表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/67

忠犬ムサシ

 奥田原家のお爺さんは、とても犬好きであった。朝と晩は必ず犬を連れて散歩に出かける。散歩に出かける時間は、犬の方が良く心得ていて少しでもお爺さんが時間に遅れると催促までした。

 犬の名前は「ムサシ」である。図体は大きいが、機敏で走るのは早い。そして、人に対してめったに吠えるような事もしない。大人しく礼儀正しい犬である。

 ただし、例外もある。こんな村にも、たまにはセールスマンがやってくる。そんなセールスマンの中には、たちが悪く相当しつこい者もいる。

「こんなマッサージチェアはいらんのう」と、困り顔のお爺さん。

「お爺さん、実際に座って、とっても気持ちが良いって言ったじゃあないですか」、スーツを着込んだセールスマンが玄関に座り込んで動かない。

「わしゃ、良く散歩するからな。痛いところはどこも無いんじゃ」

「確かにお爺さんは元気そうですよ。でもお爺さんだけじゃない。家族皆で使えるんですよ」

「それはそうなんだが、何しろ価格が高すぎるじゃろ。地元の電気屋で買ったら、ずっと安く手に入るよ」

「これはドイツ製で特別なんです。それに高くはありませんよ。ローンを組めば一月に支払うのはたいした金額じゃないですよ。一日に換算したら、数百円程度ですよ」

「・・・・」

「それに今買えば、健康ジュース10本付です。更に抽選で、ハワイ旅行に百名様が当たるチャンスもあるんですよ」

そう言いながら、お爺さんが何度断っても中々くいさがって帰らないのである。

 そんな困っているお爺さんを見て、犬のムサシは突然お爺さんのいる部屋へ上がり、そのセールスマンに向かって吠え、威嚇した。今にも飛び掛かりそうな勢いである。その犬の姿を見て、セールスマンは度肝を抜かされ、思わず立ち上がった。さっきまでの大人しい犬が、豹変したからである。

 お爺さんは「この犬を怒らせたら大変だぞ、あんたのスーツはボロボロになってしまうかもしれんぞ。さあ早く帰ったほうが良さそうじゃぞ」と言った。

 犬は更に激しく吠え、ついにセールスマンの袖に噛みついた。

「お、お爺さん! 何とかしてくださよ」彼は恐怖にひきつった顔をして懇願した。

 お爺さんが、ムサシをなだめる事により漸く袖を放した。しかし尚もムサシはセールスマンを睨み、うなり声をあげている。

 それを見たセールスマンは真っ青になり、すっかり怖気ずいてしまった。そそくさとマッサージチェアを車に積み込み帰って行った。

 お爺さんはそんなムサシが、愛おしくて仕方が無いのだ。


 そんなある日の朝、いつものように散歩の時間になったのでムサシがお爺さんを起こして出かけることになった。

 いつものコースをゆっくり歩いていると、にわかに雲行きが怪しくなってきた。やがて、雨がポツリポツリと降り始めた。

 それほど降ることは無いだろうと、たかをくくっていたが、雨足は次第に強くなり散歩どころではなくなってしまった。

 そこで、大きな木を見つけ、その下で暫く雨宿りすることにした。

「ムサシ、今日は失敗じゃったのう。こんなに降るとは思わなかった」。ムサシもまた心配そうな声を出した。

 そんなふうにして待っていると、やがて雨も小降りになってきた。

「ムサシ、今がチャンスかもしれんぞ、急いで帰ろう」

 お爺さんとムサシは、ぬかるんだ道の中を急いで帰ることにした。

 雨に濡れた道はぬるぬると滑りやすかったが、普段歩き慣れている道なので少し気の緩みもあったかもしれない。お爺さんは足を滑らし転んでしまったのである。しかも転んだ場所が悪く大きな岩に足をしたたかに打ちつけてしまった。

