冒険者達の結末
四人の冒険者が、ダンジョンの入り口の前で決意を固めていた。
彼らは迷宮に幾度となく挑んできた、そしてその度に生還してきた。過去二回、ダンジョンの最奥まで到達したほどだ。
ダンジョンでは何が起こるか分からない。それが人造の物ともなればなお更だ。ダンジョンマスターの卑怯さをどれだけ持ち前の腕で乗り切れるか。既に彼ら程のパーティともなれば、そこにすら楽しみを覚えてしまう。
己の力で魔物を討伐する快感。財宝を手にした時の達成感。命を懸けているという緊張感。そして、そこから地上に帰還したときの安堵感。
そんな一種の快楽を楽しんでしまう、まるでゲームでもするかのように。
「みんな、くれぐれも無理はするな。ここはできたばかりのダンジョンだから、やられることは無いと思うが、十分に気を張れ」
このパーティのリーダー。アカネは他の三人に目配せする。
ソラ、キーロ兄、エイロ妹もうなずく、既に各々の口は一文字に結ばれ、仕事に集中する体制に入っている。
しかし、アカネは一人、口を緩ませそうになった。あわてて表情筋に力を入れる。
彼女はこの空気の中で、背中に氷を這わせられたような、緩い背徳的な快感を味わっていた。心の中で恍惚とした感情がわきあがるのを感じる。
――ああ、これだ。この命懸けの空気が、私は好きだ。もしかしたら、死んでしまうかもしれない。私の命が、ここで潰えるかもしれない、私は今回も、死の際から戻ってこられるのだろうか?
しかし、そんな事はおくびにも出さず。きりと唇の淵を結び、重く呟く。
「行くぞ」
それは、彼女達にとっては悲劇の始まりで。
ダンジョンマスターにとっては、長い長い準備の終わりを示す事となる。
***
広く長い階段を下っていく、ここは元々遺跡なので壁には人工的な幾何学模様が刻まれている。
降りていくたび、太陽光が届かなくなり。たいまつの光が頼りになっていく。そろそろか、とメンバーが思った頃にちょうど階段を降りきり、木製の古びた扉の前に立った。
四人は息を呑んでその扉を開ける。おそらく、ここからが既にダンジョン攻略の開始、空けた瞬間、魔物が襲い掛かるなどざらである。しかし……。
「うん?」
アカネは素っ頓狂な声を上げた。
そこに広がるのは小部屋だ。ダンジョンに入りいきなり小部屋など、あまり見たことが無い構造だった。
「拍子抜けだな……毒気を抜かれるというか、これも一つの作戦なのかな?」
「気を抜くなソラ、どこに魔物が潜んでいるかわからないぞ」
と、アカネも言ったものの。部屋の中には脅威となる魔物が隠れられるほどの陰はなく。四方に置かれた発光する鉱石によって部屋の中は一定の明るさが保たれていた。
「明かりのあるダンジョンだったか。時たま真っ暗なダンジョンがあるが、あれは面倒くさくて敵わんからな……」
「まあ、そういうダンジョンは、暗視が得意なパーティの狙い目になるから、大体すぐ潰れるんだがな」
いつも、ダンジョンに入ってからはあまり雑談をしないこのパーティであるが。この部屋のせいで少し緊張の糸が緩まってしまったらしい。
「あの、ここに生えている草って、薬草か何かじゃないですか?」
そう言ったのはエイロ、部屋のあちらこちらで生えている草の香りを嗅いでいる。
「あまり突飛な行動はするな。まず、それが何の薬草か調べる」
アカネはその薬草に近寄り、マジマジと見つめた。
「これは……ニオワズ草だな。体にこすり付ければ消臭効果があり、それを食べれば悪臭を一定時間感じなくなるという奴だ」
「明らかに意図的に生やしているけど、どういうつもりだろうね、この先に必要なのかな」とソラが言う。
「まあ、何らかの策なのだろうが、ここは大人しく従っておこう。皆、いくつか採取しておいてくれ」
