第六幕
「どうする? このまま乗っていくかい?」 ヒサシゲは、油で汚れた手を手ぬぐいで拭いながら尋ねた。
「えっ、いいんですか?」 馬移駆に跨り、乗り心地を確認しながらカイトが答える。
「ああ、かまわないよ」
「じゃ、そうします」
ヒサシゲが腕時計をチラリと見る。 短い針は一二時をさそうとしていた。
「そろそろお昼だね。 どうする? ご飯、食べていくかい?」
「あ、いえ、せっかくなんですけれど、これで失礼します。 家で用意してくれていると思うんで」
「そうかい。 それじゃ、運転には十分、気を付けて帰るんだよ」
「はい、わかりました。 今日は、ありがとうございました」
カイトは、ヒサシゲにペコリと頭を下げながら礼を言うと、馬移駆を押しながら工房の外へと出た。
馬移駆に跨り起動素位置を押す、蒸気炎振が駆動音を立てながら起動すると、排気口から勢いよく蒸気が噴き出しはじめた。 把取を握り、握競を徐々に回していく。 すると馬移駆は、ゆっくりと発進しだした。
去り際にもう一度ヒサシゲにペコリと頭を下げる。
そして、笑顔で見送ってくれているヒサシゲの元を後にした。
馬移駆の調子は、すこぶる順調のようだ。 蒸気炎振は心地よい一定の律動を刻みながら稼働し、車輪に動力を伝えている。
町の山側に沿って舗装された石畳の車道を、蒸気機関の三輪車や四輪車に交じって軽快に走行する。
夏の太陽に照らされた山々の緑葉は、活き活きと輝いていた。
町中に入ると、ちょうど昼時のせいもあって、あちこちの飲食店が人々で賑わっていた。
斑鳩は、港町とあって新鮮な魚介類を味わうことができる。
そして、貿易の中継地点でもあるので様々な商品が蒸気船で運ばれてくる。
そのせいもあって一年中、町中は人々で賑わっていた。
さらに一年の中でもっとも斑鳩の町が人々で賑わうのが毎年夏に行われる綿津見祭だ。
斑鳩には、綿津見祭の起源になったと言われる伝承がある。
その昔、この海域一帯で不気味な現象が起きた。
ある夜、水平線にポツリと不気味な炎が出現した。
その炎が日に日に増えていき水平線が炎で覆われた。
そんな不気味な現象が起きた日から突然魚が全く取れない日々が続いた。
まるで海から魚が消えてしまったかのように。
漁師達は、海の神様がお怒りになったせいだと思った。
人々は、水平線に浮かぶ多数の炎を海の神様、綿津見様の使いなのだと考えた。
そこで人々は綿津見様の怒りを鎮める為、供物を捧げる事にした。
古から神に通ずると云われている巫女を供物として。
供物として捧げられた巫女は、一人小さな小舟に乗せられると炎が灯る水平線へと消えて行った。
すると不気味な現象は起こらなくなり、魚も海に帰って来たという。
この不気味な現象は度々起こり、その度に巫女は供物として捧げられた。
そして、長い長い年月が経った今では綿津見祭と言う祭事に変化した。
この祭事の最大行事といえば、毎年斑鳩の町人達から投票で選ばれた巫女役の女性が、数十人が担ぐ豪勢な神輿に乗せられ町中を練り歩くというものだ。 この行事は、海の神である綿津見様に巫女を供物として捧げる様を模したものらしく、大漁祈願を願う行事らしい。
この祭事は綿津見神社が中心となって毎年おこなわれている。
馬移駆に乗ったカイトは、歩いてカラクリ屋に向かった時の三分の一ほどの時間で綿津見神社へと帰る事が出来た。
鳥居の近くに馬移駆を止めると、石段を上がって井戸へと向かった。
眼鏡を取り、手や顔についた油汚れを井戸水で洗い落とそうとした。
「やっぱり冷水じゃ油汚れは中々おちないな」
母家の離れにある風呂場のお湯で油汚れを洗い落とそうと思い立ち、風呂場へと向かう。
引き戸を開いて風呂場の脱衣所へ入ろうとした、その時だった。
「へ?」 カイトは、間が抜けたような声と同時に体が硬直し思考が止まってしまった。
視界に映るのは、濡れた長い黒髪に蒸気する艶のある白い肌、ほのかに火照った顔からは滴がしたたり落ちている。
そこには一糸まとわぬ女の人が立っていた。
綺麗な女だと思った。
二人の視線が合う。
そして、境内に悲鳴が響き渡った。