第二十五話/センダンが休んだ日
「魔法……一言でそう纏められがちな概念ですが、ええと……実はこれには、非常に多くの系統が存在していたようです」
海桶屋のフロントで、ヒロは参考書を片手にたどたどしく文面を読み上げた。
先日、カナの合格祝いでロビンを訪れた帰りに、書店ロレーヌで購入した書籍である。
入手困難の書籍につき、価格10000レスタ。ヒロの一ヶ月の小遣いに相当する額だ。
少々痛い出費ではあったが、ソファに腰掛けるセンダンが、珍しく真面目な表情で講義を聞いてくれている事には、少しだけ救われる。
「まずは人智を超えた超自然現象を引き起こすもの。これが一般的に魔法と認識されている現象です。
自然を操る事で起こる現象なので、専門家はマナが関連していると睨んでいます」
「ミクリちゃんが調べているものね」
「ええ。次に死霊術。これは死者の魂を呼び起こして、死者から秘密等を聞き起こす秘術です。
他には錬丹術とか。不老不死になる為の術……なのかな。これは。
あとは、ヒノモトにも陰陽という、物に魂を与える秘術が存在していたようです。
他にもまだまだ、いくらでもありますね」
「なぁるほど」
「中にはその後、薬学等に統合された術も存在します」
「ほうほう」
「ただ……肝心の超常現象が実在したかという事になれば、多くが眉唾物ではあるようです」
「ふむぅ」
センダンが何度か相槌を打つ。
決しておざなりな口調ではなかったのだが、彼女は片方の眉をひそめていた。
何か思う所がありそうな表情を、こうも見せ付けられては、ヒロも無視して続きを読み上げるわけにもいかない。
どうかしたのか、と尋ねようとした所で、先にセンダンが口を開いた。
「ねえ、ヒロ君」
「なんでしょうか?」
「……すっごい胡散臭いね」
「まあ、そうですね」
ぱたん、と音を立てて本を閉じながら頷く。
センダンは、これまで魔法について学んだ事がなく、ほぼ無知も同様であった。
そういう者が……すなわち、一般人が魔法の説明を受ければ、好意的には見られ難いという事である。
「あ。もちろんミクリちゃんの研究は応援するわよ。
ただ、話を聞いていると、雲を掴むような研究なのかな、という気もするわ」
「だからこそ、税金で研究をしている魔法省は、好意的に見られないのでしょうね」
「ふむう。ミクリちゃんも大変だわ」
「そうですね」
ヒロは元気なく言う。
同時に、先日、夜の海を前に黄昏ていたミクリの事を思い出す。
彼女の口から、自分は変わりつつあるという事を聞く事ができたのは大きい。
自分やセンダンが、ミクリを笑わせようと取り組んできた事も、少しはミクリの心理の変化に影響しているのかもしれない。
だが一方では、ミクリが背負っている魔法への想いが大きい事も、理解している。
それは、ミクリに暖かな日々を送ってもらうという意味では、障害になっている。
ただし、ミクリの立場で考えてみれば、その想いを邪険にするわけにもいかない。
亡くなった両親の意思を継ぐ事も、それはそれで尊い事なのだ。
焦らせるわけにはいかない。
ミクリも、落ち着く時間が欲しいと言っていた。
あの日からミクリは海桶屋には顔を出していない。
だから……とヒロは思う。
次に、ミクリが海桶屋に来た時。
その日、その時が、勝負の瞬間となるのかもしれない。
では、彼女はいつ頃顔を見せるのだろうか。
願わくば、春までには……。
「ヒロ君」
センダンに名を呼ばれて、ヒロは思考を断ち切った。
「はい、なんでしょうか?」
「それはそれとして、大事な話があるんだけれど」
「はあ」
気の抜けた返事をする。
ミクリの件以外で、大事な話を受ける思い当たりがなかった。
多分、またいつものくだらない話だろう。
