爪
布地に手が引っかかる感触がして、私はその手を見た。右手の親指、その爪先が少し、欠けている。まるで私のようだと微かに思って、それはあまりにも皮肉にすぎると笑って誤魔化した。
突然笑う私をエスコート役の男が、訝しげに見ている。私は彼に説明する気がないので「ワイン、美味しいですわ」とだけ言った。
絢爛豪華な王城の夜会。黒い闇を引き裂く橙の灯り。花より華を撒く女性たち、集う男性たち。酒と香水と、風通しの悪いダンスホールに籠るたくさんの人々のにおい。
アルコールくさい呼気を吐いて、私は傍らに手を出す。
「私たちも踊りませんか」
男は一瞬驚いた顔して、それでも私の手を取った。
私のドレスが手を引く男によって風になびく。ホールに籠るにおいの一つになっていく。楽隊の音は遠く、人々のざわめきは近い。私の踊りはそんなに滑稽だろうか。そう思いながらも私は誰のためでもない踊りを踊る。目の前の男のためでも自分のためでも、まして観衆のためでもない踊りを。
「お付き合い、ありがとうございます。それからごめんなさい」
不躾な視線に晒して。聞き耳を立てられたこの空間では皆まで言うことはできない。けれど彼はそれを確かに汲んでくれたらしい。
「構いません。むしろ素敵なレディーとダンスできたこと光栄に思います」
まあ、なんて白々しい。広げた扇子の向こうでそう思わないでもなかったが、男のこういう慇懃さは気に入っていた。
窓の近くに控えた私は乾いた喉をシャンパンで潤しながら夜空を見上げた。暗澹とした闇の中に輝く星たちが美しい夜だった。
私がこうして衆目に晒されるのは、私が私であるせいだ。父貴族とメイドの間に生まれた不義の子はそのままであったら一生日の目を見ることはなかったはずだった。父にはちゃんと正妻とその息子、それから同じ年の娘もいた。私は母とふたり、生涯日陰者として後ろ指を刺されながら生きるしかなかった。
ずっと続いていくと思っていたそれが変わってしまったのは今から数年前の話。正妻、息子、娘、そして父、全員が悪意ある毒にやられたのだ。
当時は当然日陰者の私たち母娘に疑いがかかった。が、その毒がどうやら庶民では手に入らない高価な規制品であったこと、私たちにそれほどの財力がなかったこと、それからしばらくして犯人が捕まったことで無罪となった。父の政争相手による犯行だった。
父は辛うじて助かったが精機能を失い、そのほかの家族は全員死んだ。跡を継ぐものを失い、また作る機能すら失ってしまった父に残されたのは非嫡子の私だけだった。
私は有無を言わさず貴族の娘に仕立てられ、所以から「毒姫」とあだ名されつつも、妹の婚約者であった男と、こうして『目』の中を泳いでいる。
母は私が貴族デビューをする少し前に亡くなった。気弱な人でずっと自分の犯した罪に震えているような人だった。かと言って父を拒絶することもできなかった哀れな人。それでもただひとり私を愛してくれた人。私をこんな立場にして、一人だけ逃げてしまったあの人を恨まない気持ちがないではないが、それ以上に与えてくれた幸福だけが今の私の支えとなっている。母のことは愛している。白い百合とともに業火に焼かれ灰になってしまったあの人を見送ったのは私だけ。父の目を盗んで名も無き墓に入れられた母を見舞うのは私だけ。
力を減らした父が義母を娶ったのは母が死んですぐのことだった。まるで、その時を待っていたかのように父は年若い娘と再婚した。若い娘はとても美しく、老いた父には不似合いだったが、誰も何も言わなかった。
当たり前だが父と義母は白い結婚である。私より数歳上なだけの義母はその身に宿る熱情を抑えることができなかったらしい。彼女は私の婚約者と通じている。そしてそれを父は知っていて見逃している。
隣に立つプラチナブロンドに縁取られた淡いブルーグレーの瞳は如何にも好青年で不浄なことなど一つも知らないという顔をして、裏で禁断の恋に熱をあげ溺れているのだから人というのはわからないものだ。
彼が私を好意的に見つめているように見えるのも、義母が私に気を使うのも、父が私に高価なドレスを与えるのも、みんなが皆、私が何も知らないかわいそうな娘だと思っているから。もしくはそんな私を嘲笑っているからかもしれない。別に知らないふりをしているだけなのに。
急に貴族になって豪勢な食事にきらびやかな衣服、ふかふかの寝台を与えられた幸運な庶民の娘。望む望まずに関わらず与えたれたものをただ享受しているだけの愚かな娘。
だが、それは私を中傷するには弱すぎる。だってそれはただの事実。私は死んだ母とは違い、図太い性分だ。生きていけるならドレスだって着るし、合わない食事も取る。将来の結婚相手が義母と通じてようと構わない。それで罰を受けるのは私ではない。
他人に利用されるためだけに私がいるのなら、その他人を利用して私は生きるだけだ。逆を返せばそうしなければ私は生きていくことはできない何も持たない娘なのだから。
夜会から帰りドレスを脱いで下着姿になると私は爪ヤスリを取り出した。欠けた部分がもうどこにも引っかからないように丸くしていく。
白い欠片がパラパラと落ちる。角のない指先を見て、私はきっとこうなるのだろうと思った。
どこにも、誰にも、ひっかからないような爪に。