アカネに続き、何本かの草を各自バッグに入れる。
さて、と四人は再び気を引き締める。
モタモタしていると、後続の冒険者が来てしまうかもしれない。アカネはなおも先頭で小部屋の扉を開いた。しかし、彼女は碌に中の様子も見ずに勢いよく扉を閉める。四人はその様子を傍から不思議そうに見つめる。
無理も無い。魔物に警戒して、扉の隙間から通路を覗くような姿勢だったため。アカネは、ダンジョン内に充満している『異臭』をもろに嗅いだのだ。
むせ返るような、脳にそのまま衝撃を送る刺激臭とも腐卵臭とも取れる匂いに、アカネは眩暈を起こし、扉から離れた。
「……ニオワズ草の使い道が分かった」
アカネは異臭の事を説明した。四人は適当にバッグから出した薬草を食べる。勿論、草を生で咀嚼するわけだから美味のはずも無いが、いまさらポーションと調達する手段もない。
再びドアを開ける、薬草が利いたのか、先程までの悪臭をまったく感じない。
しかし悶絶している輩が一人。
「ぐお、アカネ、このダンジョン先の草を食しても臭いぞ!」
「キーロ、貴様もしかしてモドキ草食べたのじゃないか? あれは薬草に紛れて生えている只の草だからな、違う草を食べてみろ」
「む、そうなのか」
キーロは再びバッグを漁り、草を取り出し咀嚼する。
「……おお、本当だ。今度は異臭を感じない」
「大丈夫か。ならば先を急ぐぞ」
四人は歩を進め、ダンジョンの中を探索する。通路は広く、四人が横になっても狭く感じる事はなかった。
「やはり、できたてのダンジョンとなると、階層は二、三階くらいでしょうか?」
エイロは誰に対してと言うわけではないが質問する。
「うん、多分そうだろうね。レベルの高いダンジョンなら、既に魔物が襲ってきていてもおかしくない。やっぱり発生したばかりだと、魔物や罠の数も、階層も少なくなるから……」
質問に答えたのはソラだ。
彼ら、冒険者にとって。ダンジョンを攻略する際、最も気をつけなかればならない事は『己の力量がダンジョンの難易度より下回っていないかどうか』だ。
ダンジョン内で命を落とす冒険者は多い。大抵の冒険者の死に場所はダンジョンだと言われている。年間数百件と起こる行方不明も、誰も口に出す事は無いが、ダンジョン内で死んだものと考えられている。
冒険者の仕事は多岐にわたる。未知の土地を開拓したり街のギルドでの依頼を受けたりなどだ。
一部の冒険者は『土地開拓専門』や『依頼専門』と言った輩も居るが。大多数の冒険者のスタイルと言えば。依頼をこなし安定した収入を得て。実力が付いたと思えば、己の腕試しと臨時収入を当てにし、時々ダンジョンに入る。
それは何故かと言えば、やはりどの世界もリスクとリターンは釣り合う物で、依頼の仕事は死亡するリスクが低い代わりに低額で、ダンジョンは死亡率が高い代わりに稼げれば一攫千金なのだ。
ダンジョンマスターは冒険者を殺害する事によって彼らの身包みを剥ぎ、経験値とD通貨を蓄える。
しかし、大前提として冒険者に来てもらわなくてはならない。はっきり言えばダンジョン経営は非常にギャンブル性が濃い。だから、定石としてダンジョンマスターは、ダンジョン内に財宝を置くのだ。
それだけじゃない、アイテムや装備品なども散らして置く。そうでなければ冒険者が来ないからだ。誰も経験だけを求めてこんな危険地帯には出向かない。
冒険者に滅ぼされる危険のあるダンジョンは冒険者が訪れなければ滅び。放っておけば勝手に崩れるダンジョンにわざわざ足を踏み入れ。釣り針に引っかからないよう、上手く餌《財宝》だけを奪わんとする冒険者。この破綻しかけた奇妙な関係に両者はあるのだ。
