トワの大いなる学習帳:「コーヒー」
殺風景な部屋の中央で意識を覚醒させた俺は、とりあえず気を落ちつかせるために右手に持っているコーヒーを啜った。温かさが体と心に沁み渡る。人間はもっとこのコーヒーのように温かでなければならない。コーヒーからラブとピースを学ぶべきだ。
「質問するなら早くした方が良いと思うぞ。今日はすぐ帰ることになりそうだ」
目の前でラブもピースも知らなそうな顔をして首を傾げる少女に俺は声をかけた。どうやら今回はコーヒーを飲んでいる最中にウトウトし、そのまま居眠りしてしまったようだった。あくまで仮眠に過ぎないので、直に目を覚ますことだろう。
「その心配には及ばない」
コーヒーカップから目を離さずにトワは簡潔な言葉を返した。つまりこいつは俺の睡眠時間までも意のままに操作出来るということだろうか。そうなると、この何も無い白い部屋にいつまでも俺を閉じ込め続けることも可能ということにならないだろうか。俺はもっとこの無垢な少女に警戒した方が良いのかもしれない。
「アキラ、それ、何?」と俺の心配を余所に少女は恒例の文面を読み上げた。
「これはコーヒーって飲み物だよ」
美味いぞーと笑ってカップを少女の前でゆっくり揺らすと、彼女は猫がねこじゃらしを追う時のように体を揺らしてカップを追った。そう言えば前にこの少女は食事を摂らないという妄言を吐いていた気がするけれども、そんな彼女に飲食物を口にさせたらいったいどんな反応をするのだろうか。興味を持った俺は試しに彼女の顔にコーヒーカップを近づけてみることにした。
「トワは飲み物は飲むのか?」
「飲まない。が、飲める・・・何だこれは!?」
興味津津といった様子でカップの中を覗き込んだトワが、中身を確認した途端に目を見開き息をのんだ。
「濁りきっている・・・邪悪だ・・・」
「邪悪ときたか」
少女は両手でパっと鼻を抑えた。
「何かが鼻からたくさん入ってきた・・・!」
「良い香りだろう」
「香り・・・武器か・・・?」
「武器じゃ無い、ラブとピースだ」
「ラブと・・・ピース・・・」
先程から少女のコーヒーへの警戒度がどんどん上がっているのが手に取るように分かった。このままでは口にすることなく拒絶されてしまう。一度彼女の中にコーヒー差別が根付いたならば、もはやコーヒー達が法の下に公的な平等を獲得することは不可能になってしまうだろう。俺はコーヒーを弾圧の魔の手から守るため一人立ち上がった。
「トワ、外見で物事を決め付けるのはよくないぞ。外面は悪くても本当は良い奴なんて世界には山のようにいる。いや、むしろ容姿による絶え間ない偏見に晒されてきたからこそ、心根は優しく育つことが多いんだ」
「・・・」
「コーヒーも同じだ。黒く濁ってるのは繊細な内面を誤魔化している照れ隠しに過ぎないんだよ」
「・・・」
少女は何一つ納得していない様子だったが、ニッコリと笑いかけ再三試飲を促す俺に根負けして邪悪なラブ&ピースを受け取り、両手で支えたカップを恐る恐る口元に近づけた。ススっと微かにコーヒーを啜る音がする。数秒の間少女は目を閉じたまま動かなかったが、唐突にこの世の終わりを目撃したかのような絶望的な表情を作り、俺を見上げ舌を目一杯出した。
「あ゛~、あ゛~」
「あぁ、ごめん、そういやブラックだったな」
「あ゛~」
今日学んだこと
コーヒー・・・嗅覚と味覚へ働きかけ対象を破壊する兵器。
・邪悪。類似物にラブ、ピース。
・アキラにはもっと警戒すべきかもしれない。