そう考えながらセンダンの顔を見たが、すぐにその考えを改める。
先程までは気がつかなかったが、センダンの鼻の周りがうっすらと赤く火照っていた。
瞼には、うっすらと涙が溜まっているように見える。
彼女が泣いた事が、これまでにあっただろうか。
瞬時には思い出す事ができなかったが、すなわち、あったとしても相当稀な事だ。
「センダンさん……?」
思わず半身を乗り出しながら彼女の名を呼ぶ。
「あのね、ヒロ君」
「はい」
「私ね、今……」
溜めを作られた。
今、何なのだ。
無言で言葉の先を促す。
それを受けたセンダンは、ゆっくりと口を開き、開き、開き、まだ開き……
「……ぶえぇっくしょんっ!!!」
中年のおっさんのようなくしゃみが、彼女の口から飛び出した。
燦燦さんぽ日和
第二十五話/センダンが休んだ日
三月である。
まだ暖かいとは言い難いが、寒さは明らかに和らいでいて、雪が降る兆しはもう見受けられない。
外出時も、日中ならばコートは不要と言って良い。
冬はもう間もなく終わりを迎えるのだ。
草木は芽生えだす。
風からは冷気が抜ける。
人は心を躍らせる。
素晴らしい季節の始まりである。
……ごく一部の持病持ちを除いては。
「ぶぇーっくしっ!!」
花粉症持ちのセンダンが、また品のないくしゃみをして、辛そうに鼻を掻いた。
ヒロは、ふと、何故くしゃみの勢いには個人差があるのだろう、という事を考える。
センダンのようにみっともないくしゃみがあれば、小鳥のさえずりのような小さなくしゃみをする者もいる。
それも、意識して勢いを大幅に変える事は難しいものだ。
そういえば、自分はくしゃみの事を殆ど何も知らない。
そんなどうでも良い思考を暫し走らせるが、今はセンダンの話であると気がついた所で、それは止めた。
「そう言えばセンダンさん、花粉症でしたね」
「うん。スギ花粉が駄目。今日になって、急に強烈なのが来たわ」
「でも昨年はなんともなかったですよね?」
「隔年で強烈なのが来るのよ。ぶぇーく! ぶぇーく! ……うう。ずびぃ」
二度小さめのくしゃみをして、涙目になりながら鼻をかむ。
花粉症に罹った事のないヒロには、その辛さは今ひとつ分からなかった。
大きな症状としては、単にくしゃみが止まらないだけに見える。
目が痛いのは、まあ辛いかもしれない。
彼女曰く、だるさや気力の欠落も起こるそうだが、それは良く分からない。
「うう、しんど……」
「狐も花粉症に罹るんですね」
「狐がどうなのかは知らないけれど、狐亜人は普通に罹るわよ」
「そんなものなんですか」
「そんなもの、そんなもの。
うう。どうでも良い事考えたら、まただるくなった気がするわ」
センダンはそう言って、ソファに深く背中を預けて脱力した。
彼女がカラ元気さえも出せないのだから、相当辛いのだろう。
さすがに気の毒だし、接客にも支障が出る。
ヒロは片手を掲げ『少し待って』とジェスチャーで伝え、厨房の裏にある業務用のチェストから薬箱を持ってきた。
中には包帯、絆創膏、湿布、体温計、他には各種塗り薬、飲み薬が入っている。
花粉症に効く飲み薬も、あるにはあった。
ガラス瓶入りのそれを取り出して、受付台の上に置く。
だが、これには一つ問題がある。
この薬を含む各種飲み薬は、市販物ではない。
民間薬……有り体に言えば、ウメエが調合した薬なのである。
爆弾、とも言う。
「……お婆ちゃんが作った薬ならありますが」
「自家製じゃないけれど、いつだったか、お風呂の素が爆発した事もあったわね」
センダンが、いぶかしむ目つきでガラス瓶を見る。
ガラスは古さを示すように濁っていて、それがまたセンダンを不安にさせるようだ。