「正直言えば、悪臭のするダンジョンなんて、今までもあった。それくらいなら恐れる事はない、が……なあ、魔物が出てこなさすぎじゃあないか?」
アカネは疑問を口にした。
そう、先程からパーティは時たま効力が切れないようにニオワズ草を齧りながら、単調な通路を、ただひたすらに歩いているだけだった。
「確かに、魔物が少ないかもって言うのは確かかもしれぬが、それにしても全く出てこんな……」
「こうも出てこないと逆に不安になってくるなあ……」
キーロとソラは同意する。
先程から魔物の影すら見つからない、こんなことは低レベルのダンジョンでも少し異常だ。
「アカネはどう思う? このダンジョンについて。僕の考察では、ドロップアウトしちゃった人間が苦し紛れに作ってみたけど、魔物の配置を完全に間違えたとしか思えないんだけど。ほら、こんならしくない場所に出来るのだってさ。もしも僕がダンジョンマスターなら、もっと禍々しい瘴気渦巻く場所に作るよ」ソラは少しあきれの混じった口調で言う。
「うむ。確かに未だに魔物も財宝も見つからんからな。正確なことはわからんが、瘴気も普通のダンジョンの半分も無い」
――無駄足だったか
パーティ間に疲れと呆れが漂い始める。進んでも同じような道がひたすら続くばかり。自分達の足音ばかりがダンジョンの通路に響く。段々と口数も少なくなっていった。歩けど魔物は見つからず。最初は曲がり角でも一々身をこわばらせ、敵が居ないが確認しながら進んでいたが。今やそれをするのも億劫だ。
もはやここはダンジョンではない、ただの遺跡だ。
アカネは、ダンジョンで敵に出会ったときの高揚した気分を味わえそうもないと肩を落とした。
もう何十分歩いただろうか? ソラが気の抜けた声で言った。
「……もう戻ろうか? この道を又ひたすら戻るのは面倒だけど」
三人とも、異論はなかった。
その場でくるりとUターンし、来た道を戻る。地図は書いていたし。ほぼ順路通り着たので迷う事も無い。
街に戻ったら、このダンジョンに価値がない事を皆に教えてやろう、と。アカネは思っていた。
そんな時、キーロが目を細め、不思議そうな声を上げた。
「……なあ、この壁のあちらこちらに開いている小さい穴って、さっきあったか?」
キーロはその巨体に比例した、ごつごつとした石の様な指で壁を指す。
確かにそこには、直径二十センチほどの穴が開いていた。
ふと見渡せば、それは天井近くのや床近くに、相当数あった、指摘されなければ見逃すような箇所だ。
「私も……壁や床は罠が多いから注意してみていたけど、そんな穴なかったよ? お兄ちゃん」首をかしげるエイロ。
四人の頭上に大きな疑問符が浮かぶ。アカネはその穴に近寄り観察する。
「これは……コボルトの開けた穴だな。土質を変換させて穴を掘るため、穴付近が粘土が固まったようになっているのが特徴だ。コボルト特有の掘り方だ」
「じゃあ、魔物は居るんだね? このダンジョン」
「ああ、しかし。何故私達の後ろで、襲い掛かりもせずにこんな穴掘りを……」
そう言っていると、アカネの足に何か粘度のある液体が触れた。何かは分からなかったがアカネはそれに触れただけで背中に悪寒が走った。小さな悲鳴と共に反射的に足を上げるがバランスを崩してその場に倒れる。
そしてその液体を見た。しかし、それが何かまでは分からなかった。
それは、異様に毒々しい、マーブル模様の液体だった。ピンク、ブルー、グリーンなど、鮮やかなパステルカラーが層になって流動している。
「なんだ、これは」アカネはその液体を注視する。
「見たことのない液体だな、何かの罠か? おそらく、この異臭の原因だろうが……しかし、あんまり近寄るな、瘴気を放っていやがるぞ……」
