兆し
山梨県北部にある、小さな山里に、古びたお寺があった。そこに、チベットで修行してきたという密教のお坊さんがいた。名を天海という。
背は高からず低からず、体は贅肉が無く、やや細身であったが、骨太で頑丈そうに見えた。目は、不思議な魅力を持ち、深遠な真理を探し求めてきた奥深さを感じ取れる。
黙っていると、人を寄せ付けない威厳を放つが、一旦口を開くと味わい深い渋い声で人を魅了した。
彼は村人から慕われ、悩みごとなどよろず相談を引き受けた。
よく夫婦喧嘩が絶える事なく、離婚寸前だった人が、天海和尚の相談を受ける事により、仲良くなったという話がある。それも、一組や二組という話では無かった。
また、土曜日の夕方には村人を集め、法話の会を催した。
面白可笑しく仏の教え、人の道を説いた。テレビを観ているよりも面白いし、役に立つという評判が上がっていた。
またある時、この村には珍しく物騒な事件が発生したことがある。
東京で暴力団同士の抗争があり、相手方の組員を数人殺害した男がいた。
その男がこの山里の民家に逃げ込み、老夫婦と孫娘を人質に取った。
この男は、名を高力といった。男はピストルを持っている。
警察はその家をぐるりと包囲し、説得していたが上手くいかない。
そこへ、天海が散歩でもするような気軽さで歩いてきた。
駐在所にいた警官が天海を見つけ、話しかけてきた。「天海さん、危ないですよ。これ以上近づくと、奴は鉄砲を撃って来ますよ。さっきも一人警官が肩を撃たれて病院へ運ばれて行ったんだ」
「ああ、それは気の毒に。もう怪我人は出したくないのう。ここは私に任して下され」
「それは無理ですよ。いくら天海さんでも・・・」そう言って制止させようとしたが、その警官の手をさらりとすり抜けて、その家の庭に入って行く。
何人かの警官が、天海を止めようとして走り出して来たが、天海が彼らを見ると、何故か足が止まってしまった。
その様子を家の中から見ていた高力は天海めがけて発砲した。だが、天海は平然と歩いている。
焦った高力はもう一度撃った。
それでも天海は、何事も無かったかのように歩いて来る。
高力は射撃には自信があった。『当たっているはずだが』、高力の額に汗が吹き出る。
天海は「わしじゃよ!」とニコニコしながら話しかける。
「お、お前は誰だ」高力の困惑した顔があった。
「何、忘れてしまったかのう。ようわしの顔を見てごらん」天海は親しげな顔を向けた。
高力は、天海の顔をじっと見つめた。そして、ずっと昔の記憶をたどった。
「どうじゃ、思い出したじゃろ!」
「はっ、まさか・・・」高力は何かの記憶にたどり着いたようだった。
「そうじゃ、そうじゃ、お前は昔泣き虫じゃったのう」
高力は目を真っ赤にして涙を流していた。
「よしよし、もう泣かんで良い。わしが来たからもう大丈夫じゃ」
「お、お祖父さん!」と言いながら声を出して泣き出した。
周りで見ていた警官は、このあまりにも不思議な光景を、小首を傾げながら見守っている。
『なぜあの凶悪犯が、子供のように泣きじゃくっているのか?』
天海は、優しい眼差しを高力に向けた。「そんな所に隠れておらんで、こちらに出て来なさい」
高力は素直に頷き、家の玄関から飛び出して天海に抱き付き「俺が悪かった」と言いピストルを捨てた。
それを見ていた警官数人が飛び出し、高力を捕縛した。
更に、別の数人の警官が人質救出の為に玄関へ向かった。
高力は「お祖父さん、ご免なさい」と、天海に向かって詫びた。
「お前は、根っからの悪人じゃあない。罪を償って改心することじゃな」と言いながら、高力の肩をポンポンと軽く叩いた。
パトカーに乗せられて連行されて行く姿を見つめながら、駐在所の警官が「天海さん、どういう事なんですか?」と聞いた。
「幻覚を見せたんじゃよ。あいつにも全うな心があったからこそ上手くいっただけじゃよ」
秋も深まった頃、野外の広場で、日曜日に護摩法要を行う事を村人達に告げた。
この村里の秋は美しい。葉が鮮やかな赤や黄色に色づくと、楓やもみじなどの落葉樹がこんなにも多かったのかと思う程だ。
天海和尚によるこの法要は、効能があるという評判があり、ここの村人ばかりでなく、近在の村や町からも人が集まった。
当日は、雲一つ無い透き通るような秋晴れであった。そして広場の中央には大きな炉が設置されていた。
天海の脇には、木で出来た箱が置いてあり、集まった人々はそこへ思い思いの願いを書き込んだ紙を入れていった。
天海は、そこへ来る人にお辞儀をしながらも低い声で法華経を唱えている。
広場は人で埋めつくされた。やがて時が来ると、天海はその箱を担ぎ上げ、炉の所定の場所に置いた。
炉の周囲にいる人々は、天海の動きを一瞬でも見逃さないように見守っている。
天海が炉に着火し、朗々と大きな声で法華経を唱える。
次第に火勢が増して行く。
法華経は大河の流れの如く、全てのものを飲み込み、全てのものを浄化していく。
それを聞く者も、雑念が消え、天海が作り出す高貴な世界と一つになっていく。
人々の願いもまた炎とともに天に昇っていく。
炎は、益々強く高く、まるで生きている如く様々な形に変化する。
天海がさらに激しく法華経を唱えると、不思議にも炎の中に黄金の弥勒菩薩が現れる。
人々の中から期せずして"おー"というどよめきが走り、その弥勒象に向かって敬拝するもの、数珠を持って拝む者、ただただ恍惚となる者などさまざまに反応した。
ところがである、快晴で穏やかであった天気であったが、やがて風が吹き出し、落ち葉が舞い始める。
風は初めは静かに、そして次第に強く。そして、何処から涌き出たのか黒い雲が空を覆い始めた。
天海は法華経を唱えていたが、この風の中に強い邪気があることを感じ取っていた。
天海は、今だかつてこのような強い邪気を感じた事が無かった。しかもこの尊い護摩法要の最中に! 底知れぬ不吉さを感じていた。
天海は、その邪気を打ち払うように、更に強く法華経を唱えるが、邪気はひるまない。
やがて、あれほど見事な姿を現していた弥勒菩薩の足元から、もうもうと黒煙が上がってきた。
この状況のあまりの変化に戸惑い、多くの人が逃げて行く。
強く激しい邪気に、さしもの天海も意識が混濁してくる。
その混濁した意識の中に何者かが話しかけて来る。
『天海、天海・・・』、天海の頭の中で響いてくる。
『どなたですか?』天海は意識の中で答えた。
『天海、私は弥勒菩薩。人類に滅亡の時が迫っています。未曾有の危機が迫っています』
『弥勒さま、どうしたら・・・』
『容易な事ではありません。ただ西方に光が見えます。西へ行きなさい。ある人物がいます。その方の支えになりなさい』
ここまで聞いて、天海の意識が飛んだ。
そして、弥勒の姿が黒煙によってかき消され、その黒煙の中から黒い大きな荒鷲が飛びさって行った。