ウメエの事は尊敬しているらしいが、それとこれとは話が違うのだろう。
「飲んでみます……?」
「……背に腹は代えられないわ。飲む」
意を決した彼女は、瓶の蓋を開け、水も使わずに中身を飲み込んだ。
それから、薬を体に馴染ませるように、ゆるやかな動きで上半身を揺する。
「……効きそうですか?」
即効性はないはずだが、一応尋ねた。
「んー……」
センダンが首を傾げる。
「プラプーラ効果かもしれないけど」
「プラシーボ効果」
「そうそれ。プラシーボ効果かもしれないけれど、なんだか楽になったような気がするわ」
そう言って、センダンがようやく笑った。
どうやら、少しは効果があったようだ。
ほっと胸を撫で下ろした……その瞬間である。
「!??」
センダンの顔色が、一瞬で真っ青に染まった。
目を見開きながら腹に手をあてがい、中腰気味に体を曲げる。
何かに耐えているように見えたが、それもすぐに限界に達したのだろう。
屈めた体をすぐに伸ばすと、何も言わずに、猛烈な勢いで廊下を駆けた。
その先にあるのは、トイレであった。
「ぶええええっくしょんっ!!」
酷く大きなくしゃみを発してトイレに飛び込んでいった。
新たに腹痛を患った上に、花粉症も治っていない。
どうやら、効果は最悪のようだ。
◇
「で、ワシの出番というわけか」
急遽呼び出されたウメエは、海桶屋の廊下の奥を眺めながら、面倒臭そうにそう言った。
ウメエの視線の先には、壁で隠れていて直接見えはしないが、センダンの自室がある。
到底勤務できる体調ではないセンダンは、自室で横になっている。
彼女の事はヒロも気にはなるが、つきっきりで看病するわけにもいかない。
なにせ、今日は予約客が三組も入っているのだ。
「お婆ちゃんの変な薬のせいだよ。あれ、いつ作った薬なの?」
「細かい事は覚えとらんが、十年くらい前だろうかね」
「へっ?」
思わず声が裏返る。
仮に本来は薬効があったとしても、それだけ古ければ、今では役立たずになっているだろう。
確認を怠った自分にも責任はあるが、どうしてそんな代物を処分していなかったのだろうか。
体調を崩した客に、薬を求められた事がなかったのが、不幸中の幸いかもしれない。
「……後で、お婆ちゃんが作った薬を全部教えてね。処分するから」
「うむ。後でな。それよりさっさと仕事を始めるぞ。今日の予定はどうなっとる?」
「あ、うん。えっと……」
受付台の上に置いていたメモを手に取り、内容を読み上げる。
「今日は予約客が三組。三人家族、五人家族、あとカップルが一組だね」
「全員、夕食は普通に食べるんじゃな?」
「うん」
「特別メニューの類は?」
ウメエが手短に要点を確認する。
いつの間にか、その表情には真剣さが篭っている。
「全員魚介類は大丈夫らしいから、なしだよ」
「家族連れさんは大丈夫なのか?」
「あ、そっか。五人家族さんの所の子が小さいんで、一人分離乳食だった」
「食材は?」
「もう少ししたら買いに行くよ」
「今から買ってこい。何せ人数が多いから、お前一人では間に合わんかもしれん。
ワシも手伝うが、その間フロントをカラにするわけにもいかんからな。
チェックインを始める前に、あらかた済ませてしまうぞ」
「了解」
ウメエの判断に、特に異論はない。
ヒロは素直に返事をして、土間へと向かった。
◇
三月は、献立に少しばかり苦労する時期である。
旬の魚介類は、決して少なくはない。
アサリにハマグリ、ヤリイカ、ニシンにマダイに、サワラ等も美味しい時期だ。
問題なのは、パンチ力。
宿の料理のメインディッシュとして食べるには、味はともかく、満足度に欠ける魚が多いのである。
結果として、この時期はマダイを取り扱う事が多い。