キーロの一言で、先程まで腑抜けていたメンバーは、一気に臨戦態勢をとる、アカネも気を引き締めようと、立ち上がる動作をするが。さっきまでの弛緩具合と、今の動揺で少しだが動作が遅れた。
そしてアカネの士気が戻りきる前に、まるでアカネに対し嫌がらせでもするように、彼女が先程調べていた穴からそのパステルカラーの液体が勢い欲噴出した。
上半身だけ起こしていたアカネの顔面に、その液体が掛かる。
自慢の赤髪がパステルカラーに染まった。
「ひっ……嫌っ、嫌ぁっ!?」
アカネも女性だ、そんな不気味で気持ちの悪い液体にまみれて一瞬冷静さを失う。
「……あぁ、くそう、目に入った! 痛っ……くぅ」
「落ち着けアカネ! クソっ、なんだこの毒々しい液体は!」
ソラは悔しそうな声を上げる、彼らだって今まで無駄にダンジョンを回ってきたわけじゃない、毒液の種類の勉強も一般的な冒険者よりしてきたつもりだ、しかしそんな自分でもこの液体がどんな物なのか見当がつかない、そもそも高濃度の瘴気を放出する液体など聴いたことも無い。
「見てください! この液体……どんどん嵩が増していませんか!?」
妹に言われ、キーロは驚いて見渡す。穴と言う穴から、そのパステルカラーの液体は噴出していた。先程まで水溜り程度だったそれは、今は彼ら全員の足元にまで広がっている。
「ここに来て、ついに始動というわけか」
ソラが苦い顔で、無理やり口角を上げて強がって見せるが。まさか魔物が出てくるでもなく、致死性の罠が発動するでもなく、この様な状況になるとは、想定していなかった。ダンジョン内において、想定不能なのが最も性質の悪い状態なのである。
「ちっ! アカネ嬢、立てるか? 走ってここを出るぞ!」
キーロは叫ぶ。しかしアカネはすぐに動けないようで、片目を抑えて痛がっているが、ソラがそんな様子のアカネの肩を持って立ち上がらせる。
「ソラ……」
「こんなことで腰抜かさないでくれよ、俺達はもっと、危ないところを潜り抜けてきたろーが。こんな意味不明の液体が、何だってんだよ」
「……ああ、その通りだな」アカネは一つ、大きく深呼吸をした後、「すまない」と謝罪した。
――そうだ私はリーダーだ。私がこの程度で取り乱してどうする……。
ソラの肩から離れ、アカネは霞む視界に目を細めながらも、指示を出す。
「ここは一時撤退だ、この液体の正体が分からんと動きようがない。これが治療魔法も効かないような特殊な毒物だったなら、もしかすると全員死ぬかもしれん、街でこの液体を調べて貰おう……敵もどうやら動き出したらしい、全員注意しながら動くように」
全員が一斉に納めていた武器を抜いた。
「すまないがエイロ、一応、治療魔法を掛けてくれないか」
「はい! 《浄化の光、キュア》《癒しの光、リカバリ》」
エイロが杖をアカネに向け、杖の切っ先から柔らかい暖かな光が発せられると、アカネは大分落ち着いた様子になった。
「ありがとう」と、エイロに礼を言って。己の愛槍を構える。
アカネは槍。ソラは剣。キーロは斧。エイロは杖だ。
「アカネ、この液体のせいで走るのは無理そうだ。粘度が高いから、足を取られる」
キーロが現状を分析する。この中で最もメンタルが強く、冷静で居られるのは彼だ。
「わかった、気を引き締めろ……どこから来るか分からんぞ」
四人は互いを庇い合うようなフォーメーションを取りながら来た道を進む。
足元のマーブル模様の液体は、進んでもその淵は見えず。むしろ段々と嵩が上がってきていた。
「なんなのだこの液体は……薄気味悪い。《キュア》で何とかなる毒なのか?」
「分からない……でもニオワズ草を食べておいたほうが良いね、もうすぐ効力が切れるから」
四人は再び薬草を食べる。
「この液体が噴出してから、急に瘴気の濃度が、濃くなったような気がします」とエイロが辺りを緊張に見わしながら言う。
