周囲の目もそれほど気にする質ではないが、もしかしたら奏にも危害が及ぶ可能性だってあり得る。それだけは何としてでも避けたい。
もし僕がもっと社交的で、自分に自信がある能天気野郎だったら、「どうだ! 俺の彼女だぞ」と嘯くかもしれない。
正直、そうしたい気持ちは少なからずあるが、それが出来るほど、僕には意気地はないし、もしものときに奏を守れるほどの力もない。だから、僕は奏の提案は、丁重に断ることにした。
「いや、さすがに悪いよ」
しかし、何を思ったか、奏は食い下がってきた。そして、伝家の宝刀ならぬ、潤んだ瞳で僕を見上げる。
「遠慮しないで。送っていくよ。私、まだ時間あるし、正志君の学校見てみたいし」
何度でも言うが、僕は奏の潤んだ瞳に弱い。それでも、僕は僕なりに無駄な対抗をしてみた。
「面白くないよ?」
「いいの」
「楽しくないよ?」
「いいの」
「ホント、普通の学校だから」
「いいの」
「……わかったよ」
当然、僕が折れ、奏は勝利の笑みを浮かべた。
「やった!」
しかし、僕もただでは負けず、ひとつ条件を出すことにした。
僕は「ただし——」と言いながら、自転車のハンドルを片手で持つと、空いた手で奏の持っていた傘を奪った。さすがに彼女も驚いた表情をしたが、僕は気にせず、前へ向き直った。
「傘は俺が持つ。奏が持ってると、頭が当たっちゃうからさ」というのは、言い訳だ。
奏はずっと僕に傘を寄せてくれていたので、肩が濡れていたのだ。だから僕は、彼女の傘を奪い、なるべく彼女が濡れないようにしたかった。
すぐに前に向き直ったのも、泳ぐ眼を見られないようにするためだ。彼女の瞳は簡単に僕の嘘を見抜いてしまうから。
そんな僕の気遣いを知ってか、知らずか、奏は嬉しそうにまた笑った。
「ありがとう!」
たぶん、奏は僕の気持ちに気付いていたのだろう。
僕があの男の事を気にしていると、知っていながらも、彼女は僕に優しくする。僕が離れないように留めようとしてくれる。
僕はそれにまんまと乗せらせて、彼女に甘える。全てを許容し、受け止めてくれる彼女に甘んじてしまう。彼女の横はとても居心地がいいから。
そして、はっきりさせようとしていた僕らの関係は、結局曖昧になってしまう。友達でもなく、恋人にもなり切れず、僕らはあやふやなまま、茫々(ぼうぼう)とした世界で、霧のかかった時間を共に過ごす。
一見見晴らしがいいように見えても、霧がかかっているせいで、どこまで続いているのか、先が見えない。僕らの関係に終わりはあるのだろうか。
友達か、恋人か、将又、赤の他人か。
関係性をはっきりさせなければいけない訳ではないが、今のままで良いとも思えなかった。僕らはどこに向かっているのだろうか。彼女の指差す方向に、希望があるのだろうか。
冬の雨は寒いですからねー。
普通に考えて、風邪ひきますわな(´・ω・`)