今日の宿泊客は、全員初めての客なので、過去の料理との重複を気にする必要はなかった。
それに、ヒロも扱い慣れている魚の為、調理にそれ程時間を要さないという利点もある。
この日は瑞々しい野菜も多く手に入った為に、鯛の柚子鍋をこしらえる事にした。
無論、まだ陽も暮れていないうちに煮るわけにもいかないので、今できる事は食材の準備が主だ。
まずは野菜を全部刻んでしまう。
長ネギ、青ネギ、春菊、白菜、ニンジン、シイタケ、エノキダケ。それから忘れず柚子。
まな板で台所の音を奏でながら、何の問題もなく全部切ってしまう。
鯛の柚子鍋の本番は、この次だ。
「ヒロ。鯛はお前が捌くか?」
同じく野菜を切り終えたウメエがそう聞いてくる。
ウメエが捌いた方が早いし、綺麗に切れる。
それでもそう聞いてくるのは、せっかくなので経験しておくか、という事だろう。
過去にも何度か作った事がある料理だが、だからといって完全に自分のものにしたわけではない。
ヒロが頷いて返事をすると、ウメエは真鯛が入ったザルを寄越し、自分は海老やハマグリの調理に取り掛かった。
「さてと」
一つ大きな息を吐いて、眼下の鯛を見る。
鱗は事前にゴウの店で削られているので、一番面倒な作業はせずに済む。
まずはエラを切り落とし、次に腹に包丁を入れた。
透き通るような身を見ていると、思わず、鍋の中で煮立つ切り身を連想してしまった。
食材を芯まで暖めるくつくつという音。
鼻を突き抜けるような柚子の香り。
鍋の中に隙間なく詰められた新鮮な食材。
そして、それを囲む人々と賑やかな食卓。
昼食を食べて間もないのに、腹が減り始めた気さえする。
「……おっと」
思わず、空いている手で自分の頬を叩いて正気に戻った。
調理は、時としてこれがあるから困る。
気を取り直して、腹の中から丁寧に内臓を取り出せば、もう後はそれ程難しくはない。
頭と尾がちぎれないように三枚におろして、ひと段落である。
後は味をつけて、身を食べやすい大きさに切るだけ。
それを三組分、すなわち三匹捌けば、鯛の調理は終了となる。
「そっちはどうだ?」
ウメエが様子を見に来た。
答える前にウメエの調理台を覗いてみれば、腸が除かれた海老と、砂出しの最中であるハマグリが置かれている。
ヒロが一匹片付けないうちに、自身の作業を殆ど終えているのだ。
内心では舌を巻きながら、ヒロは肩を竦めてみせる。
「まだまだ、これからだよ」
「そうかい」
自分で聞いておきながら、ウメエは興味がなさそうに鼻息を漏らした。
付近にある椅子にどっしりと腰を下ろし、珍しく温和な表情でヒロを見上げてくる。
「なあ、ヒロ」
「うん?」
「最近、仕事は順調か?」
「順調だと思うよ。昨年の竜伐祭から、お客様は増えているし」
「いやぁ、そういう事ではない」
ウメエがゆっくりと告げる。
普段から早口気味の祖母にしては、随分と落ち着いた口ぶりだ。
ヒロは包丁をまな板に置いて、ウメエに向き直った。
「じゃあ、どういう事? 鯛の事ならまだまだだよ」
「その事でもない。お前の気持ちの事だ」
「気持ち……?」
ウメエの言葉を繰り返しながら、言葉の意味を考える。
要するに、仕事には慣れたか、楽しいか、という事を聞かれているのだろうか。
だとしたら、随分と珍しい質問だ。
これまでウメエから、仕事に対する個人的な感想を聞かれた事はなかった。
これでも、自分の事を気にかけてくれているのだろうか。
そうであれば、幸せな事だ。
普段から聞かれない事等、どうでも良い。
今、こうして聞かれているだけで、ヒロは胸が暖かくなった。
「……うん。楽しいよ」
ヒロは本音を口にした。
「たとえ一日限りのお客様でも、充実した時間を過ごしてもらえるように取り組む仕事は、やり甲斐があるよ」