「だな、この肌がピリピリして。気持ちがざわめく気持ち悪い感じ……慣れないよ」ソラも額に油汗を浮かべている。
四人は気を張って進むが、やはり魔物は現れない。
しかし、逆に言えば、魔物と一回も遭遇せずに、ここまで消耗させられているのだ。
「くそっ! 来るなら来ないか、ずる賢いダンジョンマスターめ! 私達は知っているんだぞ! そのコアで私達を監視しているんだろう!」
「挑発してどうするアカネ! 落ち着け、瘴気に呑まれるな」
アカネはキーロに諌められ悔しそうに唇を噛んだ。
しかし、それにダンジョンマスターは応えたのか。その時、その液体の表面がヌラリと揺れた。
「……っな!?」
現れたのは、その液体にまみれ、自らもマーブル模様になったスライムだった。液体に浸かっているせいか、少し肥大化している。
その数匹のスライムは姿を現すや否や、四人の足に絡みついた。
「スライムっ!? こんな弱小ども……」
普段のダンジョンでスライムが出現すれば、接触する事もなく通り過ぎる彼らだが、足元の液体に紛れていたせいで、足に絡みつかれるまでその存在に気づかなかった。
ソラは持っていた剣を、刃の方を下に向け、スライムを串刺しにしようとする、が。足元の液体と同じ色模様をしたスライムは周りの液体を見分けが付かず、正確な位置が分からない。すでにくるぶしまで上がってきた液体のせいで、己の足の位置さえも良く見えず間違って己の足を刺してしまいそうで、剣を振り下ろすことがためらわれる。
が、そうしている間にもスライムは足を這い上がってくる。
どうしようかと混乱していると、そのスライムにズドンと横から槍が刺さった。
スライムの体液が飛び散り、辺りの液体と混じる。
「助かったよ、アカネ」
「さっき貴様も言ってただろう、私達はもっと困難を乗り越えてきた!」
そうだ……毎回、命の危機は感じながら、それでも生き残っていた。こんなピンチ、今までの危険と比べたら最低ランクだ。スライムで俺達のパーティが滅びるわけが無い。ソラはそう思った。
「さあ、急ぐぞ!」
グチャリ、グチャリという気持ちの悪い感触に絶え、前に進もうとするアカネ。
――これぐらいがどうした、未だこの迷宮では、ロクに魔物さえ出ていない。自分たちが恐れることなどない。
アカネはそう思った。パーティ全体も、不意は突かれたものの、切り抜けられない状況ではないと判断できそうだった。
そんな中。迷宮の様子が変わったことに、最初に気づいたのはエイロだった。
「……ねえ、横の穴から出ている変な液体の中に、今、何か混じっていませんでした?」
エイロは怖々とそう言った。
他の三人もそう言われ、穴を見る。しかしそこにはだらだらと流れる液体しか見えず。見間違いだろうと思った。しかし、それと同時に違和感が生まれる。
あの液体はもっと勢いよく噴出していなかっただろうか? そう、これではまるで……。
何かが詰まっているみたいだ。
そう思った瞬間、穴の中から押し出されるように、液体にまみれた『何か』が飛び出した。
それは床に広がった液の中に転がり落ち、困惑したようにウネウネと己のその、イモムシのような体矩を動かしたあと、餌を見つけたかのように四人に猛スピードで近づく。
その数、おそらく数百匹以上。
「イヤァァァアアアアア!」
エイロが悲鳴を上げた。
全員固まってしまう。その世にも不気味なその光景に毒されたかのように。
襲ってくる魔物が近づくにつれ、体中に悪寒が走る。
床中に広がる毒々しい液が、波となってその四人を襲う。
四人は半狂乱で武器を振るった。
「ウワァアアアアア!」
もう誰の叫びなのかも分からない。いや、それは全員の叫びだったのだろう。
