優しい世界での1日 朝
彼は話すことも、歌うこともできない。なぜなら声が出せないからだ。
だが、それと引き換えに彼は特別な能力を持っている。
そんな彼の1日を追ってみよう。
「…………」
「おはようございます。ご主人様」
「……?」
「ふふっ、ご主人様は違和感がありましたか? では改めまして、春様。朝食の準備が出来ていますので、学校へ行く準備が出来ましたら、食堂にいらしてください」
「……」
彼はコクリと静かに首を縦に振り同意を示す。
「なんでしたら、昔のように着替えをお手伝い致しましょうか?」
「……!!」
そんな恥ずかしいこと、されてたまるか。
と言わんばかりに、頬を赤く染めつつ、首を激しく横に振り否定を示す。
「冗談です。相変わらずの反応の良さですね。本当はして欲しいのでは……」
「……!」
彼は、自分よりも背が高い彼女を部屋から追い出すように、彼女の背中を手で後ろから押した。
その際に彼女の臀部に触れるが、互いに気づいた様子はない。
部屋から追い出された彼女は、扉越しから、
「春様は照れ屋さんですね。では、食堂で向日葵様とお待ちしております」
「…………」
橙色のオーラを纏いながら、彼女は去っていた。
彼は、今後も彼女には敵いそうにないと言わんばかりの苦笑いを浮かべた。
さて、彼が着替えている間に、彼の家について説明をしてしまおう。
彼――大屋敷 春の住んでいる家は、名字に負けない大きな屋敷もといお城のような所に住んでいる。
そのような家に住んでいる理由は、先祖が海外との取引で莫大な利益を出す会社の創業者であったためだ。
現在その会社は春の父親が引き継いでおり、その仕事の性質上――
「……」
彼の着替えが終わったようだ。
説明はここで一旦終わりにしよう。
「おはようございます。お兄様」
「…………」
妹からの挨拶に対し、彼は首を縦に振り、微笑む。
声が出なくなった彼のいつもの挨拶であった。
「では、春様もいらっしゃいましたので、朝食をお持ち致しますね」
「お願いします菫さん」
「はい。少々お待ち下さい」
「私達も、もう少しで卒業ですね。お兄様の声が出なくなって、もう4年近く経ちますが……無事に中学を卒業できそうでよかったです」
「…………」
コクり、コクりと彼は首を縦に振るう。
「まあ、中高一貫校ですし、ほとんどの人はそのまま同じ高校に入学ということになりますが」
「…………!」
「お兄様嬉しそうですね。やはり友達と一緒に高校へ行けるのは嬉しいですか?」
「…………」
当然だ。と彼は笑顔を浮かべながら、頷く。
「私もです。友達と……そしてお兄様と、これからも一緒に学校へ行けることを心から嬉しく思いますよ」
「…………」
彼もそれに応えるように微笑む。
「春様、向日葵様、朝食をお持ち致しました」
「いつもありがとうございます。菫さんも席に着いて?」
「仕えている方と一緒に食事をするというのは、メイドとしてあまり好ましくないのですが……」
「もう6年もここで働いてくれているのだから、これぐらい問題ありません。両親からの許可も頂いているのですから」
「わかりました。では失礼します」
深々とお辞儀をして、彼女は席に着く。
この光景は彼にとってもう日常の姿であった。メイドである菫は、一緒に食事をする時必ず許可を取る。
彼はその姿を見て立派だなと思うと同時に、少し寂しく感じた。
「ではお兄様に代わりまして……いただきます」
「いつ食べても美味しいですね……流石菫さんです」
「お褒め頂きありがとうございます。向日葵様」
「それにしても菫さんは完璧すぎます。家事全般はどれもできますし……その上綺麗な紫色の髪に、凛とした目、身長は高くて、胸もお尻も大きくて、それなのにお腹は出てませんし……はあ」
「そんな事はありません。苦手なものもありますし、向日葵様の方が素敵です。……それに私は男性に告白された事がありませんから」
「自分では到底叶わぬ恋と告白する前に諦めてしまうのです。それぐらい菫さんは綺麗です」
「……」
彼にはこの後の展開が読めてしまい苦笑いをしてしまう。
「わかりました! ではお兄様。私と菫さん、どちらの方が綺麗ですか?」
「…………」
彼は即座に菫をすぐに指差す。
このやり取りはこれだ3度目だ。
「たまには私を指してくれてもいいんですよ? お兄様。 ……菫さんこれで男性の意見がわかりましたね」
「そう言われましても…………」
「では、お兄様。菫さんのどういった所が綺麗なのでしょうか?」
彼はスマートフォンを取り出し、チャットアプリ「ライフ」に文字を打ち込み、菫に送信する。
ちなみに彼が菫に用を伝えるときは大抵この方法を使う。
『髪が綺麗なところ。1番綺麗』
「お兄様もう少し言い方が……」
彼の画面を見ながら、向日葵が文句を言う。
「いえ、とても嬉しいです。ありがとうございます、春様」
「…………」
彼はじっと、はにかんだような笑顔の菫を見る。
……桃色を纏っている。事実なのだろう。
「お兄様今“確認”しましたね? 菫さんに失礼ですよ」
「私は構いません。春様と向日葵様の前で決して嘘を付きません」
「だからこそ、わざわざ確認することが失礼なんです」
「…………」
彼は懲りずに今度は向日葵の姿をじっと見た。
……赤い色を纏っている。怒っているのだろう。
「今度は私を見ましたね。まったくもう。私はお兄様の考えるていることなら大体わかるというのに……」
「…………」
「ライフ」に、文字を打ち込む。
そして、向日葵に送信した。
『向日葵。金色の髪可愛いよ。1番可愛い』
「も、もう! こんなことで誤魔化されませんよ。お兄様!」
「…………」
彼女の緩んだ口元を見て、彼は――
自分も向日葵の考えていることはわかるよ。と微笑んだ。
色は……確認しなかった。
「ふふっ、春様と向日葵様のやり取りを見ていると私まで嬉しくなります」
「菫さんまで……」
「……」
彼は立ち上がり時計を指差す。
「少しゆっくりしすぎましたね。お兄様行きましょうか」
「…………」
カバンを手に取り、彼は首を縦に振るう。
「春様、向日葵様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「はい。行ってきます。菫さん、家のことお願いしますね」
「…………」
彼は手を振り応える。
さて、彼の学園生活はいったいどういうものなのだろうか――
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