「ふむ」
「職場環境も良いしね。ゴウ君のお店は良い魚を提供してくれるし、
ベラミさんのいるギルドとも、観光面で連携が取れている。
困った時には、今日みたいにお婆ちゃんや周りの人が助けてくれる。
お給料は、ちょっとばかり少ないけれどね」
「まあ、そうじゃな」
「それに……センダンさんがいる」
そう言って、センダンの顔を思い出す。
浮かんできた顔は、腹痛に歪む顔だったが、とにかく思い出す。
「自分でも正反対な性格だと思うけれど、センダンさんとは不思議と馬が合うよ。
それに、一緒に働いていると、元気を分けて貰っている気がする。
一緒に長く暮らしているからかな。家族みたいな気さえするよ」
それも、本音だった。
彼女の存在は、いつの間にか、自然なものにさえ感じられる。
こうして口にするのは少々恥ずかしいが、それでも胸を張って言えた。
「……そうじゃな。ワシもあの子の近くにいると、若返った気がする」
ウメエが、口の端をにやりと歪ませる。
ウメエとセンダンが、好印象を抱きあっているのは、なんだか嬉しかった。
「楽しい事が好きな人だから、無意識のうちに、その楽しさを周囲にも振りまいているんだろうね」
「まあ、そんな所じゃろうな」
ウメエはそう言って立ち上がった。
緩慢な動きで、壁の向こうにあるセンダンの部屋の方をまた向く。
五秒か、十秒か、それなりの時間、祖母はそうしてセンダンがいる方を見続けた。
早く元気になってほしい、とでも思っているのだろうか。
その気持ちは、ヒロも同様である。
センダンの無駄な元気は、自分にとっては、無駄だけれども必要な元気になっていた。
そう感じるようになったのは、いつ頃からだろうか。
「……ヒロ。魚はよ捌かんかい」
ヒロの方を見ずに、背中越しにウメエが言う。
「あ、うん」
ヒロは、癖になっている間の抜けた返事を返した。
◇
夕食の配膳を終えたヒロは、フロントで待機する事にした。
夜の仕事は、フロント業務の他にも、共有区画の掃除、食器の回収と皿洗い、それに朝食の仕込みが残っている。
だが、夕食を作り終えたウメエが祖父の介護で帰宅した為に、普段同様に残りの仕事を簡単に捌くのは困難だ。
とりあえずは人が欠かせないフロントに就いて、この後の仕事の順序をノート上で整理する。
「ええと……食器の回収は不可欠だけれど……
皿洗いと仕込みは、時間をずらしてフロント受付終了後にすればなんとかなるか」
ぶつぶつと呟きながら、リストアップした作業の横に時刻を刻む。
「掃除は……騒がしくなるかもしれないし、明日早起きしてやろうかな。
ただ、僕が夕食を食べる時間はないか。
センダンさんがいないと、随分としんどくなるなあ」
「あ。やっぱりセンダンさん、休んでるのか」
「!?」
突然、男の声がした。
びっくりしたヒロが顔を上げると、予想もしていなかった者が三名、そこにはいた。
サヨコとベラミ、そして声の主のゴウである。
皆、土間で靴を脱いでフロントの中にまで入ってきている。
ヒロはそれに全く気がつかなかった。
「皆、いつの間に入ってきたの?」
「土間から何度も声かけたぞ。お前が熱心に書き物していて気がつかなかっただけだ」
ゴウがそう言うと、左右のベラミとサヨコも同調して頷く。
ヒロは酷く赤面しながら、ノートを畳んで受付台の隅に移した。
「えっと……こんばんわ」
「おう」
「で、三人揃って、一体どうしたの?」
「どうって、センダンさんの様子を見に来たんだよ。体を壊したんだろ?」
「そうだけれど……」
ヒロはきょとんとした表情で、三人の顔を見回す。
ゴウの店で魚を買った時にはその事を話していないし、他の二人とは今日は顔も合わせていない。