彼達はかの有名な魔物『ドラゴン』をも討伐した事がある。その強大な姿に足が竦んだものの、恐怖に打ち勝ち。その首を完全に刈った。
しかし、今回の恐怖は、その存在の大きさや、力量の差から生まれる物ではない。
本能に直接訴えかけてくる、圧倒的な嫌悪感。そして彼らの予想よりも遥かに高濃度の瘴気。それに加え正体不明と言う未知への恐怖。
「くっそ……! オラァ!」
キーロが戦斧を大きく縦に振るう。キーロ自身の魔力も相まって、その戦斧の持つ切断力と圧力はかなりのもので、正体不明の魔物の群れを真っ二つに割る。
しかし、それで魔物が動きを止める様子はなく。気色の悪い液体をあたりに飛び散らせただけだった。
アカネも身につけた槍術で薙ぎ払っていくが、これも効果が見られない。そもそも、槍が有効なのは、中型に囲まれたときに横に振るい一掃し、間合いに入らせない戦い方や、大型の魔物に決定的な一撃を与えるのに有効な武器である。このような状況下では威力を発揮しない。
ごった返すほどの負の感情を抱き、正常な判断力が鈍り混乱してしまっては、持ち前の腕が発揮できるはずもなく、非効率的な体力だけが減っていく大振りな攻撃で四人は確実に疲れ始めていた。
「はあ、はあ。うぅ。もう嫌ぁ……」エイロが弱音を吐く。冒険者として日は浅くなく、精神もそれなりに鍛えてはいるが、目の前の魔物には、本能的に人に不快感を与える何かがあった。
「くそっ、なんなのだこの魔物は!」
「さあ……液体にまみれていたから、種類もよくわからん……」
アカネとキーロも息を上げながら、正体不明の魔物を見る。
「気をつけろ、第二軍が来るぞ!」
ソラは衰えた士気を回復させようと。己にも言い聞かせるように叫んだ。
他の三人も気を張る。しかし、アカネは未だに視力が回復しない。エイロにいたっては精神的にやられているところがある。
「嫌ぁ……もう、うえぇぇ……」
「しっかりして! 貴方の魔法が必要なの!」
「うう、はい……《浄化の光、キュア》《浄化の光、キュア》……《鎖縛の電、チェーンスパーク》! 《赤の弾丸、ファイアブレッド》!」
キーロ妹がそう呟くと、杖の先に魔方陣が広がり、その中心からまるで意思を持ったかのような電気の鎖が魔物全体の動きを止める。さらに火の玉が群れの中心に打ち込まれ、着弾の瞬間、小爆発を起こした。
蒸発する液体が、また彼らを苦しめる。
「《赤の弾丸、ファイアブレッド》! 《赤の……》う、おえ……だめ、気持ち悪い……」
エイロは続けて魔法を放とうとするが、顔を真っ青にして口元に手を当てた。
「どうしたエイロ! 何故エイロはこんなに滅入っているんだ!?」
「まさか、薬草のニオワズ草以外に、モドキ草を食べてたんじゃ……」
全員がハッとし、己のバッグを見る。そこに、ニオワズ草に混じり、モドキ草がいくつか入っていた。それに飛び散った液体が付着しているせいで、とても今からニオワズ草を咀嚼できる状態ではない。
「やられたっ!」
「早く出ないと、俺達のニオワズ草の効力が切れるのも時間の問題だぞ!」
キーロは自らの妹、エイロを背中に担ぐ。
足を取られながらも出来る限りの速さで出口に向かった。
息が切れる。ダンジョン内でここまで息が切れたのは何時振りだろうとアカネは考えた。
自分達は既にかなりの実力のパーティとして知られている。どんなダンジョンに行こうが、ある程度の余裕を持って行動していたはずだ。しかし、今の私は半狂乱になって逃亡している。しかも敵はスライムと種類さえよくわからない魔物だ。逆に笑えてきてしまう。
地上に出たら、まず精神面を鍛えなおさなければ。
このダンジョンは財宝が無い上、性質が悪いので近づかないよう同業者に伝えなければ。