 お爺さんは何度も立ち上がろうとしたが、どうにもならなかった。

「ムサシ、どうも足を骨折したらしい。誰か呼んで来てくれ、頼んだぞ」

 ムサシは動けなくなったお爺さんを見て、何とも悲しい泣き声をした。そして、お爺さんの傍から中々離れようとしなかった。

「ムサシ、お前だけが頼りなんだから、早く助けを呼んで来ておくれ」。

 ようやくムサシはお爺さんの意図が分かると、“ワン”と一声吠えて一目散に家の方へ駆けていった。

 家まで走ってくると、ワンワンと激しく吠えながら息子夫婦を探した。

 そんな犬の様子に驚いた息子は家の奥から急いで出てきた。

 息子は普通ではないムサシの吠え方に不安を覚えた。そして、お爺さんの姿を探してみたが、何処にも見当たらない。

「もしや、おじいさんの身に何かあったのか?」。息子はとても驚いて「ムサシ、案内するんだ」と叫んだ。そうして、ムサシの後を追って行った。

 こうして漸くお爺さんは救出されることになった。

 

 お爺さんは病院から数週間の安静を言い渡された。しかし、問題は骨折した足だけではなかった。転んだとき、少し腰も打っていた。其のときは大して痛みも無かったのでほとんど問題にもしていなかった。ところが、数週間の安静で、この腰痛が悪化してきたのである。

 足の骨折は数週間で完治した。だが、腰痛は益々悪化して結局、寝たきりの生活を余儀なくされてしまったのだ。

 息子は「雨の日に散歩になんか出なければこんな事にはならなかったのに。ムサシの奴め」と逆恨みした。

 そのためムサシは生まれて初めて鎖で繋がれてしまったのである。

 ムサシは大好きなお爺さんとも会うことが出来ず傷心した。餌だけは貰うことが出来たが、息子夫婦の冷たい視線を浴びなければならなかった。


 それから数ヶ月が過ぎた。息子夫婦は、お爺さんの介護に疲れきっていた。

 そして息子には夜布団に入ってから、寝タバコをする習慣がついてしまったのである。

 この日は相当に疲れがたまっていて、タバコの火を消すことも無く、いつの間にか寝入ってしまったのだ。

 火がついたままのタバコは、読みかけの雑誌の上に転がった。やがて、タバコの火は雑誌を燃やし、そして畳まで燃え広がった。

 その頃になると、外にいたムサシも異変に気がついた。窓からもくもくと煙が出ている。  ムサシは、お爺さんや、息子夫婦を助けようと思ったが鎖に繋がれていた。それでもムサシは鎖を引きちぎろうとして暴れまわった。

 その間にも火は燃え広がっている。ムサシは必死だった。

 首から血が滲んできたが、それでも諦めない。そしてついに、その執念が実り漸く鎖を引きちぎったのである。

 ムサシは躊躇することなく、激しく燃える炎の中へ飛び込んでいった。

 息子夫婦のいる部屋から助けを呼ぶ声がする。寝室のドア付近が激しく燃え、そこから出られなくなっていたようだ。

 ムサシは、そのドアに体当たりをして破壊した。夫婦は煙のため、かなり咳き込んでいたが、何とかそこから脱出できた。

 そして次にムサシは、お爺さんのいる部屋へ向かおうとしたが、激しい炎が行く手を阻んだ。

 ムサシは近くに風呂場が在ることを思い出し、その中へ自分の体を沈めた。

 ずぶ濡れになったムサシは、その状態で炎の中へ飛び込んでいった。

 漸くお爺さんのいる部屋へたどり着いた。お爺さんは煙を多く吸い、また熱気により意識が朦朧としていた。

 それでもムサシが来たことが分かると、「おお、ムサシ、来てくれたのか。わるかったのう」と言いつつ傍らに寄り添うムサシを撫でた。消え入りそうな声ではあったが、顔は少し笑ったように思えた。

 続けてお爺さんは「わしはもう助からん。お前もここにいたら死んでしまうぞ。さあ、もういいから行きなさい」。

 しかしムサシは、お爺さんを熱気から守るように、そこから動こうとはしなかった。

 やがて近所の人の通報で、消防隊が駆けつけてくれた。お爺さんとムサシは救出をされたが、その時にはすでにお爺さんは亡くなっていたのである。

 ムサシは大好きなお爺さんを失ったことで、悲しみの底に沈んでいた。

 消防隊員が、消火活動をしているさなか、ムサシはいつの間にかひっそりと、その現場から消え去っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