どうしてその事を知っているのだろうと不思議に思っていると、意を察したのか、サヨコが一歩前に出た。
「ウメエさんが、ついさっき、私達の家に来て教えてくれたのよ」
「お婆ちゃんが?」
意外な名前が出てきた。
帰宅する途中で、寄り道して伝えてくれたのだろう。
「で、センダンさんの様子はどうなの?」
「センダンさんが休んでいると、お前も大変だろうしな……」
「海桶屋さんも活気がなくなっちゃうよねぇー。それどころか、ただ店員さんが怖いだけのお宿になっちゃうよー」
「………」
ヒロはもう一度、今度は三人をしっかりと観察するつもりで顔を見回す。
サヨコは、不安の色を明確に浮かばせていた。
ゴウも、サヨコ程はっきりと心配はしていないが、真剣な目付きをしている。
ベラミだけは、いつも通りの眠そうな顔付きだ。
でも、彼の猫耳は、過敏に店奥の音を聞き取ろうとしている。
皆、そこまでセンダンの事を心配してくれていたのだ。
まるで自分が心配してもらったかのように、ヒロは嬉しくなった。
「……皆、ありがとう。
花粉症はどうしようもないけれど、腹痛はもうじき治るんじゃないかな。
今日はお客様もいるから、私用で中に入ってもらうのはまずいけれど、皆が来てくれた事は伝えておくよ」
「そうかい。それじゃー……」
ヒロの言葉に反応したのはベラミだった。
よく見れば、彼は手に紙袋を持っていた。
片手でも持てるサイズの紙袋だったが、彼がそれを受付台の上に置くと、ドスン、という鈍い音がした。
中身は、それなりに重い物のようである。
「これ、僕達からのお見舞いの品だよー」
「お前からセンダンさんに渡しといてくれよ」
「急だったから、家にあるような物しか持ってこられなかったわ。ごめんね」
「お見舞いまで……わざわざありがとう」
三人に深々と頭を下げる。
感謝の度合いを示すように、長く下げ続けた頭をゆっくりと起こすと、眼前に紙袋がもう一つ増えていた。
「……こっちは?」
「これはヒロちゃんに。自分のご飯を用意する暇もないだろうと思って。
菓子パンしか用意できなかったけれど、それでも良ければ」
サヨコが、そう言って小さく微笑んだ。
何から何まで、痛み入るという他ない。
改めて感謝の言葉を述べようと、ヒロは口を開きかける。
ぐぎゅ~~~っ
だが、それよりも一瞬早く、ヒロの胃袋が返事をした。
四人とも、思わず、狐につままれるような表情を浮かべる。
一瞬の沈黙。
その沈黙が、誰からともなく立てた笑い声によって破られるのは、ほんの数秒後の事であった。
◇
フロント受付終了後、ヒロは残務に移る前にセンダンの部屋をノックした。
入室許可の言葉が聞こえてきたので中に入ると、どてらを纏ったセンダンが布団から抜け出そうとしていた。
「ああ、無理しないで大丈夫ですよ」
手を前に突き出してそれを制する。
センダンは小難しい表情をしたが、結局は立ち上がらずに、上半身を起こすに留めてくれた。
彼女の顔色は少々マシになっているが、口にはマスクを付けている。
やはり、花粉症は短期間で治せるものではないようだ。
これは、もう暫くウメエに助けてもらわないといけないかもしれない。
そんな事を考えながら、センダンの傍で、足を広げ気味で正座する。
「ヒロ君、今日はごめんね」
先にセンダンが謝ってきた。
「何言ってるんですか。体調を崩した時くらい、しっかり休まないと」
「でもさあ」
「それに、今更しおらしくなるなんて、ガラじゃないでしょうに」
「むぅー。でもヒロ君だって大変でしょう?」
「……家族みたいなものなんですから、こういう時くらい、頼って下さい」
言っている途中で恥ずかしくなって、視線をつい外してしまう。