そんな事を考えていた。後もう少しで出口だった。
つまりは、気が少し逸れてしまった。
そんなちょっとした気の緩み。それは彼女の足元に潜んでいたスライムの存在を見落とすのにしては十分な隙だった。
「キャア!」
短く、甲高い声を上げるアカネ。
足を絡め取られ、床に叩きつけられるように転ぶ。また、全身が液でまみれてしまう。
「アカネ嬢!」
そんなアカネを見たキーロは、彼女に近づこうと急いで駆けつける。が、それも又、大きな隙だった。
キーロはその場で立ち止まってしまった。
本人も訳が分からないと言ったような表情を浮かべ、体をひねるが。足は上がらない。
「どうしたんだキーロ!」
ソラが大声で問う。
キーロは足掻きながら応える。
「足元が泥みたいになってやがる! 足を取られた!」
その言葉で、ソラはコボルトのことを思い出した。
土質を変える。それをトラップに使われたのだ。
そしてその罠はソラにまで及んでいた。
「クっ! ここもか……」
動けなくなった三人は、それぞれで足掻くしかない。エイロがまともに動ければ、少し詠唱に時間が掛かるかも知れないが、ミニコボルトの魔法を一時的に解除できる魔法を使えたかもしれない。しかしここで追い討ちが来る。
先程進んだ道の先からやってくるものが居た。
羽音を響かせ、高速で空を飛ぶ、その体は発火していた。レッドバグだ。
弾丸のように飛ぶその大きな虫達は、ソラ達の顔面近くを、小隊を組んで飛び回る。
「うわあ!」
ソラとキーロはレッドバグをかわそうと身を翻し、バランスを崩しその場に倒れてしまう。
足を取られ、起き上がることも出来ない。
「早く抜けないと……あれは!」
どこから現れたのか、再びあの謎の魔物が大量に忍び寄る。いや、それだけじゃない、スライムも大量に群がってきた。ソラは自らの目を疑った。
数が異常だ。モンスターハウスで起こるようなことが、ただの廊下で起きている。
普段なら、どうにか対処の仕様はあるだろう。しかし、この状況では絶望的なまでの数だった。
倒れた状態で剣や槍などを振るっても、その威力は半減する。
アカネやキーロ兄妹が、抵抗しながらもその物量に呑まれ、どんどんと魔物たちによってその姿が見えなくなっていく。冒険者たちの鎧は、魔力によって防御力を数倍高められるが、ああなってしまえば、もはや呼吸が出来ないだろう。スライム程度なら無詠唱の魔法で弾き飛ばしたり、手で引っつかんで取り払えるだろうが、ここまでの大群で、脚の動きを封じられ、肉体的にも精神的にも疲弊したこの状況下、対処は難しいだろう。
アカネは特に体力を消耗していたらしく。姿が見えなくなる頃には、抵抗の様子もなかった。
「アカネ! キーロ!」
仲間の身を案じるソラだが、彼の自身かなり辛い状況だ。彼らの距離は互いに手を伸ばせば何とか届く位置に居る、それなのに助けられないもどかしさと罪悪感がソラを襲う。
「ソラァ!」
キーロが叫ぶ。
まとわり付くスライムを、体を大きく揺すぶることで振り払い、雄たけびを上げて立ち上がった。
本当に、己の力を最後一滴まで振り絞って立ち上がったのだ。そして、背負っていた妹を乱暴にソラに向かって投げる。
ソラは咄嗟に手を広げ、エイロの体を受け止める。
「キーロ! 何してんだよ!」
「お兄ちゃん! 何のつもり!」
「ソラ……妹を連れて絶対ここを抜け出せ、俺の最期の頼みだ」
最期と言う言葉に、ソラの頭は真っ白になる。
キーロはそんな言葉を、使わない男なのだ。
「……どういうことだ、キーロ」
「そんな事言わないでよぉ!」
エイロの悲痛な声がダンジョンにこだまする。
「俺はもうここから抜け出せない、体力が切れるのも……時間の問題だろう、だから、妹だけは……」
「駄目に決まってるだろ! お前も助け――」
「甘えんな! 冒険者をやっているってことは、そのくらい覚悟はしていただろーが!」
怒り、それ以上に含まれた迫力にソラは黙ってしまう。
そして何より、怒声を放った後の、泣いているような、笑っているような、キーロの浮かべる表情を見ては、返す言葉は無かった。
「キーロ……」
「最善の方法を考えろ。俺達はもう動けん、アカネ嬢も文句は言わんさ……じゃあ、妹を頼んだ」
そう言って、全身から力が抜けるように膝から崩れていき、キーロはスライムの群れに呑まれていった。
「お兄ちゃん……うわぁあああ……あ…………」
キーロの妹は、目の前で兄が死んでいく様を見て、失神してしまった。
「チクショウ……こんな物なのか、僕は!」
ソラは剣を振り、妹を庇いながら戦う。
しかし、ソラの足もずっぽりと深く嵌っており、抜け出せるか不安だった。
「クソっ……だけど、せめてキーロの頼みだけは!」
一心不乱に剣を振るい、泥からの脱出を試み、もがく。座り込みながら戦うその姿はひどく滑稽だが。その瞳はまだ諦めていなかった。
しかし、彼は必死になりすぎて気づかなかった。大きな足音が彼に近づいている事に。
影に気づき、顔を上げた時にはもうすでに、巨大な土塊が彼を見下ろしていた。
「……悪い、キーロ。約束、守れそうにない」
堂々と立つ三対のゴーレム、この状況ではゴーレム達の攻撃になす術も無いだろう。
ソラは剣を捨てた。液の中に剣が沈んでいく。
己の人生を振り返ると、思い出の中ではパーティの仲間の笑顔がいつもあった。
「みんなと一緒に死ねるなら……」
そう、思い。死を受け入れるソラ。
しかし、何時まで経ってもその瞬間は訪れない。不思議に思い、ゴーレムを見てみると。その左手には宝箱が握られていた。
そして、もう片方の何も抱えていないほうの手を、ソラに差し出す。
ソラも、その手の表面に傷を見つける。それは人為的に彫られた物であり。子供のような字でこう書かれていた。
『キミにはジヒをアタえよう。ノゾむなら、このザイホウをアタえ、ソトにカエす。しかし、ノゾまぬとすれば、ここでコロす』
ソラは自分の顔がカッと熱くなるのを感じた。
「仲間達を殺しておいて、何が慈悲だ! この人でなしが! 貴様らのようなクズの申し出なんて受けるわけが無いだろう!」
それを訊いたゴーレムの右腕が振りあがる。
……これで良い。そう思ったソラだった。が。近くに居るキーロの妹、エイロを見て複雑な思いになる。
パーティをメチャクチャにした奴の慈悲を受けてこれからの人生、一生この屈辱を背負って生きていくのか。
キーロの最期の頼みを、彼のたった一人の妹を護るべきなのか。
ゴーレムはその豪腕を異様にゆっくりと振り上げる。
ソラは、これもダンジョンマスターの設けた選択肢を選ばせる時間だとすれば、どこまでも手のひらの上なのだな、と思った。
「……助けてくれ」
ぽつりと言った。その言葉にゴーレムの動きは止まる。
そして、地面に嵌っていたソラを引き抜き、ソラに抱きかかえられていたエイロと共に右手に乗せた。
そのままゆっくり。出口に向かうゴーレム達。
ソラは、命が助かった喜びも、仲間を殺された怒りも、もう表に出す気力がなかった。
最初の部屋に放り込まれ、財宝をそっと近くに置かれ、ゴーレムは丁寧に扉を閉めた。
「……まさか魔物に送り出されるとは思わなかったな」
ハハッと小さく笑うが、その笑いは自嘲的で。心からの笑顔ではなかった。
ソラはキーロの妹を背負い。財宝を脇に抱え。階段を登る。
財宝なんていらない、ただ、仲間を返して欲しかった。
数時間前まで、ここを皆で通ったのに。
そう思うと、何故か涙が溢れてきて。声を殺してソラは泣いていた。