だが、それを言葉にせずにはいられなかった。
ウメエや、ゴウらと話した事で、センダンの掛け替えのなさを再認識したからかもしれない。
「……そうね。そうさせてもらうわ」
センダンの返事は、どこか弾んでいるように聞こえた。
彼女から視線を外しているので、その表情まで読み取る事はできない。
だが、気分を害したような事はなさそうである。
「ところで、病気の調子はどうですか?」
先程の発言を誤魔化すように尋ねる。
「腹痛は、もう大分良くなったかな。一晩眠れば完治すると思うわ」
センダンは淡々と言う。
どうやら、無理はしていないようだ。
「花粉症の方は」
「そっちは相変わらずねえ。仕事、どうしようかしら」
「無理だけはしないで下さいね。食欲は?」
「多少はあるけれど、今日は物食べるの止めとくわ」
それが無難だろう。
サヨコから貰った菓子パンを、センダン用にと一つ残していたが、それを勧めるのは止める。
その代わりに、三人から貰った見舞いの品入りの紙袋を差し出した。
「あら、これは何?」
「ゴウ君と、サヨちゃん、あとベラミさんがお見舞いに来たんです。
これはそのお見舞いだそうですよ」
「へぇー。治ったらお礼しなくちゃね。早速開けてみるわ」
センダンは嬉しそうにそう言って紙袋を開封し、中に手を入れた。
ヒロは、中には何が入っているのか見ていないし、聞いてもいない。
中身はヒロも気になっていたので、身を乗り出すようにして紙袋を覗く。
「まずは……ああ。ああ」
センダンの声が途端に曇る。
中から取り出されたのは、パック詰めの餅だった。
誰からのお見舞いなのか、一目瞭然の一品である。
「……治ったら、食べたらどうです?」
「まあ、味は悪くないからねえ」
乾いた笑いを浮かべながら、彼女は餅パックを畳の上に置いた。
「今度は……あ。これは助かるわ」
次に取り出されたのは、花粉症薬のラベルが貼られた小瓶だった。
開封済みの市販薬だが、中身はまだ十分入っている。
「これは、ゴウ君かな。それともサヨちゃんでしょうかね」
「この現実的なチョイスはゴウ君じゃないかなあ」
「そう言われれば、そうかもしれませんね」
「薬を買いに行ってもらう暇のなかったし、助かるわ。寝る前に飲んでおこっと」
餅パックの隣に、小瓶が置かれる。
「それじゃ、残るはサヨコちゃんからの品ね」
センダンがそう言いながら紙袋に手を入れるが、すぐに怪訝な顔つきになった。
すぐに手を戻して中身を覗き込んでいるが、ヒロからは中が見えない。
ヒロに見えるのはセンダンの表情だけだが、その表情はすぐに笑顔に満ち溢れていった。
「センダンさん、何が入っていたんですか?」
「重いと思ったら、どうりでどうりで。これよ。こーれ」
センダンがまた手を入れて、中身を取り出す。
出てきたのは、手のひらサイズの鉢に植えられた二輪のタンポポだった。
茎は緩やかな弧を描いて、力強く天を目指している。
花びらは鮮やかな色合いで、存在を主張するように精一杯横へと広がっていた。
「タンポポ……」
「外に出られない分、目を楽しませようという心遣いなんでしょうね。
私が駄目なのはスギだから、タンポポなら問題ないし」
「なるほど。可愛らしくて良いですね」
そう言いながら、ふと、ヒロは思う。
いつまでも続くような気さえしていた寒風の季節は、もう間もなく終わる。
そして、この花が咲く季節が訪れつつある。
センダンの花粉症も、見方を変えればその兆しといえるかもしれない。
「……もうすぐだね」
センダンが明るい声で呟いた。
どうやら、同じ事を考えていたようである。
ヒロは何も言わずに、こっくりと頷いて笑った。
――もうじき。
春は、もうじきやってくる。